母へ

 見上げれば、満天の星が視界を覆い尽くす。大きめの光の間に小さなものがいくつも散らばり、まるで空にソーダ水を零したかのように瞬きと輝きが繰り返される。この空の先には宇宙と言う無限の空間があり、数千年後、人々はそこへ足を踏み入れる。この美しい黒を人類が破ることなど、この時代の誰が想像しただろう。


「綺麗ね」


 床に座り、柱に身体を寄り掛け、お腹に手を置いて語り掛ける。

 もう耳は聞こえているだろうか。まだ見ぬお腹の子がこの声を聞いているかもしれないのだと思うと、少し不思議な気分になった。

 そうやって一人、空を仰いでいると自然と昔のことを思い出す。いつだったか、母に「男の子に生まれれば良かった」とぼやいたことがある。生理が始まったくらいの年頃だった。面倒で、気分が悪くて、生理なんてものがない性別が羨ましく感じて、洗濯物を畳みながら微笑む母に、そう思ったことないのかと問うたのだ。


『全くないって言ったら嘘になるけれど、お母さんは女に生まれて心から良かったと思うわ』


 目を閉じれば、母の横顔が瞼のすぐ裏に現れる。独特な強さを宿す視線は、畳み欠けのタオルの生地に向けられていた。


『女の子の身体は凄いのよ。だって赤ちゃんを産めるんだから』


 タオルから私に顔を向けて優しい微笑みをくれた人。「それはそうだけど」と返した当時の私は、分かったふりをして結局は何も分かっていなかった。そんな私の心情も母にはお見通しで「いつか、必ず分かる日が来る」と笑ってくれたあの時。そして今、母の言う通りだったと心から思える自分がいる。女として生まれて良かった。命を産める身体に生まれて良かった。

 空を見上げ、空に両親を想った。遠い星の光に、数千年の時を越えて届くものがあるのなら、ここから発信する私の声も届くのではないか。時代を飛び越えて届いてくれるのではないかと、僅かな願いを抱いてしまう。


 ──私、赤ちゃんを産むのよ。お母さんとお父さんの孫になる子なのよ。


 流れるように両親に守られて過ごしてきた日々が甦って来て、会いたい衝動に駆られることがある。

 どれだけ自分が愛情に包まれて育てられてきたか。どれだけ大切に守られてきたか。お腹の子に抱く想いを、母も私に抱いてくれていたと思ったら急に熱いものがこみ上げてくる。そんな両親から離れる道を選んだけれど、今も私は母の愛を感じている。ぬくもりがまだこの身体にあるような気がする。見守られているような気さえする。そうであってほしいという、私の願いがそう思わせているのかもしれない。

 少しでいい。ここにいる私から、何かを伝えられたなら。


「どこにいるかと思えば、こんなところにいたのか」


 黄金の音がして、振り返ると彼がいた。


「あら、お帰りなさい」


 今日は遅くなると聞いていたからもう少しかかると思っていた。


「お帰りなさい、ではない。もう寝ているとネチェルから聞いていたのに、寝台にいないものだからどれだけ私が驚いたか」

「ごめんなさい、眠れなかったの」


 彼は仕方がないと眉を下げると、私の隣に腰を降ろした。


「星でも見ていたのか?」


 夜でもはっきりと見える淡褐色は天へと投げられた。私も彼に向けていた視線を空に移し、彼と共に夜空を仰いだ。


「今日は少し曇っているな」


 これが曇っていると言うのなら、私の生まれた時代の空に晴れている日など無くなってしまう。

 隣に腰下ろすあなたはきっと想像もしないだろう。これだけある星たちが、遠い時代で姿を消してしまっていると言うことを。忘れ去れてしまうということを。私の両親の上にあるだろう未来の空は、晴れていてもすかすかしていて、少し寂しい。


「……お母さんとお父さんにね、」


 未来で見えなくなるほどの小さな星を見つめ、両手でお腹を包んでそう零す。


「この子の顔を見せてあげられないことが、ちょっとだけ残念に思ったの」


 ちょっとだけだなんて嘘だ。それでもこの嘘は、私の細やかな見栄でもある。

 淡褐色がこちらに向くのを感じながらも、私はそちらに目を向けることなくお腹を撫でている。夜風が行く。私の髪を、頬を掬って吹き行く。

 エジプトの風は場所によって含むものを変える。都ならばナイルの青さ。砂漠近くなら、黄金の砂。エジプトの色たちは風に乗って私たちに何かを伝えてくれる。

 口を噤んだ時間がちょっとばかり続いてから、彼が隣にごろりと寝転がった。草原にでも寝転ぶかのように腕を頭の後ろにやって、瞬きの少ない瞳を天井に向けている。


「案外、母親はお前を見ているのかもしれぬ」


 隣を見やると淡褐色がこちらを向いて暗さの中に灯った。


「母と子という絆はそれほど弱いものではない」


 私と母の絆。こんな私にもまだあるだろうか。繋がってくれているだろうか。


「赤子はすぐに死ぬことが多いために、私の母は産む前から私が病にかからぬようにと、長く生きるようにとずっと願っていたらしい」


 確か彼の母親は14歳で妊娠して、彼を出産して亡くなっている。


「そのおかげか私は無事に生まれ、今でも大きな病に罹ったことはない。兄も姉も、父も母も死んだが、私だけは今を生きている」


 エジプトのどこかで発掘された親子像を思い出した。母親と父親が生まれた子供にキスをするレリーフ。それを見た時はあまり興味がなかったが、今思えば、あれは古代も現代も変わらない親子の愛情の証拠だ。彼の母親もまた、ただ無事にと何度も願ったのだろう。たとえそれがまだ見ぬ子であろうとも。いつの時代でも変わらぬ子を想う気持ちがそこにあり、今も彼の中で息づいている。


「もしかすればこれは母の成せる業なのかと思ったことがある。祈ってくれた故なのではと。像でさえ残っていない、私を産んですぐに死んだ母だが、その想いがまだ私を守ってくれているようにさえ感じる」


 そこまで言った彼は気難しい顔をしてまま口をへの字に閉ざした。どうも言いたいことがちゃんと言えてないという顔だ。小さな唸りを鳴らした後、自分の髪をぐしゃぐしゃにして片腕で目頭を覆った。


「だから、お前の母は遠い時代の先から私たちを見ているだろうから、そんな顔はするなということだ」


 ぶっきらぼうなその口調が、出会ったばかりの頃に重なる。泣いてばかりの最初の私に、怒り気味でありながら、何だかんだで彼は似たような口調で慰めてくれていた。

 つまりは元気を出せと言いたいのだろう。しみったれた顔をしていたことが、この人には丸わかりだったのだ。

 

「そうね……そうだといい」


 そろそろ寝具に入ろうと、隣の人に声を掛けようとした時、彼は上半身だけを腕を立てて起こして、うつ伏せの状態で私に腕を回してきた。お腹に目線の高さを合わせた顔を顰め、そこに手をやっている。首を傾げ、今度は右の方に移動させて、ますます眉間に皺を寄せて、まるでお腹と睨めっこしているようだった。数分間、ずっとその繰り返しをしていて、その面白さについに私も黙っていることが出来なくなる。


「どうかした?」

「いや、ネチェルから子は動くと聞いたからな。もう動くだろうと思っていたのだが……動かぬとなると女かと」


 それを聞いたら、笑いが口から出てしまった。あまりにも深刻そうな表情だったら何事かと思っていたのに。


「男の子でも女の子でも動くの。動かないのはまだ時期じゃないだけよ」


 胎動は私もまだ感じていない。そうなのかと、彼は真剣な顔をして顎を掴み悩む素振りを見せる。


「私が母の腹にいた時はよく動いていて、父がこれは男だと言い当てたらしいが」

「あなたはお腹にいる時から暴れん坊だったのね」

「生まれてからも父と兄が呆れるほどだったぞ。走り回っては兄やカーメスを心配させた」


 にかっと頬を引いてから両腕を私の腰に回して、彼はお腹に耳を傾ける。その長いまつげが頬に影を落とすのを見て、つい愛おしくて私は彼の髪を撫でた。固めの髪は決して触り心地が良いわけではないけれど、触れば触るたびにもっと感じていたいと思わせる。でも、生まれてくる子が女の子で、この髪質を受け継いでしまっていたら手入れがちょっと大変そうだと苦笑してしまった。


「きっと、あと少しで動くようになるわ」


 あと五か月もすれば会えるあなた。

 出産のときに聞けるだろう、産声を思い浮かべる。耳にしたら泣いてしまいそう。その瞬間が待ち遠しくてならない。


「いい加減、寝るか」


 彼がよいしょと身体を起こし、私と向かい合って座った。


「身体を冷やしたら元も子もないからな」


 頷いて差しだされた手を取り、私と彼はゆっくりと立ち上がる。繋がれた手が、とても暖かかった。

 私が今、心から思うことは、遥か遠い昔から続く母という存在が、涙が出てしまうほど偉大なものだということ。命を産み、育て行く無償の愛というものが、何よりも掛け替えのないものなのだということ。

 私もそれに違うことなく、命を懸けよう。愛しい命を産むためにすべてを懸けよう。

 遠い、遠い時代の果てにいる私のお母さん。あなたに、この産声が届くよう。


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