犠牲

 砂漠のほぼ中心にあるというオアシスに到着したのは、陽が完全に沈んだ頃だった。昼間ならば明るい緑に包まれ、木々の生い茂っているはずのその場所はすでに夜の闇に沈んでいる。本来ならそれなりに広い場所であるはずなのに、隙間がないくらいに宿泊用の天幕がいくつも建てられており、私たちは先に到着していた30名ほどの兵士に出迎えられた。

 馬から降りると、思った以上に自分たちが砂だらけになっていることに気付いた。加えて、地面に降り立った今でも馬に揺られているような感覚が残ったままで違和感が拭えない。

 自分で手綱を握っていたわけではないのに、慣れない馬に乗っての長時間の移動だったせいか、オアシスに到着した途端にどっと疲れが押し寄せ、立っているのも儘ならない状態の自分に驚いた。首から下を切り落としてしまいたいくらいにとにかく全身が痛くて重い。馬に乗って手綱を握り、ここまで皆を率いて来たにも関わらず、ぴんぴんしている彼を、素直に凄い人だと思えた。


「姫様はそもそも馬に跨られるようなことはなさいませんもの。生前によく馬に乗られていたとは言え、お疲れになられるのも仕方のないことですわ」


 用意された天幕の中でも一番格上だと思われる暗い紫色の天幕に入り、疲れ丸出しの私に、世話係としてついてきた侍女二人が口を揃えて言った。

 砂に汚れた上着を脱ぎ、夕飯を用意している間に寝巻に着替えてしまおうと身に着けていたものを侍女に手伝ってもらいながら外していく。


「ファラオは馬によく乗られている御方です。どこまでも駆けて行ってしまいそうなくらいに乗りこなしもの、慣れていらっしゃるのは当然ですわ」


 馬に乗ることをもっと簡単なものだと私が思っていたのは、侍女の言う通り、いつも飄々と馬に跨って颯爽と走り抜けて行く彼を見て来たからだろう。どこまでも、どこまでも馬に乗って駆けて行く彼の姿がありありと思い出される。


 天幕の中はそれほど広いはなく、脚のないソファーがどっぷりと大きく入っているだけで、ふっくらした寝台が中全体を埋め尽くしているような空間だった。唯一地面が見えている平らな部分に食事が置かれるのだろうと腰を下ろしながらぼんやりと考える。本当に寝るためだけの場所と言った感じだ。

 出来上がった夕食が、天幕の中の私にまで運ばれてからしばらく経つと、馬を降りて以来話し合いがあると言っていた彼がようやく天幕に現れた。

 上着は着たまま、よくよく見れば髪にも砂が残っており、表情もどこか固く、重々しい雰囲気があった。


「どうしたの?」


 そんな姿に驚いて慌てて駆け寄った私に彼はほっとしたかのように弱々しく笑った。この人には似つかわしくない笑みだ。


「待たせたな」


 私に手を伸ばして髪を撫でる。


「色々とやっていたら着替える時間も無かったのだ」

「お疲れ様。とにかく着替えましょ」


 上着を脱がせて侍女に着替えを用意させた。水を汲んできてもらい、顔や髪を拭いて砂を落としていく。


「何かあったの?」


 ようやく落ち着いて食事を取ろうとなった時に尋ねてみた。


「問題はない。それよりも食事が冷えてしまう、早く食べてしまえ」


 はぐらかされて、彼と隣り合って食事を取る。いつもなら侍女や女官たちが周りに控え、セテムやナルメルが目の前に立ってるのが普通だったのに、皆と別れた今はたった二人での夕食だった。

 食事をとる私の隣の彼は、口開くことなくじっと宙一点を見つめ、ほとんど食事に手を付けていない。灯り代わりの小さな炎が揺れて、手つかずの葡萄や肉料理をぼんやりと炎の色で照らし出している。大好きな葡萄酒も置いてあるのに一滴も飲まず、私だけがちょぼちょぼとパンやら果物を摘まんでいる状態だった。柔らかいクッションのような生地に身体を預けてはいるものの、彼の目は一向に鋭さを保ったまま何かを待っているかのような色を宿している。

 いつもなら冗談のひとつやふたつ言ってくる彼を思えば、やはり何かあったのだと心配になった。


「ねえ、アンク」


 もしや気分でも悪いのかと心配になって躊躇いがちに呼びかける。


「ん?」


 呟きに似た返事と共に、彼の視線が私に向いた。


「やっぱりあなた変だわ。何があったの」

「いや」


 顎に手を当てて、彼は首を振る。私に笑みを浮かべるものの、彼の中でぴんと何かが張っているようで、いつもと様子が違うことは明らかだ。アケトアテンにいた頃から芽生えていた違和感は今、確信めいたものになっている。


「ヒロコが思い悩むことでない。今夜は先に寝て構わぬぞ。慣れぬ長旅だったのだ、疲れているだろう」


 やっと手を伸ばしてお酒を口に含んだ。それでも少量飲んで杯を置いてしまう。浴びるように飲む姿が当たり前なのに、今日はわざと酔わないようにしているようだ。


「あなたの方が疲れているでしょう?明日も早いんだもの、休まなくちゃ」


 何時間も砂漠の中を先頭切って進めてきた彼の方が私よりも疲れているに違いない。彼に身体を休めてほしいというのが正直なところだった。


「私は来るはずの知らせを待たねばならぬのだ」


 私の腑に落ちない表情を見てか、立てた膝に手を置いて彼が告げた。


「知らせ?何の?」

「大事な知らせだ」


 伏せがちだった睫毛をゆっくりと上げて、彼はまた一点を細めた淡褐色で見つめながら頷く。


「必ず、今夜の内に来るはずなのだ」


 今夜の内に必ず来ると予測できる知らせ、ということだろうか。そう考えるとますます分からなくなってくる。いつも堂々と構えている彼を、こんなにも緊迫させる知らせとは一体何であるのか。


「もしや、ヒロコ」


 真剣に考えを巡らせていると、不意に声がかかってきて顔を上げる。上げた視線の先では、彼がこれでもかと顔を近づけていた。葡萄酒の独特な香りが相手の吐息から香る。咄嗟に後ずさろうとすると褐色の腕が素早く私の手首を掴み取り、あっと言う間に私の身体を引き寄せた。


「どうしたの。急に」


 背をのけ反らせて問う声は、ひっくり返ってしまっている。


「もしや私の腕がないと眠れぬかと」


 私を自分の膝に乗せ、私の髪を長い指に絡めて更に顔を近づけてきた。


「いつ人が来るか分からぬ故、昨夜のようには出来ぬが、ヒロコが眠るまで抱き締めていてやってもいい」


 一気に顔を赤らめる私に、にっと口元に弧を描くこの人を見て、いつも通りだと安心する。冗談に対する私の反応に楽しそうに肩を上下させる彼の胸元を、馬鹿ねと言って軽く叩いた。


「そんな寂しがり屋じゃありません。一人で眠れます」


 顔を寄せてくる彼の唇を掌で拒んで、胸を張って見せる。その手を掴んだ彼は「つまらぬ」と言いつつ笑って、また私の髪を撫でた。


「……そうね、でも」


 一端言葉を切り、彼の膝から隣に降りて居ずまいを正した。


「起きて一緒に待ってるわ」


 どんな知らせが来るのかは分からない。彼も言うつもりはないのだろう。それでも、その知らせを待つ彼を一人で放っておけないと強く思えたのも確かだった。

 私の返答に少し驚いたように目を見開いたのも一瞬、彼は嬉しそうに微笑んだ。


「それは嬉しい。なら共に待とうか、我が妃よ」





 彼を一人にしてはならぬと意気込んだはいいものの、夜が深まっていけばいくほど眠さに頭が浸食され、日付を越えて数時間が経った頃にはこっくりこっくりと首を揺らしているという無様な状態に陥っていた。

 寝ては駄目だとはっとして私が首を振るたび、隣にいた彼がおかしそうに笑って、先に寝ればよいものをと横になるよう促す。起きていると意地になって首を横に振るのに、意に反してまた船を漕ぎ始めてしまう。


「ならば寄り掛かると良い。その方が楽だろう」


 されるがままに私は引き寄せられて彼に寄り掛かる体勢になる。体温の温かみに更に眠気が倍増して、自然と瞼がゆっくり落ちて行った。

 それから幾ばくも経たない間に私の聴覚が捉えたのは、バタバタとこちらに近づく誰かの乱れた足音だった。緊迫感が迫ってくる嫌な音だ。


「ファラオ!!」


 割れんばかり兵の声が私の眠気を吹き消して、丸くなっていた背筋が伸びた。


「お休みのところ、失礼いたします!」


 待っていた知らせが来たのだと悟ると、隣の彼はすでに顔を強張らせ、兵の影が見える紫の天幕の入口を睨みつけるように見据えていた。来たかと強く握りしめられた拳が私の手のすぐ傍にある。


「何用か」

「セテム様より緊急のご報告が御座います!」


 アケトアテンに残ったセテムから。

 何かあればすぐに伝えよという命令に深く頷いた側近の物々しい表情を思い出す。


「読み上げよ」


 兵士の、やや間誤付く雰囲気を醸し出しながら落ち着こうと深く息を吸う音が、紫の麻で仕切られていても手に取るように分かる。

 彼が寝ずに待っていた知らせだ。内容も知らない私まで、固唾を飲んで兵の返答を待つ。


「ファラオの」


 兵士の声はこれでもかというくらい震えており、こちらまで聞こえるようにと息を吸い直し、次の言葉を勢いよく大声で吐き出した。


「ファラオの父君アクエンアテン様および兄君スメンクカーラー様の墓所がアケトアテンに残っていたとみられる反アテン集団に襲撃されたとのこと!」


 思いがけない言葉に目を見張った。

 アクエンアテンとスメンクカーラー。彼の実の父親と兄であり、先代のファラオの名だ。その王家の墓が荒らされたと言う。神と同じ位に立つはずの王家の墓が、民の手によって。


「副葬品の盗難はありませんでしたが、亡きファラオたちの名が削られているとのこと!ご遺体も損傷が激しく……!その集団はすでに捕えております!その者達の処分を下していただきたいとのご報告に御座います!」


 ミイラは死後の復活を意味する大切なものだ。それを傷つけることは、死後の復活を打ち消すことだと私でも知っている──「生き返るな」と。

 つまり、民がすでに亡くなった王のミイラを荒らすことは、何よりの冒涜に値する。

 普通の盗掘者であったなら、遺体を必要以上に痛めつける必要はない。金銀財宝である副葬品だけを狙えばいいのだから。それに対して今回は盗まれたものはなく、名が削り取られ、ミイラに損傷を与えられたと言う。それらを総括すると、彼の父と兄は怨恨のために遺体を辱められたことになる。

 起きた事態の深刻さに気付き、ざわめく胸を押さえて隣の人を見上げると、彼は身動きどころか、瞬き一つしていなかった。固まったかのように唇を引き結び、噛み締めている。

 声をかけようとするや否や、ようやく彼は目を閉じ、呼吸を繰り返すと口を開いた。


「処分は首謀者のみ。あとは解放せよ」


 発せられた命令に、私と兵士の狼狽える声が重なる。


「首謀者も死罪にはせぬ。1年の牢での謹慎を命じ、それで済ませることとする。王墓修復は最低限に抑えよ。そう伝令を出せ。以上だ、下がれ」


 彼の命令に返事をして、去っていく兵の駆け足の音だけが私たちの耳に残った。違和感と、悲しさと驚きが渦巻く静けさが落ちて行く。


「やはり、狼狽えるものだな」


 独り言とも取れる声をしんみりとした宙に吐き、彼は仰向けに横たわって目頭を片腕で覆った。

 兵にかけていた声とは比べ物にならないくらいの、逆に言えば別人の声とさえ思えるほどの弱々しい声だった。


「知っていたの……?」


 彼の傍に手をついて尋ねる。自然と声は掠れた。


「荒らされることが、あなたが待っていた知らせだったの」


 しばらくあってから、小さく腕の下の顔が上下に動いた。


「分かっていた。アテンを捨てればこうなると、改革の話が出た時点ですべて。……これは私の行ったことの結果なのだ」


 腕を退けて、彼の目は天幕の暗い天井を見据える。


「民の愛する神を捨て、アテンという別の神を生み出した父は、いわば民の敵だった……父の死後に即位し、アテン崇拝を続けたその兄も同類でしかない。父も兄も異端の王だ」


 彼の言葉を聞いて、私はようやく改革の全貌を理解した。

 この人は覚悟していたのだ。改革を心に決めたその時からずっと。神を変えた父親は今でも民に恨まれ続け、その息子である自分がもとに戻したとしても、父への恨みと憎しみが反アテンの集団から消えることはないと。王家がアテンを捨てれば、それはアテンを崇拝した人を切り捨てると同じで、民が異端の王の墓を荒らすだろうということも。アケトアテンが都の名を失うその日に、民がアテンの名をすべて消すためにその行動を起こすことも。

 それが分かっていても、彼には防ぐことが出来なかった。力がなかったとか、民に臆したとか、そういう訳ではない。父や兄の墓を守って反アテンと相対することになれば、王家は再び敵視され、国は乱れる。今までの繰り返しで何の解決策にもならない。今回罪を軽いものとしたのもそのせいだ。あの場で怒りに任せ、死罪なんて決断を下していたら、アテンを擁護することになる。だから彼は自分の想いを殺して、自らその命令を下した。

 国を守るための犠牲だった。この改革は、彼にとっては耐え難い犠牲の上に成り立つものだった。その犠牲を受け止めて初めて、彼の決断は実を結ぶ。


「父はともかく、兄には……スメンクカーラーにはアメンに変えようとする意志はあったのだ。ただ、病弱で、思うように何も成せ得ぬまま終わっただけなのだ。兄にその意志を託された……そして私は王となった」


 夢の中の、彼の面影を持ったスメンクカーラーを思い出す。彼にどことなく似た顔で、儚い表情を度々見せていたあの人。何度も繰り返していた咳の音。

 とても、ファラオとして大きな改革を成すほどの体力が残っているようには見えなかった。だからこそ、その大きな使命を仕方なく弟の彼に託したのかもしれない。


「民は、その兄をも許せなかったらしい。誰も兄の真の思いも願いも知り得ないのだな」


 瞼から覗く淡褐色は鈍さを増している。


「父も兄も、国を想っていただけだったというのに」


 彼の荒んだ笑みが、悲しかった。

 上に立つ人は、皆こんな辛い思いをしているのだろうか。家族の墓を荒らされ、遺体に酷いことをされ、その修復さえ立場のために許されない。

 平気であるはずがない。

 手を浮かせ、寂しさと無力さが浮き立つその頬に触れる。頬から額へと手で辿り、固めの髪を撫でる。

 何か言葉を掛けようとしても、掛けられなかった。何を言ってあげたらいいのか私には分からなかった。それでも、何か慰めになりたいと強く願う。


「すまぬな、このようなところを見せるつもりはなかったのだ。情けないところなど見せたくはない。お前の前では強くありたい……何よりも」


 彼の浮かべる苦笑に胸が締め付けられる。


「アンク」


 撫でながら諭すように語りかける。彼の淡褐色がゆっくり私を捉えた。


「あなたは私の前では王である前に、一人の人間なのよ」


 泣かない人間などいないだろう。王であっても、神と等しい存在に生まれたとしても、人は人であることに変わらない。


「強いばかりの人がどこにいるって言うの。情けないあなたも、紛れもないあなただわ……そうでしょう?」


 謝る相手の両頬を掌で包み込み、見つめる眼差しに思いを込める。次第に彼の眉が寄り、固く結ばれていた唇が解け、震える手が重なってきた。


「少なくとも私の前だけでは、本当のあなたのままでいて」


 瞬きもなく私を映す瞳が大きく揺れる。重なっていた彼の手が私の手首をとり、今度は身体ごと引き寄せられた。


「ヒロコ」


 彼はそのまま私を自分の隣に横たわらせた。私も抗うことなく、彼の傍に身を沈める。

 彼の視線は私を捉えず、顔を少々俯けていた。ほとんどが夜に染まってしまった世界で、僅かに覗く彼の淡褐色もその色に侵されていく。沈黙を貫いたまま、私がその頬に指を置くと、彼が音無く頭を動かして私の胸に縋り付いた。背に彼の手が回って抱き寄せられ、焦げ茶の短髪が首筋をくすぐるのを受け止める。

 震えながら私を抱き締める身体が今にも消えてしまいそうで、私もその背に腕を回した。


「……ヒロコさえ」


 背中に回る腕が、さらに強く私の身体を締め付ける。


「ヒロコさえいれば良い」


 声は、こちらが悲しくなるほどに掠れ、くぐもっている。

 どうしてそんなことをそんな声なのか分かっていたから、腕を回して彼の頭をそっと胸に抱いた。


 彼は、私の存在で父と兄を失った悲しみを埋めようとしているのかもしれない。それでもやっぱり家族の存在を、私で埋めることは出来ないだろう。私も、彼の存在で自ら断ち切った両親を忘れてしまおうとしても、どうしても出来なかった。今も心のどこかに必ずいて、両親がいたからこその自分なのだと知る時がある。どれだけかけがえのない人たちだったかをその度に思い知らされる。

 ましてや、二人は彼にとって大きな存在だった。民を愛し、平等を唱えて神まで変えた父と、王族としてのあり方を諭し、王への道を切り開いて手渡してくれた兄。そんな大きな二人を私一人などで埋められるはずがない。それでもと、短い髪を撫で、彼の髪に唇を寄せた。濡れた睫毛が愛おしい。溢れる感情のまま、髪や額に唇を押し当てた。

 この人の止まり木になりたい。弱音を吐ける存在でありたい。


「……そうだ」


 突然、私の腕の中で彼は小さく声を発した。


「分からぬようにしよう」


 私に顔を埋めたまま、彼は細々とした音を見えない唇から流していく。独り言のようだった。


「名を消し、金箔も剥が……埋葬品も取り払い……ミイラの腕も変えさせよう……女を示すものに」


 名前を変えれば、それが誰のミイラか判別がつかなくなる。

 男女でミイラの腕の配置が違う。遺体の腕の配置さえ変えれば性別が有耶無耶になり、男のミイラを探す人々の目から逃れられる。埋葬品がなければ、王族の墓だとは誰も分からない。

 それが家族の遺体を守る、唯一の方法。


「……さすれば、誰も荒らしはせぬ」


 もう、誰も。誰も。

 そう、繰り返し呟く。


「手出しは出来ぬ」


 呟く声が、泣いていた。

 決して人前で涙を流さないその人の気持ちが、腕と胸に触れるぬくもりから痛いほど伝わってきて、彼が寝息を立て始めるまで、私は力の限り抱きしめていた。








 朝、私が目覚めると、腕の中に彼がいなかった。抱き締めて眠っていたはずなのに、腕は空っぽで誰もいない。乱れた髪を掻き上げ、あたりをぐるりと見回しても求める姿はどこにもない。

 天幕を貫いて床を照らし出している僅かな朝陽を見て、大きく息をする。真っ暗だった世界は、すっかり明るい世界に姿を変えていた。


「お目覚めですか?」


 振り向くと、天幕の入口の方に侍女が衣装を持って微笑んでいた。


「ご支度をしてしまいましょう」


 太陽の位置から察するにそこまで遅い時間に起きた訳ではないのに、まるで一番起きるのが遅かったかのような雰囲気だ。

 よく眠れたかどうかやら、今日の日程やらを侍女から一通り聞かされながら着替えていく。


「ファラオならば他の天幕にいらっしゃいますよ」


 そわそわした私の様子に気づいて、侍女が教えてくれた。どうやら早朝に来客があり、離れたところにある天幕にいるとのことだ。

 準備を終えるなり、侍女と共に急いで彼がいるという場所に向かった。擦れ違う兵たちが頭を深々と下げる姿に、挨拶を返しながらとにかく小走りで進む。

 昨夜あれだけ気を落としていた彼が心配で、流れる天幕の入口に手をかけると、彼の声が聞こえてきた。


「都の様子は」


 いつもと変わらない、威厳を保った声音に一先ず安堵する。


「メンネフェルはファラオと王妃のご到着を今か今かと待ち侘び、今までに目にしたことがないほどの賑わいを見せております。お二人をお迎えする準備も万端に整い、ご心配はありませぬ。ラーの沈む前までにはホルエムヘブも獅子を狩り終え、ファラオの御前に出せましょう」


 知らない声に躊躇いながらも、そっと顔を覗かせれば、一人の男性が寝間着のままの彼に跪いていた。

 彼とは正反対のさらりとした赤毛に、彼を見つめる眼は緑。まるで欧米人を思わせるその容姿に反し、肌はエジプト人特有の褐色だ。混血なのだろうか。立派な服装と装飾品からして結構な身分にいる人物だと気付く。腰にある剣は大きく、装飾も立派。軍事関連に携わる人のようだ。


「なんだ、起きたのか」


 天幕内を覗く私に気づいた彼が天幕の入口を広げ、中に招き入れた。


「起きたらあなたがいなくてびっくりしたの」


 彼に歩み寄ると私をやんわりと片手で抱き寄せる。


「いつまでも寝ているわけにはいかぬからな。それより、メンネフェルより使者が来たぞ」


 すっかり切り替えたように彼は爽やかに笑っていた。


「メンネフェルから?」


 使者と言われた彼と同い年ほどの赤毛青年は、私に向かって深々と敬意を向けていた。橙を混ぜた赤髪は魅入るほどに綺麗だ。


「甦ってから会うのは初めてか」


 私の肩を抱き、彼は跪く使者を示す。


「呼び名をラムセスと言う。正式にはパ・ラメス。……さあ、顔を上げよ、ラムセス」


 赤毛を揺らし、使者は徐に顔を上げた。すっきりとした表情に、筋の通った鼻は印象的だ。こちらまで見惚れてしまいそうな、現代のエジプトにはいない深緑を思わせるブルーグリーンの瞳だ。


「我が国を陰ながらに支える、下エジプト軍事隊長を任じている」


 凛とした、彼と似た雰囲気を持つ使者。その深緑に私が大きく映るのを見た。


「ラムセス、妃は前とは違って記憶を失っている。何かとお前からも教えてやってほしい」

「そのお話はすでにセテムからすでに耳にしております。私などでは力不足かもしれませぬが、喜んでお力添え致します」


 固い言葉に、「相変わらずだな」と彼が高らかに笑った。


「では準備が済み次第出発とする。先頭は任せた」


 腕を組んだ彼から言い放たれた命令に、ラムセスは口元に綺麗な三日月を描く。


「我が魂に懸け、お二人を古の都へお連れ申し上げましょう」


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