言葉

 うつ伏せに寝台にしがみ付き、身体を丸めて、手元の麻布を意味も無く見つめていた。一睡もしていないせいで瞼が重力に従って落ちてくるのに、今更眠る気にもなれない。

 頭を少し動かせば広がった髪が渦を巻く。いくつもの皺を寄せた麻の白に、その黒が映えている。

 ハヤブサに例えられる朝の陽が視界の端に見えても、私の中のやりようのない悲しみに似た感情がそれを打ち消してしまっている。悲しみとは言っても、両親や自分の時代が恋しくて生まれるものではないのは一晩おいてようやく分かった。

 私は惹かれている。彼に、惹かれてしまっている。これが一晩頭を巡らせてようやく出た結論だった。


 柔らかさに顔を埋めて、こんな感情を抱き始めたのはいつからだったのかと自分の胸に繰り返し問うてみても、分からなかった。本当にいつの間にか。自分のことなのに分かっていなかった。うっすらと気づいていながら、ちゃんと自分の気持ちに見て見ぬふりをしていたという方が正しいのかもしれない。元の時代に、両親の下に帰りたいという願いとは別の想いが私の胸に沁みついていたのだ。

 あれほど、この時代の人を好きになってはいけない、生きる時代が離れている彼に特別な感情を抱いてはいけないと言い聞かせていたというのに。

 昨日、彼を止めなかったのも、抗うこともしなかったのも、「彼となら」と心のどこかしらで思っていたからだ。彼を好きだと思う私がどこかにいたからだ。受け入れても良いと、満更でもないと思っていたからだ。

 言葉にしてみたら、胸が締め付けられて顔を歪めた。


「姫様」


 ネチェルが外から私を呼んでいる。


「どうなさりました」


 静かに人が入ってくる気配がした。

 彼女が来ればいつもならすぐに起き上がって着替えに向かうのに、今日は身体が寝具にくっついてしまったように動かない。この部屋を出れば否応なく彼に会うと思うと尚更だった。会える気がしなかった。


「そろそろ朝食のお時間ですよ」


 心配そうに声をかけてくれるネチェルに、何か答えようと寝具に頬を押し付けたまま口を開く。


「……今日は、眠っていたいの」


 彼と顔を合わせたくない。彼に会って、どうしたらいいか分からなかった。


「もしやご気分が優れないのでは」

「昨日眠れなかっただけよ。大丈夫。このまま一人にしてほしいの」

「ならば尚更侍医殿をお呼びした方が……」

「本当に大丈夫よ。何でも無いの。お願い」


 そこで一瞬会話が途切れる。嫌な空気だ。それを作ってしまっているのは自分だというのに、どうすることも出来ない。


「何かあればお呼びくださいね」


 心配そうな声で彼女が戸惑いながら去って行くのを音で感じていた。


 悪い気もする。でも必要最低限彼に会わない方がいい。いずれは断ち切らなければならない関係なのだから、これ以上何かしらあってはいけない。

 それに、これ以上胸に巣食う気持ちが大きくなったら、きっと取り返しのつかないことになってしまう。


 駄目だ。

 彼は私にとっての過去に生きた、私の時代ではすでに死んでいる人だ。

 ミイラにされて、名前も失って、生きた証さえ残されない、人々の記憶から3000年の時の間に忘れ去られてしまう人だ。名前が残されていないということは、おそらく早死にする人なのだろう。好きになっても、悲しい思いをするだけ。

 そんな人に恋をする勇気なんて、無いでしょう。強くないでしょう。

 絶対に、本気の恋をしてはいけない。絶対に。


 ずっと横になっていてもいい解決策が出る訳でもなく、乱れた髪を耳に掛けてようやく身体を起こし、寝台からそっと足を下ろした。

 石の床の冷たさが、裸足の裏側から伝わってくる。

 こんなに、冷たかったかしら。

 ぼうっと辺りを見渡せば、こんなだっただろうかとすべてに対して思えてしまう。新鮮に見える。昨日のあの瞬間から、世界までもが変わったよう。


 彼の部屋との仕切りのカーテンを開けて覗くと、案の上部屋には誰もいない。彼は、一刻も早くアメンの住まう国に都を戻すために様々な作業をこなしているのだろう。


 もうすでに夕暮れに近いことに、辺りを見回して気づいた。伸びている太陽の色が私にそう教えてくれる。

 どれだけの時間、寝台に横になっていたのだろう。時間の感覚が消滅してしまっていた。


 足を前に踏み出して、繋がったもう一つの部屋を改めて眺めてみる。

 彼の部屋は本当に広い。その高い天井は目さえ眩んでしまいそう。


 天幕のついた大きな寝台に、アメンとラーのレリーフ。壁側に小さな棚のようなものがあって、いくつかの巻物状のパピルスが積まれている。その前には、象牙のパレットとペンが置かれた木製の机。そして所々に獅子が象られた黄金の椅子。


 その空間にもう一歩足を踏み入れたら、微かに彼の匂いがした。

 昨日、私を包んで強く抱いた、匂い。


 ああ、駄目。

 頭をぶんぶん振って、昨日の記憶を振り飛ばす。何度、寝具の中であの時のことを回想したか分かったものじゃない。やっぱり閉じこもっていようと部屋から目を背けた時、ふと、視界に何かを見た気がした。

 もう一度もとの場所に視界を戻して違和感の源を探すと、目についたのは机の下にあるパピルスだった。

 落ちたのかしら、とカーテンから手を離して、机の下に歩み寄って屈み込む。くるりと癖のついたパピルスに、そっと手を伸ばして広げてみると、植物を乾燥させた独特の感触が指を通して伝わってくる。

 現れたのは案の定ヒエログリフの列で、何かの文章が綴られていた。どうしてか、惹かれる想いがした。吸い寄せられるように床に広げたパピルスに顔を近づけ、読んでみようと床に座り込み、一文目に指を乗せてみる。


「……お」


 ハヤブサの次は、蛇。


「ん、み……」


 草に、猿の形の文字。次はと思って続く文字に指をあてるけれど、そこで言葉が止まってしまう。何を表しているものか分からない。それでも、どうしても読みたい気持ちが焦って、もう一度最初に指を戻した。


「……おん、み……き、」

「御身、生きてある限り」


 私の声遮って、別の声が続きの言葉を繋げた。はっとしてパピルスをなぞる指が止まる。


「心正しくあれ。人は皆すべて死後に世界ありて」


 響きに、一瞬にして身が強張るのを感じた。足音が私の座り込む床を伝って振動してくる。誰が近づいているか明白だったから、どうしたらいいか分からなかった。


「なせるわざことごとく屍の傍らに降り積むなればなり」


 言い切ると同時に、身体に電撃のようなものが走って背後にいる人物を振り返った。振り向いた先、視界を埋め尽くすのは、その人。橙と赤が混じる光が遮られ、その影が私の膝元にまで伸びていた。


「アンケセナーメンが私に贈った言葉だ」


 玲瓏に、その声は部屋に反響する。

 彼女が、彼に渡した言葉。知らない言葉のはずなのに、手元にある一文字一文字に懐かしさが溢れる。


「それを教訓とし、私は生きてきた」


 伏せがちの淡褐色の中に、私がいた。目を見開き、パピルスに手を置く私が。


「……意味は?」


 私の震える問いに、彼は穏やかに答えてくれる。


「生きていく内で成してきたこと、良きことも悪しきことも含め、それはお前の傍に降り積もる。人は皆、死んだ後にも世界があり、生きている内に成してきたことによってすべて左右される。死後も幸せでありたいならば、生きている間は己の心で正しいと思うことをせよ」


 一歩、一歩黄金のサンダルが私に向かって歩み出す。


「それほど特別な意味は持たぬ言葉だ。よくある、生きている者に向けられた教訓の類。所々は違うものの、セテムもカーメスも似た言葉を誰かしらから贈られているはずだ。母親であったり、父親であったり、妻からであったり……」


 私の前に屈み、彼は私からパピルスを手に取った。大事な言葉だと、その唇が動くのを見る。


「もう、一度……」


 彼の腕を掴み、擦れた声で縋った。腕も声も、震えてしまっている。その言葉を聞きたかった。その言葉の響きを確かめたかった。

 どこかで。どこかで、私はそれを聞いた。口にした。


「お願い。もう一度、読んで」


 私の様子に顔を顰めながらも、彼はパピルスに目をやってその文字を撫でる。


「御身、生きてある限り、心正しくあれ。人は皆すべて死後に世界在りて、なせる業ことごとく屍の傍らに降り積むなればなり」


 声が滑らかに世界へ沁みていく。初めて聞いたとは思えないほど、耳に馴染んだ音の粒に胸が震えた。


「これがどうした。体調を崩しているようだとネチェルたちが案じていたから早めに帰って来たというのに、元気そうではないか」

「それ、だわ……」


 漠然と、訴えた。


「それなの」


 彼も言葉を止め、眉に皺を寄せた。

 みるみる内に記憶が蘇る。私が叫んだ呪文のようなもの。KV62で彼の声に応えて私の口から飛び出したのは、その言葉。その言葉を叫んだために、私はここへ来た。

 胸がうるさい。苦しい。どうにかなってしまいそうだ。


「ヒロコ、どうした」


 身体を固めてしまった私に、心配そうな彼の声が掛かる。

 信じられず、どうしたらいいかも分からず、頭を両手で抱え、私は1枚のパピルスに見入っていた。


「それとは何だ。これのことか?」


 小首を傾げながら彼はパピルスを指差す。


「その言葉が……私を、ここへ連れて来た」


 彼を見、確かめるように言葉を発する。


「私をここに落した言葉なの」


 はっと息を呑む音が、彼の口から漏れた。


「私の声を聞いてヒロコが叫んだというあの言葉か。呪文のようなものだと、思い出せぬと言っていた、あの」


 間違いない。意味も分からず私が叫んだ言葉の正体は、紛れも無く彼の読んだパピルスの中の文字。アンケセナーメンが彼に贈ったというその言葉。

 

 やっと、見つけた。

 一つの希望が私の中に灯る。もう戻れないかもしれないという絶望が薄れていく。


「アンク、私……!」


 再び、隣の人の両腕を強く掴んだ。彼の目が、見開いて私を捉える。


「私、帰れるかもしれない!」


 両親の顔が浮かぶ。

 電線も白いノートも黒板も。コンクリートも車も自転車も。ビルも、学校も。排気ガスに埋もれた太陽も。可能性が生まれた今、ぼやけ始めていたそれらが鮮明に私の脳裏に姿を現す。

 ここに来て、写真でしか見ていなかった世界が、古代の色に染まりつつあった私の中に戻ってくる。


「元の時代に……3000年後の未来に、帰れるかもしれない!」


 淡褐色に映る私が、僅かばかりに揺れていた。それでも構わず彼の腕を揺さぶる。


「連れて行って!私がここへ、この時代へ落ちてきたあの神殿に!」


 帰りたい。帰ってしまいたい。私の中に芽生えた想いが本物になる前に。今ならば迷わず帰れる。


「私を連れて行って!」







 陽が暮れてラーが雄牛になる時刻に、ショルダーを肩に掛けた私は、彼の隣に立ってこの時代に落ちた神殿の入り口を眺めていた。

 外には兵がずらりと並んでいても、太陽が沈んだ暗い神殿の中には影一つ無い。大きなアテン神の像の前に大きな火が燃えていて、それだけが私の行くべき道を教えてくれていた。


「灯りを付けさせました」


 頭を下げるセテムに、彼は「うむ」と返事をする。


「セテム、お前はここで待っていろ。他の兵は皆下がらせて構わぬ」


 彼の言葉に、セテムは少し戸惑いを見せたものの何も口にすることなく後ろに下がった。


 静かな夜だった。

 きっと、帰れる。そう胸に繰り返し唱える。


「行こう」


 彼の声に、足を踏み入れた。


 四角の入り口をくぐり、中へ踏み入れる。足を前に出すたびに緊張が増していく。

 もし帰ることが出来なかったら──一瞬、そんな不安が横切って頭を振って薙ぎ払った。

 今まで何をしても帰れる兆しなんて感じなかったけれど、今回は違う。私をここに落した原因とも呼べる言葉を見つけた。アンケセナーメンが彼に贈った言葉を、どうして私が叫んだのかは分からないままでも、もうどうでもいい。

 私は帰る。私のいるべき場所、生まれた時代へ。両親のもとへ。

 そしてすべてを忘れてしまおう。ここにいたことも、トゥト・アンク・アテンという人を好きになったことも。


「お前が落ちて来たのはここだ」


 火の影が揺れる中、彼は一点を指差した。


「ここで私がアンケセナーメンに語りかけていた時、上からヒロコが落ちてきた。私の上に」


 1年も前のこと。今となっては微かに懐かしさを覚える。

 あの時はアンケセナーメンのミイラもあって、兵士に360度から槍を向けられて。彼はまだ私をアンケセナーメンだと思っていて。動転している私に手を伸ばした彼の顔は今でも色鮮やかに思い出せる。


「……帰るのか」


 上から落ちてきた言葉に、彼を振り返って一度だけしっかり頷いて返した。


「帰らなくちゃ」


 弱く微笑んで告げる。

 これ以上、彼の傍にいて歴史を変えてしまったらどうなるか分からない。


「私のいるべき場所はここじゃないんだから」


 彼が小さく息をつくのを隣に聞いた。


「その言葉で本当に……」


 そこまで言って彼は口を噤んだ。

 私は斜めに掛けたショルダーの紐を左手でぎゅっと握りしめる。

 しばらく沈黙が続いてから、小さく「分かった」という声が私の鼓膜を打った。顎を引き、目元の明暗を濃くしている彼に、私は細やかな笑みを自分の頬に浮かべて見せた。


「ここに来て、1年近く生きてこられたのはあなたのおかげ。本当にありがとう。心から感謝してるの。恩返し、何も出来なくてごめんなさい」


 一歩踏み出し、落ちてきたというその場所に立つ。


「ヒロコ」


 呼ばれたと思ったら、腕が引かれた。顔を上げれば彼がいる。腕からじんわりと感じるその温もりを、ずっと感じていたいとさえ思う。


「本当に……」

「──御身、生きてある限り」


 私の発した言葉に彼の手が強ばって、やがて諦めたかのように僅かに離れた。

 これが私の答えだ。

 両親か、あなたか。古代か、現代か。どちらかを選べと言われたら、今の私は迷わず両親と現代を選ぶ。

 ただ、もう少し時間が経っていたら、ここで出す答えも変わっていたかもしれない。


「ヒロコ」


 このまま何か返事をしてしまったら決意が崩れてしまいそうで、目を閉じて視界を闇に投げる。

 相手のぬくもりが離れた手を祈るように胸の上で組み、暗記してしまった言葉を再びこの声で。

 本当に、こういう時ばかり神頼みだ。


「心正しくあれ。人は皆すべて死後に世界ありて」


 あの時と同じものを、この口から。

 ただ祈る。また黄金が現れることを。風が巻き起こって、私を包んで、あの黄金のナイルに投げ込むことを。


「なせる業ことごとく屍の傍らに降り積むなればなり――!」





 愕然と立っていることしかできなかった。

 何も起こらない。風が流れ込むことも、太陽よりも眩い、黄金が現れることも。何も。

 何かの間違いだろうと、もう一度唱えてみる。2回、3回、4回。

 最後の方は動揺が混じって、ちゃんと言えていたかも自分で分からないほどに崩れてしまっていた。乱れた声が反響するだけ。


「……何で」


 希望だった。私が帰ることができる、唯一の、最後の希望だった。


「どうして、何も」


 だだ愕然とショルダーの紐を両手で握りしめる。骨の軋む音が聞こえてくるのではないかと思うほど、力が籠った。


「ヒロコ」


 浮かんでいた両親の顔が、霞む。もう、帰ることは出来ないのか。あの世界に。愛しい人たちのもとに。

 会いたいのに。会って、抱きしめて欲しいのに。安心の中に、戻ってしまいたいのに。


「どうして……!」


 叫んだ途端、大粒の涙が零れ落ちた。


「どうして何も!何もっ!!」


 頭を抱える。その場に足が崩れる。


 お父さん。お母さん。私、帰れない。

 そう思った瞬間から路頭に迷う。何処まで行っても、何をしても。叫んでも、泣いても。私はこの時代に投げ出されている。変わらず、闇が濃いこの時代に落されている。


「……どうすればいいの」


 何もかも分からなくなる。未来というものが思い浮かべられない。このまま帰れなかったら、私は──。


「どこで、生きればいいの」


 放心して頬に伝う涙を感じながら、漠然と呟いた。答えをくれる人なんていないのに。


「私の傍にいればよい」


 絶望の中を駆け抜けた。


「帰る場所を失ったのなら、私のもとで生きればよい」


 ヒロコと呼んだ誰かに、強く抱き締められる。

 片言で、やっぱり少しぎこちない発音で私の名前を呼ぶ人。まるで幼児をあやすように、その大きな手が私の髪を撫でる。安心させるように、嗚咽の漏れる身体をその温もりで包む。


 あなた。私よりも3000歳年上のあなた。

 この身を抱くぬくもりが、どうしようもないほどの想いを私に植え付ける。

 ここに来てからずっと私を導いてくれたのはあなただった。あなたの暖かさに支えられて、私はこの時代でも生きてこられた。

 それでも、その思いの中にいるのは両親の姿。あの二人が私を想って泣いていると思うと、苦しんでいると思うと、涙が止まらなくなる。心配で、堪らない。


「……お、父さん、お母さん」

「ああ」


 言葉がぼろぼろと零れるたびに、彼の腕に力が籠る。


「……帰りたい」


 分かっている、と答えが耳元に返ってくる。


「ヒロコ」


 呼ばれて濡れた顔を上げれば、そっと指が伸びて、私の涙を拭ってくれた。


「まだ帰れぬと決まった訳ではない。ここへ来たのなら、帰る方法も必ず存在する、そうだろう」


 頬を包む、その手。胸の中の想いがまた一つ、積み重なる。


「もし、お前が帰ることが出来ぬとも、お前には私の傍にいるという選択肢があることを忘れるな」


 未来に帰ることが出来なかったら、あなたの傍で生きろと。


「帰れぬのなら、私がお前の面倒を見よう。この命が尽きるまで」


 尽きたら自分で頑張れ、とその人は笑う。

 この状況でよく冗談なんて言えるわねと引っぱたきたくなるけれど、掛けてくれた言葉が何よりも今は嬉しい。あたたかい言葉だと、それに縋りたくなる。

 帰ることができなかったら、私はきっとあなたの傍にいるしか道はない。あなたが与えてくれるそこにしか、居場所がない。


 でも、歴史が。私がここにいることで、必ず何かしらのパラドックスが起きるのではないだろうか。自分の想いも交えて考えたら、頷くことも、首を横に振って断ることも出来なかった。


「今は泣けばよい」


 そう言って、彼はもう一度私をその腕で包んだ。


「思う存分、私の胸に泣け。いくらでも貸してやる」


 鼓動が聞こえる。強く、確実にその胸の中で打っている。


「大丈夫だ」


 好きになってしまう。もっと深く、今までしたことのないような恋をあなたにしてしまう。駄目だと分かっているのに、それでも。


 自分の想いがいくつも交差するのを感じながら、私は彼に縋って泣いた。もう会えないかもしれない両親を想って。慰めてくれる彼の優しさを想って。それ以外のことなど、考えられなかった。



 彼に支えられるようにして神殿を出た時は、すでに太陽が昇り始めていた。白い光が夜の闇を貫き、暗かったはずの空は白さをやんわりと帯び始めている。

 王宮に向かう中、声が聞こえてきて白く光る向こう側を見ると、沢山の神官たちとナルメルが何やら祈りのようなものを夜明けの空に捧げていた。

 何か、あったのかしら。

 その光景を見た途端、彼もぴたりと歩みを止める。後ろにいたセテムも何かに気付いたのか、朝陽が覗く東を見やった。


「ファラオ、神が!」


 神。

 どういうことか把握できず、彼やセテム、神官たちの視線を集める空を仰いでみるけれど、それでも何を意味しているのか分からない。


「急ぐぞ!」

「え……!」


 彼の嬉しそうな声が弾けたと同時に、身体が持ち上がって、抱き上げられた。そのまま彼は走り出し、朝の風の冷たさを肌で感じながら、私は落ちないようにと必死に彼にしがみ付く。


「ソティスだ!」


 階段を駆け上がった先で、彼が叫んだ。夜の闇から顔を出した朝日の傍に、青く光る星が私の目にも映る。

 青き、神の星。エジプトの女神ソプデトとして崇められる、シリウス星。太陽に負けることなく、儚いその色を私たちに届けている。


「なんて、綺麗なのかしら」


 涙が出るほど、闇夜を照らす朝焼けの中の蒼さは美しかった。この時代の星は、あんなにも眩い。下から吹き上げてくる風がすべてを洗っていく。

 セテムも目を輝かせて、明るくなりゆく空に見入っていた。


「ナイルの氾濫が起こる!我が国に、神が恩恵をもたらす時!」


 彼が神に語りかけるように、すっと手を太陽とソティスにかざす。その長い指と指の間から、眩い光が漏れた。

 それだけの仕草で、威厳が辺りに満ちる。透明な光の中に映えるのは、白い衣をなびかせ、風に髪を揺らすその姿。まるで太陽と星、この世のありとあらゆるものと心を通わしているようにさえ思える、あなた。


「我が国を守りしエジプトの神々よ!我らが下に幸と栄華をもたらしたまえ!」


 力強い声が、朝の光の中を壮麗に広がって行った。


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