大切な人

* * * * *


 傍にはいつも良樹がいた。いつからなんて分からない。3軒挟んだ近所に家があり、何より母親同士が親友のように仲が良かったというのが大きかった。


 良樹が幼稚園生の時に私は生まれた。良樹はまだお母さんのお腹にいる私に語りかけて、生まれるのを楽しみにしてくれていたと聞いたことがある。生まれてからは毎日のように私に会いに来てくれたこともあり、日本での写真は私と良樹が同じ枚数でアルバムに並んでいる。


 私が幼稚園に入る頃、良樹は小学生だった。幼稚園バスの迎えはいつもお母さんで、バスが停まる先には数人の母親たちが並んでいる。灰色の可愛い帽子のゴムが当たって痒い首元をかきながら、同じ地区に住む子たちと一緒に先生に大きな声で「さようなら」を言って、ウサギやゾウが描かれた黄色のバスから飛び降りる。それぞれに差し出れた優しい手を握って、私は帽子と同じ灰色の制服を揺らして家路を歩いていく。

 家に帰った私を、お気に入りのぬいぐるみと、絵本や積み木が待っている。それで遊んでいる内に良樹が帰ってくる時間になり、ピンポンと弾けるチャイムが鳴るとお母さんがドアを開く。そこから飛び出す、リズミカルな足音。


 ──ひろこ。ひろこ。


 綺麗な黒のランドセルを揺らしながら、そう呼んで小学校指定の青い帽子をかぶった良樹が私の方へと駆けてくる。両親が共働きの良樹は、両親のどちらかが帰ってくるまで私の家に預けられているのが常だった。


 ──おばさん、ひろこと遊んでくるね。


 そんな言葉と一緒にこちらに良樹の手が伸ばされる。強く頷き、母親の笑顔を見てから良樹と一緒に駆け出す、幼い日の私。近所に住む良樹の友達の皆に混ぜてもらって遊んでいた。毎日が楽しく、この時間が待ち遠しかった。


 そして小学校に入る前、6歳の頃に私はエジプトへ。良樹は11歳、小学5年生の時にアメリカへ渡った。どちらも父親の仕事の理由だ。突然の環境の変化に体調を崩していた期間は、いつも傍にいた良樹がいなくて寂しかった。友達もいない。言葉も良く分からない。日本に帰りたいと何度母に泣きついたか知れない。

 それでも人には慣れというものがあって、私は気づかぬ内にエジプトの土地が、砂漠が、太陽が好きになっていた。良樹も同様にアメリカの色に染まっていった。

 アフリカ大陸と北アメリカ大陸、それだけ離れていても、私たちは傍にいた。直接会うのはお盆や正月に互いに家族で日本に帰る時くらいであろうと、電話で他愛無い会話を少なくとも月に一回のペースで交わす。ネット回線が発達すると動画でお互いの顔を見ることができるようにもなった。悩みの相談も、笑い話もした。世間話も愚痴も、笑ってしまうくらい些細な理由の喧嘩も。エジプトとアメリカと日本の文化の違いに驚いたり、突っ込んだり。時には両親も良樹と喋って、話して。良樹の金髪碧眼の彼女の相談も聞いて──。

 時差7時間の距離があっても、これだけ繋がっていられる。そう思っていた。


 重ねた日々に絆があった。けれど、この絆が、この関係がこれからもずっと続いていくのだと疑わなかったあの頃は、もう遠い。私の手が届かない遥か彼方に薄れてしまった。

 膝の上に置いたタウレトの青さを、私は繰り返し撫でている。撫でて赤ちゃんが戻って来てくれることなどないと分かり切っているのに、未だに手放すことが出来ないでいる。緑の庭に向き、傍の円柱に寄り掛かる私の身体は、神経が擦り切れたのか何も伝えてくれない。太陽を浴びた床は白く、ほんのり暖かそうに見えるのに、それを感じなかった。昇りゆく太陽は私の背中の影をゆっくり、そして確実に伸ばしていく。床の白さを蝕むように黒さで侵しながら。


『──ヨシキが、弘子を流産させるために薬を』


 私のお腹にいたあの子を殺したという良樹の話が、途切れることなく脳内を徘徊する。記憶とメアリーの話の中の良樹が違い過ぎて、分からなくなっていた。何かの間違いかもしれない。メアリーの勘違いかも知れない。だって良樹はそんな人ではない。しかし、泣いていたメアリーの証言は決して偽りをまとったものではなかった。葡萄園の下で見た初めて目にした良樹の表情。思えば、あれも見たことのない、私の知らない良樹だった。

 あの人が、やったのなら。私に薬を飲ませて流産させたのが、良樹だったのなら私は──。

 じわじわと胸から這い上がってくる感情が怖くなって、青い人形を包む指に力を込めた。


 今、彼が良樹を探している。カーメスやセテム、その他の数少ない人々に命じて、真実を問い質そうとしている。あの子を、殺したのか。その答えを。

 覚悟をしなければと思うものの、告げられた話が真実だと肯定されてしまったら、自分がどんな行動に出るのか想像出来ないことが恐ろしかった。

 その時私は一体何をする。泣き出すだろうか。喚き散らすだろうか。更に問い質すだろうか。

 分からない。知らない感情がある。知らない想いがある。醜い、認めたくないものがこの胸に眠っている。

 柱に右手を添え、左腕にタウレトを抱きながら足に力を込めた。このままでは自分がおかしくなってしまいそうな気がした。中に入ろうと立ち上がって歩を進めようとする足は馬の子のもののように頼りない。立つや否や眩暈が襲って来ても、柱に向かい、じっとしているとそれはすぐに治まる。これにも随分と慣れた。

 少し先を見たら、獅子の足が彫られた机とその上の短剣が目につく。歩いて、木製のテーブルにタウレト置いた私は、短剣の柄と鞘に触れる。同時に指の影もその後ろをついて流れる。

 オシリスの息子ホルスが邪神セトを倒すために使ったとされる、守護神ウアジェトの眼。王家の花であるハス。強さの象徴、獅子の足先。美しく彫られたそれらの文様を、順に指先が伝った。

 意味なんてない。ただ、何かしらをしていないと、手放した風船のように正気がどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。


 ふと、風が吹いた。少し強めで、背中にあった髪が数本、吹かれて顔の前に落ちてくる。久々に耳に届く草木のざわめきだった。指を止め、風の声がいつもと違っているのに気付いた。穏やかさがまるで無くて、いきり立つ悲鳴のようだ。

 無意識に後ろの庭を振り返る。背に垂れた髪が衣に擦れる音がした後、私の網膜に映し出されたのは、白い光が溢れた庭に浮かぶ漆黒の影だった。逆光のせいで長い影は黒さを増し、それが人間だと気付くのに時間が掛かった。

 誰もいないはずの場所に人がいる。彼でも、セテムやカーメスでもない。


「誰……」


 呟くように尋ねれば、影はこちらへ歩み、庭から部屋の日陰へと足を踏み入れた。日陰に入って、ようやく現れるその人の全身。風に乗るさらりとした短い黒髪。私を静かに見据える瞬きの無い濃褐色の瞳。目にした姿に、私の呼吸は止まる。


「──弘子」


 相手の唇が動き、私の名を声にした。声の響きに自分の背筋が怯えるように跳ねた。

 また風が吹く。相手から私の方へと、やけに冷めた風が吹き込んでくる。辺りの植物のさわさわという音と共に、部屋を飾るヤグルマギクの青紫が視界の端でそよいだ。


「久しぶり」


 影は口元に緩やかな弧を描き、目を細め、こちらへ歩む。


「迎えに来た」


 良樹は言う。穏やかさの溢れた爽やかな笑顔で。幼い日と同じ仕草で、同じ口調で、良樹は私の前にいる。

 夢でも見ているのではないかと思った。この部屋はただでさえ数人の兵が囲むようにして見張っているはずなのに、捜索されている良樹が入ってきている。

 どうして、と。並ぶのは疑問ばかりで解決まで辿りつかない。

 一歩。また一歩。混乱して何も言えず、身体を固めたままの私のもとへ良樹は進む。すぐ目の前まで来て私の顔を見るなり、眉が八の字に動いた。可哀想だと言わんばかりの慈愛が滲む眼差しがこちらを向いている。


「随分、痩せたな……大丈夫か」


 伸びてくる大きな手。焼けた肌とは違って、掌だけは私と同じ色。変わりのない、優しい表情。だが、頬に手が触れる瞬間、メアリーの言葉を思い出した私は身を縮めてその手を避けた。

 大きく息を吐き出し、一足下がって距離を作る。


『──ヨシキが弘子を流産するように薬を』


 あの子を、殺したかもしれない人。

 良樹は私の反応に何も言うことなく、穏やかな眼差しに別の色を混ぜた。素顔を覆っていた薄膜がはらりと落ちたように表情から穏やかさが薄まっていく。その様子に恐怖心が芽生えた。


「お前を連れ帰るために来たんだ」


 言葉を発するほどに、良樹の表情がますます無に近づく。取ってつけたような微笑みが消えていく。


「ここにいたらお前は歴史の波に飲まれる」


 私を連れ帰るためにここにいる?違う。私が聞きたいことはそんなことではない。どうして良樹がここにいるのかでもなく、ここへ来ることが出来たのかでもなく、私が知りたいのは、あなたの持つたった一つの答え。怯みながらも私はそれを一心に求めている。


「一緒に行こう」


 差し出された手を見据えたまま、私は言葉を探す。

 真実を、聞かなければ。


「……良樹」


 身体を支えるように隣のテーブルに手をついて、低い声で呼んだ。良樹の表情が少しだけ動き、固くなる。


「聞きたいことが、あるの」


 相手の足元に落としていた視線を上げて、良樹の顔を捉えた。


「メアリーに、私が流産するよう、薬を……」


 声が震える。テーブルに置いていた手が拳になる。


「薬を、渡したのは……良樹?」


 自分の声には、悲しみと迷いが絡みついていた。ぐるぐると喉やら腕やら脚やらに巻き付いて解けない。


「良樹が私の、赤ちゃん……私に、流産させたの……?」


 あの時抱いたあの子を思い出して、枯れ果てたはずの涙が視界を曇らせた。唇を噛んで相手を見つめる。

 私の問いかけに、良樹は一度伏せた目を静かにこちらに向けて、その中に再び私を映し出した。永遠とも思える数秒の沈黙。自分の鼓動と、噛みしめられる唇の悲鳴だけが鼓膜で大きく鳴っている。


「行こう、弘子」


 何事もなかったかのように、良樹は私に手をすっと差し伸べる。何の感情も持たない、何も示さない表情で紡がれた応えは、答えではなかった。それで悟る。悟らざるを得なかった。


「……良樹が、やったの」


 良樹は、昔から言わなくても分かることと、言いたくないことを聞かれた時は話をはぐらかす癖があった。


「殺したの……あなたが」


 良樹は答えない。無言の肯定を微塵も揺るがない表情で伝えてくる。

 心が悲鳴を上げた。身体に響く金切り声に、自分が崩壊する。

 テーブルの上で小刻みに揺れる手をあの子のいたお腹に添えて、そこを包む衣を握りしめ、良樹に視線を向けた。視線の色はきっと憎しみの色。抱いていた悲しみは今、憎しみに変わった。何かの間違いだとか、勘違いだとか言う考えは津波に押し流されたようになくなって、その代わりにどす黒いものが私の胸を蝕む。


「どうして……」


 瞼に浮かべていた幼い良樹の笑顔が、黒い海に投げ捨てられる。沈む。


「どうして、メアリーを遣ってまで……」


 メアリーは憎しみの矛先を私に向けていた。殺そうとしていた私ではなく、あの子が死んでしまったのを見て、自分のしたことに初めて気づいたと言っていた。

 声を震わせる私に、固く結んでいた良樹の口が開く。


「メアリーはお前に復讐が出来れば何でもいいと言って自ら薬を手に取った。彼女をそこまで追い詰めたのは、お前だ」


 私がメアリーを追いつめた。それは揺るがない事実だ。だから私を殺そうとした彼女を憎めないと思った。でも良樹は初めから、お腹の子を殺そうとしていた。良樹が憎く思っていたのは私だったはずなのに、どうして矛先が生まれてもないあの子に向けられたのか。


「俺もそれだけの覚悟が彼女の中にあるのだと思ったから渡した。なのに、」

「私が憎いなら私を殺したら良かったじゃない!!」


 床を蹴って、良樹に掴みかかった。胸元の衣を掴んで大きく揺さぶる。


「メアリーと同じく私を殺せば良かったじゃない!どうしてあの子だけを狙ったの!どうして!!」


 あの子は生きているはずだった。今頃もお腹の中で大きくなっているはずだった。

 ああ、動いてる。あと少しで生まれるね。そんな会話をしていたはずだった。あの子が生まれてから私だけを殺してくれれば良かったのに。


「どうして殺したの……!!」


 良樹は一つも顔つきを変えることなく、私を見ているだけ。揺さぶられているだけ。


「答えて!!」


 その胸を大きく叩いた途端、良樹が私の手を掴んで、口を開いた。


「お前を守るためだ」


 その手はメアリーのもの以上に冷たくて、ざわりと肌が騒ぐ。


「俺が守りたいのは弘子だけだ。古代人との間の子供なんて生まれたらお前は確実にアンケセナーメンの道を歩む。そんなことはさせない。だから」

「あの子に何の罪があったって言うの!一体何が!」


 もう涙も、声も止まらない。怒りが、憎しみが止まらない。掴まれた手を振り払おうと、もがいて相手に抗った。思い浮かべるのはこの手に抱いた、茶色くなった小さなあの子のこと。


「私のお腹に5カ月いたの!生きていたの!!でも死んでしまった!良樹の薬で!あなたがあの子を殺したの!!」


 必死に祈っていた。5カ月間、健康に生まれてくるようにと。この腕に抱く日のことを。産声を、笑い声をこの耳で聞くことを。ただただ、それだけを。そんな当たり前が、私の望みだった。


「返してっ!!」


 憎くて、憎くて、堪らない。


「返して!!あの子を返してっ!!」


 嗚咽で咽り、一瞬力が抜けた時だった。良樹の腕が突然私の腹部に回って、抱き締められる形で抑え込まれる。慌てて逃れようとするのに、口を塞がれて自由を奪われる。


「ここを、出る」


 耳元に重々しく囁かれた。良樹が、私を無理にでもここから連れ出そうとしている。


「やっ……」


 口を開いてそこを覆う指に噛みつく。腕の中から四つん這いで這い出してもすぐにまた捕まってしまう。

 嫌だ。こんな人の言いなりなんかになるものか。あの子を殺したこんな人なんかに。

 無理に腕を振り上げ、相手を叩いて。蹴り飛ばして。それでも床に押さえつけられて、口を塞がれて。


「いや!!」


 無我夢中で足を動かしていたら、それが当たって傍のテーブルが音を立てて倒れた。タウレトが落ちて、床に青が砕ける。続いて私の眼の前に剣も音を立てて落ちてきた。


「王妃様!?何か、御座いましたか!?」


 音と声に気付いてか、侍女が遠くの扉から呼びかけてくる。それに注意を取られ、力が緩んだ良樹をそのまま突き放し、手を伸ばして剣の柄を引っ掴んだ。掴んだ途端、また良樹の手が伸びてくる。それを拒むように鞘を抜き捨て、私は剥き出しの切っ先を相手に向けた。

 解き放たれた、銀の刃。銀が映った良樹の瞳がここで初めて大きく揺らぐ。何を言っても、どれだけ叩いても表情を変えなかった良樹が、変化を示した。


「……弘、子」


 仮面が外れ落ちたかのように、良樹の顔に生々しく、痛々しい表情が灯る。


 ──俺を、殺すのか。


 そんな声無き声が、聞こえた気がした。剣を抜いた反動で掠ってしまったか、良樹の腕には細く長い傷から流れ出る真紅の線があった。血だ。


「王妃様!?」

「お返事を!」


 怖いほどに乱れる自分の呼吸。頬の、乾いた涙の跡が痛い。良樹の腕に流れる血が床に滴るほど、剣を持つ手が震えた。

 ここでやっと掴んだ。さっきまで抱いていた疑問の答えを。良樹が私のあの子を殺したのなら、私は。蜘蛛の糸一本で繋がる理性を手放したら、私はきっと。

 良樹を、。殺して、しまう。

 小さな悲鳴を上げ、私は剣を抱いてそこに蹲った。全身が震え出すのを感じていた。

 分からない。自分が今、何をしようとしているのか。


「あなたが、憎い……」


 憎い。心から憎いと思う。それでも私にこの人は殺せない。殺したくはない。どんなに憎くても、大事なのだ。どんなに酷いことをされても、この人はあまりに大切な人なのだ。


「……行って」


 涙が散っていく。良樹が憎くて堪らない。自分が怖くて堪らない。


「私の前から、去って!!お願い!!」


 泣き叫ぶようにそう言うと、「弘子」と、良樹の掠れた呼び声がした。絶望の底から吐き出されたように揺れていた。


「このままではあなたを殺すわ!!」


 こちらを映す見開いた瞳が、もっと大きくなる。私は足元に散らばったタウレトの青い破片を引っ掴み、良樹に向かって投げた。


「行って!!!」


 ぱらぱらと待った青い欠片の中、よろよろと立ち上がった良樹は、帰ってきた彼と侍女が入ってくると同時に、庭の方へとその足音を消していった。


「ヒロコ!」


 良樹と入れ違いに彼とネチェルが入って来て、床に伏せるように咽び泣く私に駆け寄った。彼に抱き抱えられても涙が止まらなかった。彼の腕に抗うように、私は声を上げて床に泣き伏した。


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