家族の決断
* * * * *
『そりゃ、典型的な解離性健忘だよ、ナカムラ』
電話の向こうで、訛った英語を奏でる嗄れ気味の声に、つい懐かしさで笑ってしまった。数年前に聞いていた声や口調はちっとも変わってない。
『ころっと1年間の記憶を全部失くしてるんだろ?本人は1年も経ったなんて思ってない。そういうのを全健忘という』
「もう少し詳しく頼むよ。精神科は全く以って俺の専門外だから」
『内科でも記憶喪失は受け付けてるだろ』
「駄目、俺苦手なんだ」
断固否定すると、相手は苦笑した。
どんなに血が大丈夫でも、どんな手術でも受けて立つ自信があると言っても、心理的な面のものは1、2位を争うほどの苦手分野だった。というより興味がなかったのだ。
『内科も外科もいけるなら精神科もやっとけよ、馬鹿』
今電話を通して話している相手は、大学時代のサークルで一緒だった精神科のアメリカ在住の友人だ。弘子の記憶喪失の原因を解明するのに、専門に研究している人間に連絡しようと選んだのが、この懐かしき学友だった。
『俺ってば忙しいんだよね』
アメリカは早朝の時間帯だと思うが、カチカチとキーボードを叩く音が微かに聞こえてくる。肩に電話を挟みながらパソコンに向かっているのだろう。学生時代もよくその姿を見かけていたから、相手の様子がこれでもかと鮮明に想像できた。
「はいはい、分かってます。そこを何とか」
『絶対俺の忙しさ分かってないだろ、お前。次の学会まで論文を完成させなくちゃいけない俺のこの焦りを』
「それはそれはお疲れ様です。頼むよ、今度何か奢るから」
『……絶対だな?絶対に絶対に絶対だな?』
念を押すかのように何度も繰り返されて、自然と頬が緩む。以前も同じようなやり取りをしたものだ。どれだけ思い出せても戻れない過去だ。
「オーケー。奢る奢る、すごい感謝。ありがとう」
いい加減な感謝を並べ、1年間慣れ親しんできたディスクの上にメモを置いて右手に持った黒いボールペンでそれをトンと叩く。
『いいか?……いわゆる記憶喪失ってのは3つに分けられる』
ため息をつきながらも紡がれ始められた相手の声は低さを増し、緊張を生んだ。
『原因による分類、時間的関係による分類、思い出せない記憶の内容による分類だ。そこからまた10に分けられるんだが、この説明は面倒なんで割愛する』
記憶喪失も案外色んな分野に分かれいたことを思い出す。この複雑さが好きではなくて学生時代に勉強してこなかった。
『それでだ。お前の言う患者は記憶を失っている期間があって、その期間内の記憶すべてが思い出せない状態。これは“思い出せない記憶の内容による分類”の中の、全健忘という場合に当たる』
ぜんけんぼう。
言葉を頭の中で繰り返し、メモに書きこむ。
「主な原因は?」
『心に大きな傷を負う経験や、激しい葛藤によるものが多い。頭部外傷による発症もないとは言えないが、ここは画像で判断だな。でも見た限り何も無かったんだろ?それなら心因性になってくる』
心因性。つまりは精神的、心理的要因。
「治療法は?記憶を思い出させるよう催促する、何かいい治療はないのか」
『治療としては、催眠療法できっかけを引き出すことはあるが、実際は効果があるかは個人で大きく違う。あまり期待しない方がいいな。治癒ははっきり言うと難しい。これをすれば必ず治るってものがない』
やはり次第に思い出すのを待つしかないのか。
『その子、行方不明かなんかだったんだろう?怖い思いしたんじゃないのか。女の子だって言うし、酷い目にあって、自己防衛で脳が自ら忘れたってことも十分に在り得る』
電話のスピーカーから並べられた言葉に不安が過り、自分の膝の上で拳を握った。
『俺も話だけじゃ、あまりいいアドバイスは出来ないが、無理に思い出させない方がいいということだけは言っとくよ。無理に引き出すと逆にパニック症状を引き起こしたりして、自殺しちまう場合もあるからな。デリケートなんだよ、俺みたいに』
「……ああ」
『なんだ、いつものツッコミは無しか?……まあ、自然ってのが何より一番だってことだ。何に関する病気でも。エジプトになんていないで、緑の綺麗な日本に戻ることを俺としてはお勧めする。今のところ日常生活に支障はないみたいだし、お前のことを忘れた訳じゃないんだ、元気出せよ。薬も安定剤程度で様子見だな』
話を聞きながら、弘子を発見したエル・アマルナの管理を受け持っていた初老の男の証言を思い出していた。
弘子誘拐の犯人候補として挙げられ、警察で事情を聞かれていた彼は随分と口達者で、沢山のことを俺たちに教えてくれた。何時に、エル・アマルナのどの遺跡で、どのように弘子がいたか。それに加え、その日の温度と湿度まで。
結局、弘子の父親の知り合いでもあり、弘子が失踪した日はルクソール博物館の方に出張に出ていたらしく、弘子を誘拐できるはずがない、ということでその人は犯人から除外されていた。もともと犯人なんているのかさえ分からない事件ではあったから、逮捕しても冤罪だった可能性の方が高い。
それでも、彼の話の中で、一番耳について離れない引っ掛かる証言があった。
『──倒れていたというよりは、遺跡にもたれ掛かるようにして座っていたんですよ。誰かがそうさせたみたいに』
どんな風に弘子が倒れていたのか、と尋ねた時の答えだ。
──誰かがそうさせたみたいに。
誰かって、誰だ。そいつが弘子の黄金の光の先の行方を知っていた人間だろうか。そいつが、記憶を失うほどの何かを弘子にしたのか。憎しみや怒りに似た感情が、姿どころか性別さえ分からないそいつに向かう。
『……じゃあナカムラ、俺、もうそろそろ行く時間だからさ、切ってもいいか?また時間が出来たら電話するから』
電話から聞こえてきた学友の声で我に返った。
「ああ、ごめん。時間取らせて悪かった。また後で資料を送る。迷惑かけるな」
『いや、いいさ。……そういや、エジプトは夕方くらいか?太陽綺麗?』
急に思い出されたかのような問いかけに、自分とは相性の最悪のエジプトの太陽を求めて横の窓に視線を投げてみる。
「ああ……うん、夕暮れだ。太陽はまあまあ、綺麗かも」
やや黄ばんだ白いブラインドに遮られてはいるが、細いオレンジ色が白い病院の床に細く伸びていた。
『エジプトの太陽見れてるなんてお前最高だよな。俺も一生に一度は行ってみたいわ、そこ』
相手はアザラシが鳴いているような声で笑う。昔から変わらない独特な笑い声。
「とにかく感謝する。今度会った時必ず奢るから」
『おうよ、忘れるなよ』
「分かってるって」
短い挨拶の後、切れた電話の受話器を置き、静けさが俺の周りに戻って来たのを感じた。
自分の文字が走るメモを見つめ、もう一度1年ぶりに見た弘子の顔を思い出す。
確かに、戻ってきた。黄金に包まれた時と変わらない姿で。
しかし、明らかに何かが大きく変わっているのにも気づいていた。はっきりとは分からないが、強いて言うのなら雰囲気。まとうものが、違っている。
記憶を失ってしまった理由からか、それとも何か別の理由が他にあるのか俺には分からなかったが、それが再会できた嬉しさの中に芽生えた不安だった。
「ナカムラ!出たぞ!」
ガラッと音を立てて開いた扉から、白衣姿の男が飛び出してきた。
驚いて回転椅子から落ちそうになるのを両手で堪える。さっきまで英語だったのに、次はアラビア語だ。頭が一瞬こんがらがった。
「結果だ!」
「結果?」
俺の目の前のディスクに見事な手つきで数あるカルテと検査結果をトランプのように広げた。
「何ぼけっとした情けない顔してんだよ!お前のフィアンセの結果が出たって言ってんの!」
言われていることがやっと理解できて、息を呑んで体勢を立て直す。
今日、ここへ来た最大の目的だった弘子の結果が出たのだ。
まともにお礼も言わず、焦る気持ちを抑えながら、透明なファイルから一つ一つ取り出し、中に書いてある文字たちを読み取っていく。
検査の数値の羅列。血圧の最高値と最低値。検尿の蛋白、糖、ウロビリ。血液検査の赤血球数、白血球数、血色素量、ヘマトクリット、血小板数、平均赤血球容積、血液像。
「MRIとCTの方はお前のパソコンで見た方が早い」
彼は俺のディスク備え付けのパソコンの電源を素早くつけ、てきぱきと該当の画像を流し見る。
「ほら」
食入るように俺はその画面に顔を近づけ、映し出される画像を目で追い、何か異常がないかを確認する。カチカチと鳴るクリックの音が、やけに鮮明だった。
「見る限り、異常なしだろ?」
レントゲンを前にある白いボードに並べ、数値を手元で見比べ、頷いて返す。異常は無い。すべて基準値辺りに位置していて、間違いなく健康体。
「異常、なし」
そう言葉にしてやっと、自分の口から安堵の息が漏れた。
同時に全身から力が抜け、回転椅子にもたれ掛かり、天井を見上げて目頭を右手で覆う。緊張が一気にほぐれたような気分だった。
「良かったな!妊娠とかしてなくて!」
げらげらと下品に笑って、彼は俺の背中をバンバンと叩いた。
ぎょっと顔を上げ、婦人科から送られてきた結果を確かめる。どこからどう見ても陰性だ。
「おいおい、そんな焦るなって。俺はただ良かったなって言っただけなのに」
笑う相手を見て、また口からため息が漏れる。1年間、俺はこの男に何度振り回されてきか分かりやしない。
「1年もいなかったんだもんな!お前だって少なからずそういう心配してたんだろうが!他の男にとられてやしてないかってな」
確かに、弘子が記憶を失っていると知って、弘子の母親が一番に気にかけたのがそこだった。記憶を失くして帰ってきた自分の娘の身に、何があったのか。
とにかくこの結果で弘子の両親の負担を減らすことが出来る。
「俺までほっとするわ。今から言っとく、結婚おめでとう」
褐色の頬を光らせ、エジプト人の男は笑った。
「結婚の『け』の字さえまだ出てないんですけれど」
「いいのいいの!もう決まったもんだろう、おめでとう!」
何でも弾き返しそうなその笑みに、俺は苦笑いしか返せなかった。
「でもさ、もし妊娠が陽性だったとしても、お前ならあの子と結婚しそうだよな!それくらい好きなんだろ、え?」
顔から手を離して、掌を見つめた。陽に焼けて少し黒くなった俺の肌。雰囲気を変えた1年ぶりの弘子の顔がそこに映る。
もう離したくはない。黄金に邪魔され、掴めなかったその手がやっと戻って来たのだ。どんな経緯でかは知らないが、ここに戻ってきた。
「よし」
「ナカムラ?」
いきなり立ち上がった俺を心配そうに覗くエジプト人に、俺は微笑みを向ける。多分、自分でも一番爽やかだと思える笑みを。
「本当に色々とお世話になりました」
静かにその人を見やる。
「無理を言ったのにも関わらず、ありがとうございました」
日本人の礼儀を持って、頭を下げた。
こんなに早く結果を出せてもらえたこと。そして今までの感謝を示して。これが、最後だと誠意を込めて。
荷物をまとめ、弘子が見つかるまでと決めていた病院を出て、工藤家に帰ったのは午後6時前。辺りはもうすでに薄暗かった。
「良樹!お前も帰ったのか」
「おじさん」
先に家に帰っていた弘子の父親が車庫の方から俺に手をぶんぶんと振っていた。自分の車から俺の方へとやってきて、にこにこと今日の報告をしてくれる。
今日は警察の方に行っていたはずだ。
「今日は随分、夕陽が綺麗だったな。空が燃えてるみたいだった」
「そうですね」
病院での私物を詰めた2つの段ボールをトランクから出して両手に抱える。オレンジの線しか思い出せないが、多分綺麗だった。
「病院、辞めて来たのか?」
家の方へと歩き出す俺に、おじさんは並んで歩調を合わせて尋ねてくる。
「ええ、弘子も見つかりましたし」
話している内に、目の前に家の白いドアが迫っていた。
工藤家の玄関と外を繋ぐ一枚のドアの前に二人で並んで立ち、黙り込んだ。俺もおじさんも、思っていることは同じだろう。
「弘子、いるんだよな」
「はい」
噛みしめるように頷く。
弘子の存在。それだけを家の前に立ち竦んで、考えているのだ。
「……帰って、来たんだな」
「帰ってきました」
お互いで夢ではない事実を確かめ合うように、家を見上げながら呟いた。
「ほ、本当に、弘子が……」
震えはじめた顔に気づき、横に目をやったら、俺の右に立つおじさんの目が潤み始めていた。
娘の運動会だけで号泣する、もとから涙もろい人だったが、今回ばかりはその涙の理由が痛いほど伝わってきた。
「二人とも、何突っ立ってるの?早く入って」
しっかりとした声が、俺とおじさんのしみじみとした雰囲気を弾き飛ばし、扉を開けた。
「ドアの向こうで話し声がするんだもの、一瞬何かと思っちゃうじゃない」
エプロン姿のおばさんが冗談を言って笑っている。今までに見たことがないくらいの煌めく笑顔だ。おじさんだけじゃない、この人も元気を取り戻し始めていた。
「ほら、お父さん泣かないの。良樹もお疲れ様。早く入って。夜は冷えるわ」
おばさんは優しく頬を緩ませる。
「大丈夫、弘子はちゃんといます。今、部屋で眠ってるわ」
弘子が部屋で眠っている。告げられた事実に、おじさんが胸を撫で下し、「良かった」と小さく呟いた。
「今日の夕飯は?弘子の好物か?」
おばさんもおじさんから鞄を受け取りながら嬉しそうに頷く。
「そうよ、エビクリームコロッケ」
弘子の幼稚園時代からの好物だ。幼稚園の運動会でそれが弁当に入ってないだけで大騒ぎだったという記憶が今でも俺の中に残っている。
「でもまだ出来てないの。あと少しだから、出来たら弘子を起こしてみんなで食べましょ」
いや、その前に。弘子が起きる前に知らせなければならないことがある。
「おばさん、おじさん」
俺の呼びかけが、夫婦の会話を断ち切った。
二人がこちらを振り返り、何を言われるか悟ったような、強張らせた表情がこちらを向いた。
「弘子を起こす前に今日出た検査結果をお話してもいいですか」
蛍光灯の光だけが白く伸びる静かなリビングに、ソファーがテーブルを挟んで置いてある。俺の向かい側に、不安そうな弘子の両親が座った。
おばさんの方は結果が不安なのか、祈るように膝の上に指を組んで身を固めてしまっていた。
俺は重苦しい雰囲気を感じながらも、黒いドクターバックからファイルに入れた資料を順に、背の低いテーブルに並べて見せた。
「弘子の検査結果です。すべての値は基準値に近い値を示していますし、CT、MRI検査共に異常はありませんでした」
淡々と結果を述べていく。
「弘子は、問題なく健康です」
身を小さく固めていたおばさんがそこで大きく息を吐いて両手で顔を覆い、おじさんがその背中を擦っていた。
「おばさんの心配していた件も」
婦人科からの資料を差し出して続ける。
「陰性でした」
二人はまた肩を撫で下ろした。
おばさんの方は安堵のためか、すでに目に涙を溜めている。
「記憶喪失の件もアメリカの精神科医に電話で尋ねてみたんですが、おそらく原因としては心因性が一番強いだろうとの話でした。やはり精神的に何か大きな衝撃があったのだろうということは否めません。治療法には催眠療法がありますが、自然に思い出す方がいいという結論に至りました」
おじさんが強く頷く。その口が「しんいんせい」、と確かめるように動くのを見届けた。
「健康体ですが、様子を見るために1週間は安静にした方がいいと俺としては考えています」
次に、と付け加え、鞄を開いて中にずらりと並んだ医薬品を彼女の両親に見せた。
「良樹、それは……」
「念のため、弘子の症状を考え、使う可能性がある薬は一通り許可を得て病院から貰ってきました。もし突然何かの症状が起きたとしても俺が対処できますから心配はいりません」
結構な数の医薬品に驚いたようだったが、弱々くも、二人にとってはおそらく精一杯の笑みを浮かべてくれた。
「ありがとう、良樹。お前がいてくれ良かったよ」
おじさんの暖かな言葉に、何だか肩の荷が下りた気がした。知らず知らずのうちに変に緊張していたようだった。
「なんてお礼をしたらいいか分からないくらいだ」
おばさんが目から涙をぼろぼろと零し、声が発せる状態ではないにも関わらず、何度か俺に頭を下げる素振りを見せてくれる。柄にもなく照れくさくなり、俺はいいえと小さく返した。
「それから……警察なんだが」
今度は警察に行っていたおじさんの番だ。
「弘子が着ていた古代のような衣装から、伝統を重んじる団体による誘拐で調査を進めると言っていた」
弘子が発見された時の身に付けていた服。行方不明時のグレーのワンピースもショルダーも無く、古代の壁画にあるような白いワンピース状のスカートを身に纏い、見事な黄金の細い腕輪を手首に嵌めているという奇怪な格好だった。
確かに宗教上の価値観の問題で、観光に来る外国人を誘拐し、殺害するというテロが存在するのも事実であり、警察の見方も的外れという訳ではない。それどころか、事件性のあるものならば一番可能性の高い見方だろう。
「けれど、警察にも学者にも解明できない力が、去年の8月、弘子に働いた。俺はそう思ってる」
「俺もそう思います」
向い側の人に深く頷き返し、あの記憶を掘り起こす。
「あれは事件なんかじゃない。犯人なんて見つかる訳がない」
本当に非現実的なことだった。何か異常な力が働いていたような、信じられない出来事が目の前で起こったのだ。
「それで、弘子が帰ってきた日に母さんと相談したんだ。今すぐは無理だとしても、近いうちに……出来れば1週間後には弘子を連れて日本に帰ろうと」
やはりと顔を上げ、向かい側の二人を見つめた。彼らの目には決意が満ちている。
母国日本へ。太平洋の中にあるあの小さなアジアの島国へ。何よりも相応しい、弘子を守る最善の方法だろう。
「……こんな国に」
床に零れた、嗚咽の混じる声はおばさんのものだ。
「この国には、弘子を置いていられない」
膝を覆う黄色のエプロンを握りしめ、弘子の母親は絞り出すように言った。落ちていく、頬を伝っていく涙は、決して弘子に見せないものだろう。
「分からないけれど感じるの。きっとこのままこの国にいたら、きっとあの子はまた連れて行かれてしまう……そんなこと私がさせない、弘子はもう、渡さない」
エプロンに皺を作る拳が、小刻みに揺れていた。
「妊娠してないにしても、弘子は記憶を失うほどのことを誰かにされた……辛い思いをさせられたに違いないわ……それで記憶を失くしたんだと思ったら、あの子が可哀そうで、辛くて堪らない」
母親は自分の子供を己の命よりも愛すると言うが、まさにその通りだと思う。両目から崩れるように落ちていく涙は、弘子という一人娘への愛情の現れだった。
「医者になんてならなくていい。あの子が普通に結婚して、好きな人の子供を産んで、幸せになってくれるだけで、私はいいの……それだけでいいの」
また泣き出すおばさんの肩を抱いて、おじさんはさっきよりも明瞭な声で言う。
「帰ろう、日本へ」
家族の決断だった。娘を想う夫婦の確固たる決意。
13年間住み続けたこの砂漠と太陽の国を出て、緑あふれる祖国への帰国。
「良樹、」
呼ばれて顔を上げる。妙な緊張が俺の中を通り過ぎて行った。
「良樹も、一緒に来てくれるだろうか」
掛けられた言葉に、嬉しさが込み上げる。迷いはなかった。
「勿論です」
弘子の傍にいると決めたのだ。
「日本へ帰りましょう」
「──エジプトを、出るの?」
突然の弱々しい声にはっとして、俺に続いておじさんたちも後ろを振り向く。
「エジプトを、出るの?」
パジャマ姿で、髪を乱したままの弘子が部屋の扉のところに佇んでいた。
「お父さん、お母さん」
よろよろと、おぼつかない足取りで、弘子は裸足のままこちらへと歩いてくる。
「私……日本に、帰るの?」
大きく開いた黒い瞳を揺らし、呼吸の合間を縫ってやっとのことで言葉が続く。
呼吸が乱れている。興奮しているのか。
「私、エジプトを……」
「弘子」
おばさんが急いで立ち上がり、茫然として今にも膝から崩れ落ちそうな弘子に駆け寄って抱き止めた。
「あなたは何も心配しなくていいの。お母さんたちが絶対に守るから。大丈夫、大丈夫よ」
母親は娘を抱き締め、髪を撫で、背中を擦り、落ち着かせようとしている。
「日本に帰って、おばさんたちに会って、そこで一緒に暮らしましょう。大丈夫、何も心配いらないから」
彼女は母親の腕の中で瞳を揺らしている。瞬きをも忘れてしまったかのように、大きく見開いたままだ。
「日本へ帰るのよ。ここを離れるの」
力を失い垂れていた彼女の手が動き、自分の身体を支えるように母親の服を掴む。そして、涙を浮かべた目で母を捉え、首を横に振った。
「……帰れない、帰れないの」
「弘子?」
娘の反応に母親の目が見開く。
「私、帰れないの……お母さん、帰っちゃ駄目なの」
「どうして?どうして駄目なの?」
何故かと問われ、彼女は茶色の混じる黒い瞳を、溢れ出る雫と共に再び大きく揺らした。
「……わ、私……わか、らないけど、私」
彼女は自分の両手を震えながら見つめ、その場に力なく座り込む。
「弘子!」
おばさんの悲鳴に似た声に、俺もソファーから立ち上がった。
「大丈夫よ、大丈夫、弘子、落ち着いて」
震える娘を抱きしめ、母親は何度も娘の髪を撫でている。それでも、弘子は首を横に振り、帰れないのだと声にならない音で繰り返す。自分の言っていることが分からないという表情が見え隠れしていた。
「帰るんだ、弘子」
この父親の声が、彼女の抵抗の動きをぴたりと止めた。母親に抱きしめられ、身を固めた弘子の頭を撫でながら父親は明瞭な声で決定を下す。
「他のことは帰ったら考えればいい。もう、お前をここに置いてはいけないよ」
部屋は十分に明るいはずなのに。電気というものの灯りで満ちているはずなのに。弘子の何かが辺りを陰らせていると、遠くから家族3人を見つめている俺は漠然とそう思った。
その影が何から来るものか分からない。だが、1年前の彼女には確実に無かったものだ。
「……弘子、エジプトを出ましょう」
母親の願いとも取れるその切実な声色に、彼女の手が再びだらりと床に垂れ、諦めたように目を閉じ、やがて母の胸の中で小さく頷いた。
落された睫毛が、悲しさを生む。青に染まって、目元に涙を生む。
エジプトを出ると言うだけで、何故彼女がそこまで悲しげに泣くのか分からなかった。精神不安定が原因かと一瞬考えたものの、彼女の悲愴な面持ちを見て、それは違うと直感する。
親友と離れるからだとか、十数年いた国を離れるのが悲しいからだとか、そんな浅はかな理由じゃないというのは何となくだが感じた。でも、感じるだけで、それが何であるのかはっきりとしない。
非力な俺は、理由も解明できぬまま茫然と弘子が啜り泣くのを見つめていた。
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