間章

* * * * *


 誰かが、私を呼んでいる。

 

 どこかずっと遠くで。

 今にも消えてしまいそうな声で。

 何度も。何度も。




 声が白い光のように暗い世界に差し込み、固まった私の脳裏まで届いて、それを溶かしていく。私を呼ぶのは誰だろうと思っていたら、ふわりと私の頬を誰かのぬくもりが撫でて消えた。「起きて」と言いたげなぬくもり。それに反応するかのように、自分の瞼が少しだけ動いたのを感じた。


 ──待って、今起きるから。


 でも、瞼が開かない。温かい手が私の手を握る。力が入らない私の手はそれを握り返せない。誰が、握っているのだろう。

 一度息を吸い込み、肺が少し冷たい空気で満たされるのを感じてから、互いに接着剤でくっついてしまったような瞼を、どうにかして持ち上げようと試みる。

 瞼だけではなく、すべてが重たかった。あまりに重くて動かすことが億劫になる。

 やっとのことでうっすらと開けた視界は霞み、最初は何も見せてくれなかったけれど、次第に鮮明になり、自分のいる空間がはっきりと輪郭を持ち始めた。


 最初に見えたのは天井だった。

 白くて、白くて、吸い込まれてしまいそうな色。怖い色だと漠然と感じた。


「……弘子!」


 突然、弾けるような声が上から降ってきた。

 

 弘子。私の、名前だ。


「あなた!弘子が!」


 声のした方にゆっくりと視線を向けたら、こちらを食い入るように見つめる誰かの顔があった。

 髪の長い、女の人。奥にもう一人。こっちは男の人。合わせて二人ね、なんて朦朧とする中で思う。

 パイプ椅子から音を立てて立ち上がって、私の顔を覗き込む人たちがいる。最初は泣いていることしか分からなかったが、徐々に目が慣れて、その人たちの顔が明瞭に浮かび上がってきた。

 輪郭、目元、鼻、髪。そして、私の手を握るぬくもりもはっきりと。


「弘子」

「弘子……!!」


 覗いてくる顔に、あっと、掠れた声が漏れた。声とは呼べない、ただの息の音にしかならなかったけれど、胸が大きく揺れ動いた。


「誰か呼んでくる!」


 慌ただしくなってしばらくしてから、私の視界に二人の顔が戻ってくる。二人を見て、熱いものが身体の内から溢れ出るのを感じた。

 感情が、想いが、言葉に出来ない何かが、止めどなく流れ出て私を埋め尽くして、むせ返りそうになる。


「……お」


 どうして、こんなに。

 こんなにも、懐かしいのかしら。

 生まれてこのかた、ずっと傍に居た人たちのはずなのに。


「……お、…あ」


 喉まで、固まってしまっている。呼びたい名が呼べない。それが辛い。

 目の前の両親に触れたくて手を伸ばそうとするのに、手も足も、何も動かなかった。鉛にでもなってしまったかのよう。


「……お、母さん」


 一つ。


「……お、父……さ、ん」


 もう、一つ。


 やっと。やっと、口から零れた。

 思いのほか、途切れ途切れの、掠れて空気の中へと消え入えてしまうような声色。声とも呼べない音だった。

 それでも母はさらに顔を涙に濡らして頷き、手を私に伸ばしてくれた。小さい頃からずっと私を撫でてきてくれたその両手で、私の頬を包み、髪を梳き、抱き締める。

 母の髪が、私の頬に擦れる。手が、髪を、頬を、何度も撫でる。涙が顔に落ちる。


「……弘子、弘子」


 お母さん。私の、お母さん。

 そっくりね、と小さい頃から言われてきた目で、向かい側に浮かぶ瞳を見つめた。

 泣いている。一度も私に涙を見せたことのない強い人が、泣いている。いつも綺麗に微笑んでいる、私のお母さんがこんなにも。

 それを見たら、どうしたらいいか分からないほど胸がいっぱいになって、息の音しか生まない口を「お母さん」と動かし呼び続けた。

 久しぶりの感覚に、また涙の量が増していく。声になり切れない音を、母は拾って一度だけ頷き、私の涙をその綺麗な指で拭ってくれた。


「……弘子」


 視線を母から隣に動かすと、父が私を見つめていた。

 目元を赤くしながらもくしゃりと笑い、私の髪を優しく撫でる。父も声が潰れてしまっていた。


「良樹も、そろそろ来るからな」


 よしき。良樹。

 名前を思い浮かべたら、懐かしい顔がまた私の中に甦ってくる。


 お父さんという暖かい響きも。お母さんという呼び名の柔らかさも。良樹という名の存在も。どうしてか、こんなにも懐かしい。泣き叫んでしまいたいほどに懐かしい。

 目尻から生暖かいものが伝って耳もとに落ちていくのを感じていた。


 私の髪を撫で、母はもう一度私をその胸に抱き締めた。弘子、と何度も私の名を繰り返しながら。


「……今まで、どこにいたの」


 涙を落しながら、お母さんは私に尋ねた。


「……あの黄金の光に包まれた後、一体今までどこにいたの」


 今まで。どこに。

 黄金の、光。


「探してたのよ……ずっと、ずっと」


 何を言われているのか分からず、戸惑った。戸惑っても、母の涙は止まらない。私の耳元に顔を埋めて、嗚咽を漏らして泣いている。

 そんなに、心配させるようなことしてしまったのだろうか。何を言われているのか、思考が伴ってこなかった。今ここが病院で、両親が私の傍にいること以外、分からない。


「弘子、お前はね」


 母の上下に揺れる背を擦りながら、父が優しい声で告げた。


「今日の今朝早くに、エル・アマルナの小神殿にもたれ掛かるようにして倒れていたところを、そこの管理をしている人が見つけてくれたんだよ。それで救急車で運ばれてきたんだ」


 エル・アマルナ。

 倒れていた。私が。


 どうしてアマルナなんかに。


 ふと頭を動かしたら、ベッド横の小さな棚に置いてある卓上カレンダーが目についた。

 2012年10月。

 働かない頭をどうにか回転させて、記憶を探す。


 2011年8月。これが、私の記憶に残る最後のカレンダーの数字だ。

 確か、2011年の夏の日、お父さんとお母さん、良樹が日本に帰るからと、テスト前なのにルクソールへ家族旅行に行ったのだ。

 そう、専門書の入ったショルダーを肩から下げて。地味なグレーのワンピースに、白い帽子とサンダルで。王家の谷に行って。夕陽に燃える砂漠を見て。ツタンカーメンのお墓に行こうという話になったはずだ。

 それから──。


 それから、何があっただろう。


「……本当に、どこにいたんだ、弘子」


 父の泣きそうな声音がかかる。


 私は、どこに。

 覚えているのは2011年8月だ。今が。2012年の10月だとすると、私は1年以上もどこかへ行っていたことになる。


「……弘子?」


 何も答えられないでいる私を、心配そうに覗く両親がいる。

 でも私の目は、二人を越えて、天井の白さを見つめていた。

 

 どこに。今まで、私はどこに。


「……分か、」


 瞬きも忘れて、白に見入る。


「分から、ない……」


 ようやく発した私の返答に、両親の表情が驚愕に変わり、二人は顔を見合わせた。


 白い。真っ白だ。

 どんなに記憶を掻き漁っても。どんなに思い出そうと粘っても。


「……何も」


 空白。何も出てこない。記憶がぷつりと王家の谷で消えている。


「……分からない」


 どうして、最後の記憶から1年以上も経っているのか。

 どうして、両親の顔がこんなにも懐かしいのか。


 浮かぶのは疑問ばかり。それに対する答えはどれも、「分からない」ばかりだ。自分のことが、分からなかった。


 母の顔も父の顔も、良樹の顔もある。でも、その中に一つだけ、白い絵の具でべっとりと塗りたくられてしまっているものがある。どれだけ拭おうとしても、剥がれてくれない白い絵の具。


 そこに、何があったのだろう。


「弘子?」


 母が涙に潤む二つの瞳を揺らし、私を呼ぶ。


「お母さん……何も…無いの」


 白くて。上に広がる天井のように白くて、私を呑み込んで。ぽっかりと穴が開いている。虚無が巣食って、そこに残るのは切なさだけ。


「何も……無いの」


 記憶の中に。私の、記憶に。

 

 何も。

 

 何も――。





【第Ⅰ部 砂漠 完】

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