生活

 茶色の中に所々小さな庭のような空間があり、緑が溢れている。

 決して寂しい茶色の土地ではない。生い茂る緑はパピルスの茂み。時々池を持つ庭も垣間見え、ハスが緑の中にその白を浮かべていた。

 パピルスは下エジプト、ハスは上エジプトの象徴に当たる。それが同じ庭で揃って色を煌めかせているということは、上下エジプトの統一を意味しているのだろう。


 視線を前に向ければ、黒いアイシャドウをつけた人々が大勢歩いている。

 壺を頭に乗せて運ぶ人、髪飾りをつけてどこかへ出かける人、牛を引いて歩く人、猿を肩に乗せて、買い物をする人。ナイルからの水を運んでくる人、踊り子のように人前で艶めかしく身体をくねらせる人。

 大きなイヤリングを揺らしてお喋りを楽しむ女性、変わった色の腰巻をつけて自慢する男性。裸足で駆け回る小さな子供たち。

 どこからともなく楽器のような音が軽やかに風に乗って、私の耳の傍を駆け抜けていく。

 こんなにも活き活きして輝いている世界に、たくさんの声や笑い声が聞こえてきて、こちらまで胸が弾んだ。


「ここにいるだけで楽しくなってくるだろう」


 馬の手綱を揺らしながら、彼は後ろから私に声をかけた。


「王子だった頃もよくここに来た」

「王子の頃?」

「私とて、宮殿を抜け出して気晴らしをしたくなるほど王子の頃は大変だったのだ」


 彼という人でも苦労したという時期があったのね。王家の人なのだから、私には想像できない苦労なのだろう。


「ねえ、みんなが持っている小さな袋は何?」


 不思議なことに、行き交う人々が小さな袋を腰につけていたり、手に持っていたりしている。子供を除いた大人たちはほとんどがそうだった。


「あれは小麦だ」

「パンの原料の、小麦?」

「それ以外に何がある」


 この時代に使われているのはエンマ小麦と言う名で、現代ではほとんど栽培されていないはずだ。

 王墓からも3000年前のものが発見されていたり、収穫する光景が壁画として残されていたりするほど、小麦はこの国では大切な食糧。この気候でも長期間の保存ができるから、というのが主食となった大きな理由とされている。

 さっきもいくつか小麦畑のような土地が多くあったから、おそらくあの場所で耕して収穫している。それもナイルが肥沃な土を流してくれるために飢饉はほとんど無い。砂漠の国だと思えるのに、なんて豊かな面を持っているのだろう。


「小麦は我が国の食糧そのもの。民の食事はほぼそれで作られているからな、あれが命を繋いでいると言っても過言ではない。それを持ち歩き、欲しい物と交換できる」

「小麦を物と交換するの?お金は?」

「何だ、オカネとは」


 彼が眉間に皺を寄せたのを見て気づいた。この時代のエジプトではまだお金と言うものが存在していないのだ。


「えっと……私の時代ではそれで買い物をするの。物と物の交換じゃなくて、ある一つの……例えばこの金の腕輪。これにある程度の価値を与える」


 自分の腕についている腕輪を指差して見せる。彼も自分の腕輪を見つめた。


「もしこの馬を売るとしたら、金の腕輪何個分、と決めるの。そしてそれだけの金をくれた人に馬を譲るという考え方よ。金ではちょっと大量生産できないから、形を整えた石であったり、印をつけた小さなパピルスの方がいいかもしれないけれど」

「なんだ、それは小麦と一緒だな」


 きょとんとした私に、彼は小さな壺を売るお店のような所を指差した。


「あの壺が欲しならば、店の主が言う量の小麦を渡せば良い。お前の時代では違うのだろうが、我が国は小麦が『オカネ』だ」


 小麦は食べればなくなってしまうから意味が少しだけ違ってくる。それでも、その発想は限りなく「価値を保証された、決済のための価値交換媒体」としての硬貨や紙幣へ徐々に繋がっていくはずだ。

 実際の値段がそれほどでもない硬貨か紙幣等が小麦と同じように見られ始めるのはもっと経ってから話だとしても、根本となる考えがこの時代に生まれていた。


「でも、みんながみんな畑を持っている訳じゃないでしょう?その人たちの分の小麦はどうするの?」


 彼の話からすると、小麦の農業を生業としていない人は一文無しということになってしまう。

 それはだな、と彼は咳払いをした。


「土地を大きく持つ家の小麦は我が王家が税として集める。そして必要に応じ、それを均等に民たちに配るのだ。酒などは王宮でしか作らぬからな、酒も望むものには小麦との交換で配給している」


 なるほど。そのやり方だと小麦が国の全員に行き渡る。そんな税制度までが古代の内に存在していた。


「ヒロコの言う金では、非常時に食べられぬだろう。小麦はパンにして食べることが可能だ。それに」


 そこで区切って、彼は向こうを指差した。

 長い指先を視線で辿ると、煙が立つ茶色の周りの家々より少しばかり大きな建物に行きついた。


「あそこに小麦を持っていけばそれ相当の焼き立てのものと交換してもらえる。焼き立ては格別に美味いぞ」


 近づくに連れ、その光景が鮮明になり、沢山の人たちが小麦を持って並んでいるのが分かった。行列の先から流れてくるのは香ばしいパンの匂い。

 少し背筋を伸ばして店の中を見てみれば、大きな焼き釜がどんと置いてあって、溢れ出る香ばしさを周りに振り撒いている。これが、3000年前のパン屋さん。

 確かにこの時代を思えば、小麦をお金とした方が何かと便利かもしれない。現代の硬貨や紙幣では世界に食べ物というものがなくなった時に意味を無くしてしまう。しかし小麦なら自分でパンを作って食べることが出来る。

 食べることも、それで買い物をすることも可能なお金、それがこの時代の小麦の価値。

 その店の前で、焼きたてのパンを頬張って笑う子供の一人がとてとてと走って来て、布を丸めてボール型にものを差出し、これで遊ぼうと友達を促していた。ボールでの遊びも存在しているらしい。


「蹴り球だな」

「けりだま?」


 背後から聞こえてきた声に、振り向いた。


「あの球を5人程度で手を使わず蹴り合い、相手の領土に蹴り込んで遊ぶものだ。あの子供はその5人を集めているのだろう」


 要するに、サッカーのようなものだ。エジプト起源という話は聞いたことはないけれど、マヤ文明ではサッカーに非常に似たスポーツが命を懸けた賭け事に用いられていたはずだ。


「あとはそうだな……あの子供」


 彼の指差す方に目を向けると、今度は木製の棒を持った子がいる。片手には小さな布を丸めて作ったボールが握られていた。


「あれは、2つの組が攻撃と守備を交互に繰り返して勝敗を競う競技だ。投げられた球をあの棒でどれだけ飛ばせるかが勝ち負けにかかってくるな。楽しいぞ。私もよく紛れて遊んでいた」


 まるで野球のような遊びだ。

 よくよく周りを見てみれば、レスリングやボクシングのようなことをしている若い男性もいる。

 世界中に起源を持ち、成立が数千年後とされるスポーツが、どうしてこのエジプトで行われているのだろう。

 少し考えて、ある一つの説に辿り着く。野球やサッカーのもともとの起源はエジプトで、それが次第に世界に広まり、時代を越え、別の国で今の正式なルールが確立された。

 パンも同じだ。最初のパンという小麦で作るものを考え出したのはエジプト人で、それに柔らかさを持たせ、飾り立てたのが後の世のフランス人だった。

 マヤ文明の巨大な遺跡も、エジプトのピラミッドから得たアイディアなのだとお父さんから聞いたことがある。

 世界の人々は大国エジプトで行われているゲームや建造物、食べ物をより工夫して自国のものとしていた。


 繋がっていく。

 世界が、文化が、時代が繋がっていく。エジプトは、世界の色んな起源を作り出していたのだ。


 ボールを持つ子供たちが声を上げて笑い、多くの人々の間を走り抜けていった。素敵な笑顔を周りに振り撒く姿はなんて無邪気で可愛らしい。

 現代と変わらないが笑顔が並んでいる。よく通学途中で見かけていた小さなエジプトの子供たちと重なり、現代を見た気がしてどうしようもなく嬉しかった。


 余韻に浸ってぼんやりと家々を眺めていると、茶色のそれらが土で作れているということに気づいた。


「どうした。何かまた変な疑問でも思いついたのか?」


 私の小さな素振りに気づいて、彼が顔を覗かせてきた。馬に揺られながら、また後ろの人を振り返る。


「周りの家は、みんな土で作られているのよね?」

「そうだな。土を乾燥させ、積み重ねている」

「でもそれではナイルの氾濫が来たら、全部溶けて流れてしまうんじゃないの?」


 日干し煉瓦というのは水を浴びたら泥になる。水に浸ったら解けて、崩れてしまう脆い物だ。そんな家など雨が怖くて住めるものではない。


「それでよいのだ」

「いいの?家が流されるのに?」


 素っ頓狂な声を出した私に、彼は無知な奴だ、とお得意のため息をつき、また説明するべく薄い唇を開いてくれる。


「そもそも我が宮殿や貴族の邸宅以外、ナイルの氾濫に耐えられる家などない。ならば水に溶ける家を作り、ナイルと共に綺麗に流された方がいいだろう。その方が中途半端に残るよりずっとよい。片付けの必要がなくなるからな」


 言われてみれば、木材で家を立てていたら瓦礫となって邪魔になる。でも土ならば、毎年ナイル氾濫しても増水した水が一緒に綺麗に運んで取り去ってくれる。だから日干し煉瓦。

 生活の知恵の現われがこの町並みを作り上げているのだろう。

 現代には王宮や神殿以外民の住居跡というものがないけれど、それはこのせい。王宮は石だから残り、民の住居は土だから流されて時と共に大地に還ったから。

 知った事実に、自然と感動してしまう。今まで何となく疑問になっていたことがどんどん解明されていく。

 古代なのに、3000年も前の世界なのに、こんなにも素晴らしい。機械に囲まれた現代人より今私の周りにいる人たちの方が、ずっと強くて輝いているようにさえ見える。

 自然が与えてくれる愛に身を任せ、自然と共に生きている彼らの姿を、目の当たりにして鳥肌が立った。


「凄いわ」


 腕を摩りながら呟いた私の小さな声に、彼は満足そうに「そうだろう」と笑った。




 しばらく行くと、お店がたくさん並んでいる通りに出た。馬に羊に犬に、牛。最初はこんな格好で、それも馬で出かけるなんて目立つのではないかと思っていたが、そうでもない。

 同じような姿の人々が、茶色の家々の間の道をゆらゆらと馬や牛に揺られ、進んでいく。商人だろうか。その中にはエジプト人の他に、エジプト人より肌の色が薄い北方系民族だと思われる人々の姿もあった。


「他国からの商人だな」


 小さく、布で隠れた口で彼が声を発す。


「他国って、どこの国を言うの?」

「ヒッタイト、アッシリア、ミタンニ、ミノア、バビロニア……」


 言い並べられるのは知らない名前ばかりで、全くと言っていいほどどこがどこだか分からない。多分、これらも全部3000年前の呼び名なのだろう。


「ヒッタイトは、どこにある国?」


 彼と話していると時々耳にする国名だった。その国と同盟を結ぶのに大変で、アンケセナーメンと結婚できなかったと言っていた気がする。


「ヒッタイトは我が国の北、死の海の向こうの地を制す、数年前まで我が敵国だった国だ」


 死の海とは、別名を黒海、硫化物を多く含むために黒く見えることからその名がついたとされている。

 エジプトの北、そしてその黒海を領海としている国はただ一つ。現代のトルコしかない。


「今はシュッピルリウマ王が治めているが、今か今かと資源豊かな我が国を狙っている。まあ、あのような老いぼれに私が負けるわけはないが」

「しゅ、しゅぷるま?」

「シュッピルリウマ。ヒッタイトを大国として築いた張本人だ。国外でも大王と呼ばれている」


 もう一度挑戦しようかと口を開いたものの、絶対言えないと思い直して唇を閉じた。

 昔の人の名前って発音し難いし、言い辛い。もっと簡単な名前にすればいいのに。


「その、ヒッタイトが今後攻めてくることはあるの?和平を結んだのに」

「和平など、所詮口先だけに過ぎぬ。ただの無期限の休戦だ。今は攻めてくることはないだろうが、こちらが弱みを見せればすぐにでも飛びついてくる。それほど、ヒッタイトにとって我が国は手に入れたい国なのだ」


 信用という言葉はこの時代にないのかと思えるほど嫌な関係だ。


「アッシリアはメソポタミアの地域、バビロニアはその隣だ。このどちらも我が国を喉から手が飛び出るほど欲しいと思っている国と言えよう」


 メソポタミア文明は聞いたことがある。

 チグリス川とユーフラテス川を中心に栄え、エジプトと並ぶ巨大な文明を気づいた世界四大文明の一つ。そこにある国と言ったら、現代で言うイラクあたりだ。

 なんとなく地図が頭の中に出来上がっていく。

 同時にそんなにこのエジプトが狙われているなんてと驚きも隠せない。

 大河ナイルとこの豊かさを、どの国も欲しているのは分からなくもないけれど、侵略を狙う輩がいるということはこの平和が脅かされる日が来るかもしれないということだ。

 もしその国々が団結して一斉にこの国に襲ってきたら、と思っただけでぞっとする。


「弱みを見せるって、例えばどんな?」


 それさえなければ、大丈夫なのよね。

 ヒッタイトやアッシリアが襲ってくることはない。


「神を替えたせいで国内の反乱が起きたり、王が死んだり……この二つだな。これが起こればすぐにでも襲ってくるぞ」


 神を替えるとは、おそらく宗教を替えるということ。一言で言えば、宗教改革。

 信じていたものを変えろと言われるわけだから、民が怒ってしまうのも無理はないのかも知れない。

 この国の人々、そしてこの時代の人々にとって、宗教や神様というものがどれだけ大事な存在であるかを考えれば尚更。

 日本だと島原天草一揆がそれに似ている。変えるだけで大騒動が起きる。宗教はそれほど大切なのだ。


「我が父、アクエンアテンが神を替えたせいで、数年前まで我が国も大変だった」


 あれは悪夢だった、と彼が小さく零す。風に吹き消されてしまうような声だった。

 アクエンアテン──首都をテーベからアケトアテンに移したという、彼とアンケセナーメンの実父。

 その人が宗教改革を行ったということ。こんな笑顔あふれる平和な世界に反乱が起きただなんて想像できない。


「今も……」


 そこまで言って、彼は口を噤む。どうしたのかと振り向くと、いつも信念を灯している淡褐色を揺らしているのを見た。

 迷い、悲しみ、信念が揺らぐ。珍しい相手の目の灯火に戸惑う。


「ヒロコが案ずるようなことではない。私が死ななければ何とでもなる」


 私の視線に気づいたのか、彼は顔に笑みを浮かべた。

 それでもやっぱり悲しそう。ちらとしか見せなくとも、それを思わせる何かが確実にこの人から流れてきた。


「……死なないでね」


 自然と、口から零れた。感じた物悲しさに反応して、勝手に唇が動いた感覚だった。私の言葉に淡褐色が僅かに見開いたのを視界の端に見る。


「なんだ」


 ぐいと私の横に出てきたのは、彼の顔。何を言われるのかと、眉を顰めて負けじと見つめ返す。


「私を気遣っているのか?」


 何を言うかと思えば。

 違うわよ、と後ろの彼を軽く叩いた。ぽん、と音が身を包む白さの上で弾む。


「だって、あなたが死んだらこの国は敵国の狙いの標的になるんでしょう?ヒッタイトとかアッシリアとか……そんな国に狙われたらみんなはどうなるの。駄目よ、そんなの。絶対に駄目。あなたの存在は色んな人の幸せを背負ってるんだから」


 真剣に答えたつもりなのに、彼はけらけらと口を大きくして笑い声を響かせた。


「何で笑うの!」

「いや、それほど私が病弱に見えるのかと思ってな」


 手に握る手綱を揺らし、彼は高らかに声を立てる。


「笑わないでよ!」


 行き交う商人たちが不思議そうな視線を送ってくるのに気付いて恥ずかしくなる。ただでさえ目立つべきではないのにこんな大通りで目立つ笑い声を立てるなんて。

 涙目を指で拭いながら、彼はいつものように口元に得意げな微笑みを浮かべた。


「私はそう簡単に死なぬ。少なくとも、世継ぎが生まれるまではな」


 私を抱き直して、もう一度強く手綱を握る。少しだけ馬の速さが増す。


「世継ぎさえ生まれれば、大事ない。それまでは這い蹲ってでも生き抜くぞ」


 世継ぎ。

 ああ、そうか。彼は王家なのだから、世継ぎが必要になる。どこの王家も同じ。世界中の王という王は皆、子供の誕生を望まれている。彼もそのうちの一人に違いなかった。


「それとも私がそんな世継ぎが生まれる前に息絶えるような軟弱な男に見えるのか?」

「まさか。きっとあなたは200歳まで生きるわよ。私が保証してあげる」


 私の冗談にまた、そうかと周りに響き渡る大声で笑った。

 そうしている間に日干し煉瓦ではなく、石で作られた立派な建物が現れた。直方体で、25メートルプールほどの大きさ。周りで子供たちが走り回っていたり、しゃがみ込んで愉快そうに話していたりしている。


「さあ、着いたぞ。ここに来たかったのだ」

「ここは?」


 馬を降り、満足そうにその白く四角の建物を見上げる彼に問う。


「入れば分かる。会いたい男がいてな。さあ行くぞ」


 けらけらと声をたてて遊ぶ子供たちを避けつつ、どこか嬉しそうな彼に腕を引かれて入り口をくぐると、さっきまで耳を満たしていた子供たちの声が更に増した。


「せんせー!わかんなーい!」

「出来た出来た!見て、先生!これ見て!」


 入ってすぐ、目の前にずらりと並んでいたのは小学生くらいの年齢の子供たちだ。

 地面に座った20人ほどの男の子が粘土板を膝の上に置いて、一生懸命に鉛筆ほどの長さの木の棒で文字を彫りながら賑やかな声を弾ませている。

 一番前に置かれた灰色の石板にはヒエログリフが五十音表のようにびっしりと並べられ、国の地図まで描かれていた。

 見る限り、ここは古代の学校。視界いっぱいに広がる光景に思わず声が漏れた。


「少し待っていなさい。大事なお客様がいらしたからね」


 縋る子供たちの頭を撫で、私たちの方へやってきたのは、深い緑の頭巾を被った50歳ほどの男性だ。皺を刻み始めた頬に慈愛に満ちた微笑みを湛え、私たちを優しげな目に映している。仏様のような和やかさがある人だった。


「……お久しゅうございます」

「マヤ・カネフェル」


 ゆっくりと頭を下げた仏様に、彼は嬉しそうに男性の名を呼んだ。


「暫くお見かけしない間に、またご立派になられましたな」


 頭を上げた仏様は、懐かしいと言わんばかりに彼を見て柔らかい声を奏でた。父が我が子へ注ぐような眼差しと、それほど違いはないと思う。


「お前も元気そうで何より」


 ええ、と静かに頷き、彼の全身を眺めまわしてから、悩むように仏様が口を開く。


「……今日は商人殿とお呼びした方がよろしいのでしょうか」

「頼む」


 少しばかり潜められたその声に、彼は苦笑した。


「またセテムを置いて出て来たのですか……なりませぬと申し上げましたでしょう。あなた様は各国から御命を狙われている御方。その辺りをしっかりと肝に免じておきませぬと」

「私がそこらからやってきた愚かな侵入者にやられるとでも思っているのか」

「油断は禁物ですぞ」


 身分を隠してここまで来ていることを、この人は気づいている。王宮にいる訳でもないのに、随分と彼という人間を知った人のようだ。

 一体何者なのかと彼の後ろからそっと覗いてみる。彼の言っていた『会いたい男』とは、この人のことなのだろう。


「手紙で知らせただろう」


 素早く褐色の腕が伸びてきたと思ったら、声を上げる間もなく私の腕を引っ掴んだ。

 声をかけてくれれば別に驚かないのに、強引に引っ張り出されて変な声が私の口から漏れてしまう。


「お前に会わせたくて連れて来た」


 気づけば彼の前に出されて、あの優しさ溢れる目に私が映っていた。

 相手は視界のものを認識するや否や、信じられないというようにわなわなと身体を震わせ、瞳の中の私を大きくさせる。


「ああ、まさか……!!」


 潤ませた目元は、ゆらゆらとその瞳孔を揺らめかす。


「……アンケセナーメン様!!」


 また、その名前。私は何度、その名で呼ばれてきたのだろう。

 あまり呼ばれたく無い名前でも、そんなことを言える身分でもないから少しだけ口元を緩ませた。


「よくぞ、よくぞ甦ってくださいました!」


 私の両手をその震える手で取り、崇めるように頭を下げる。


「この者はマヤ・カネフェル。数年前まで王宮に仕え、私の教育係を務めていた者だ。優れた男だぞ。この男から私は全てを教わった。今はここで民の子供たちに読み書きを教え、王宮に仕える機会を与えている」


 背後にいた彼が紹介してくれた。

 つまり、彼に読み書きや王族としての教育をしたのが、この人。

 実際に彼と言う人間を作った人だから、彼の行動パターンもよく分かるのだ。彼の巧みな物言いに言い包められてしまうセテムやカーメスとは違って、この人は彼をまっすぐ叱りつける。彼に口で負けないなんて大物だ。


「甦りになられたのにも関わらず今まで挨拶に伺いませんでしたこと、申し訳ありませんでした。どうか、お許しください」


 下げていた頭を上げ、その人は零れ落ちそうな透明な涙を浮かべて、私に言う。


「知らせを頂き、本来ならすぐにでも王宮に向かうが義務。それにも関わらず伺わなかったのは、どうしてもあなた様が甦られたと信ることができなかったのです。ファラオが似た女性でも見つけ出してきたのかと」


 そんな面倒なことはせぬ、と彼が声をたてて笑った。


「お前は慎重すぎるのだ、カネフェル。そうか、だから私に信じるなと手紙をよこしてきたわけか」


 私を信じるな、と。

 死んだ人が甦ったなんて言われて、すぐに信じる人の方がどうかしているもの、当たり前の反応だ。それくらい慎重であった方がいい。そもそも、最初の頃は彼は全く私を信じていなかった。

 柔らかく掴まれた手が、とても暖かいことに気付く。肌を伝って私の心まで包んでくれる。


「ですが、今お会いしてまさしくあなた様だと確信いたしました。あなた様の他の誰でもない。正真正銘、この方だと。背も肌の色もお変わりになられた……しかし取り巻くものは何も変わられてはいない。王家のため、ファラオのために尽力したあなた様そのものにございます」


 思い出すのは、ナルメルの言葉。取り巻くものが、私の雰囲気が、所々アンケセナーメンその人を想わせると。


 違うのに。私は私なのに。

 工藤弘子という人格を否定されているようで、どうしようもない感情に陥ってしまう。


「お記憶を失われていることも聞いております。私の事もお忘れでしょう」


 私を世話するほんの一握りの人しか知らないことを、彼はこの人に知らせている。本当に信頼を寄せている人なのだと感じた。


「あなた様は幼き頃より政に関心のある、とても賢い御方でした。教えることの喜びを私に教えて下さったのはあなた様です」


 アンケセナーメンはこの人の可愛い教え子だったようだ。


「あの懐かしい、暖かな日々を失われたと思うと、とても悲しい」


 申し訳なくなってごめんなさいと謝る前に、その人は涙が伝った頬に再び笑みを浮かべた。何かを諭すような表情に、喉まで出かけていた声が止まる。


「……それでも、きっとあなた様は思い出されるはず。神がそう仰っているのが、私には聞こえます」


 他の人の記憶を思い出す──そんなこと絶対にあるはずないのに、その声で言われるといつか思い出すのではないかとさえ思えてくる。

 思うのではない。声が、私にそう思わせる。

 もしカネフェルの言葉通り、そんな記憶を思い出したら私は一体どうなるのだろう。狂うだろうか。それとも受け入れられるだろうか。

 きっと、狂ってしまう。

 どうして他の人の記憶なんて受け入れられるというのだろう。出来るはずがない。私が私でなくなってしまう。


「これで我が国も安泰というもの。お会いできて本当に良かった。あなた様には感謝申し上げます、ファラ……いえ、商人殿」


 伝う涙の跡を拭い、カネフェルは彼に頭を下げた。


「喜んでもらえたのなら良かった。それでだが、今日私がここへ出向いたのはカネフェル、お前に相談したいことがあったからだ」


 最後の声色が、空気を一瞬にして変える。


「分かりました……私などで宜しければ」


 カネフェルも声を低めた。彼が言おうとしていることを、初めから分かっているようだった。


「ではこちらに」

「待て」


 別室に私達を促そうとしたカネフェルの手を、彼が制した。


「アンケセナーメンにはお前が持つミイラ職人たちの養成所を見せてやってほしい。そちらに興味があるらしいのでな。今回の話に相席する必要ない」


 彼の言葉に、えっと声を上げてしまう。

 ミイラ職人の養成所だなんて。


「ああ、そう言えば死後の世界でその知識を得られたのだと仰せでしたな」


 私が暇を見つけては勉強している解剖学の事のことを言っているのだろう。勉強していると、ネチェルやセテムも私を「ミイラ職人のようですね」と言う。


「そこの君」


 カネフェルは代わりに子供たちの世話をしていた数人の内の一人を呼んだ。


「何でしょう、先生」


 いそいそとやってきたのは20代後半くらいの男の人だ。


「この御方にミイラの職人見習いたちの方へ連れて、ミイラについてのお話を聞かせて差し上げなさい」


 カネフェルの言葉にその人は少し驚いた顔をしたが、やがて分かりましたと頷いた。


「では、こちらにおいでください」

「い、いいえ!いいです!!遠慮します!」


 慌てて出した声が、少し上擦った。

 ミイラだなんて。カイロ博物館のミイラだってまともに見ることが出来ないのに。


「アンク……!」


 彼の服を引っ掴んで、その耳に口元を近づけた。


「私ミイラは無理!」


 周りに聞こえないよう、出来るだけ声のトーンを落として訴える。


「自分と瓜二つのミイラは見たくせにか」

「それとこれとじゃ話が違うでしょ!?」


 アンケセナーメンのミイラを見て、もっとミイラが苦手になったというのに。


「お願い!私もそっちに連れて行って!静かにしてるから!」


 白い麻布を掴んで懇願する。

 生のミイラ造りだなんて、見たいとは思わない。過程を見せられるとしたら、内臓を取り出して、鼻から脳みそを取り出して──そんな光景。考えただけで気が遠くなってしまいそう。

 解剖はまだビデオや資料でしか見たことがない。医学部生と言えど、そういう実習が行われてから、徐々に慣れていくものだ。最初は気分が悪くなるとまで聞いたことがある。

 医学をかじったばかりの私に、そんないきなり本番みたいなことが出来るはずない。


「本当に無理なの……!」


 懇願し続ける私に、彼はぐいと顔を寄せて悪戯に笑う。


「ミイラこそ、我が国の素晴らしき文化だ。お前の国にはこの文化がないというからな、ここで覚えて帰った時に布教すると良い」

「わ、私、ミイラの造り方くらい知ってる!お父さんに何回説明されてきたと思ってるの!」


 呪文のように、一言一句間違えずお父さんのミイラメイキングを唱えることが出来る。


「知っているのなら、今回それをより濃い物とするがよい。さあ、カネフェル、話をしようではないか」

「そんな!」


 助けを求める私の手を難なく振り払い、彼はスタスタとカネフェルを後ろに歩き出し、去り際のカネフェルが「楽しんできてくださいね」と頭を下げて消えていった。


「……では、参りましょうか」


 ぽつりと残された私に、男の人は小さく、遠慮がちに呟いた。

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