KV62

 王家の谷に降り立ったのは、もう夕方と言ってもいい時間帯になってからだった。


 茶色で寂しいその谷を、夕陽が赤に染めている。砂漠が燃えていると思わずにはいられない色だ。

 時間のせいか、あたりを見渡しても観光客はほとんどおらず、それが妙な孤独感と切なさを生んでいた。


「この時を狙ってたんだ」


 隣を見上げると、父がしてやったりと口端を上げている。


「ツタンカーメン王墓は観光客にも人気があるからね。見るならやっぱり、貸切状態であることに越したことはないし、この時間に来て正解だったな」


 自慢げに胸を張っている。


「さすがお父さん」


 心からそう思って出たはずの言葉だったのに、棒読みに近い声色になってしまった。父はそんなこと気にせず、褒められたことに対して嬉しそうに鼻の下を指でこすっている。


「そうだろう!そうだろう!……どうした弘子、肩でもこったのか?」


 肩を抑えてぐるぐる回す私を見て、父は首を傾げた。


「ちょっとね」


 無駄に分厚い専門書のせいで、ショルダーが重くて肩が妙に痛い。あんなに意気込んでバックに詰めてきたのに、結局全く開かないで終わってしまった。


「だから言ったろう?出かけたらどうせ、勉強なんてこれっぽっちも出来ないんだから置いて行けって」


 わざとらしく呆れた風にして良樹が言う。


「いいの。運動よ、運動。運動大事でしょ。いつかムキムキになってやる」


「はいはい、運動ね。わかりました」


 また彼は鼻歌を響かせる。今度はジャズのような、軽やかなメロディーは燃える砂漠の砂を撫でていった。

 きっと、鼻歌は良樹の癖だ。


「さあ、ツタンカーメンはKV62!あと少しだ、頑張って歩け!」


 歩くどころか、父は小走り状態で進みだしてしまった。


「お父さん!ちょっと早い!」


 父を先頭に、私たちは王家の谷を駆けて行った。


 KV62。

 約90年前、この谷で62番目に発見された、20世紀最大の発見と謳われるファラオの墓。

 盗掘を防ぐために入り口は驚くほどに質素だ。黄土色の小さな壁に囲まれた中に、穴がぽっかりと四角に開いていて、そこに細い階段が伸びている。

 だが、目的地で待っていたのは行く手を塞ぐ柵と、思いがけない表札だった。


『closed』


 奥の入り口には檻のような鉄の柵で頑丈に塞がれてしまっている。


「休み……」


 茫然と良樹が読み上げた。


「あら、残念だわ。せっかくここまで来たのに」


 母が頬に手をやりながら首を傾げる中、私は天が味方をしてくれたのだとばかりに父の袖を引っ張った。


「ほら、お父さん!休みだって!もう帰ろう!ね?」


 必死になって訴える。さっきの呪いの話を聞いてからあまり入りたくない。呪いだなんて、本来なら信じなくとも今回は少し別だった。

 やっぱり人のお墓になんて入るべきではない。


「ねえ、お父さん」

「安心しなさい、弘子。お父さんを誰だと思ってる」


 楽しそうににっこりと笑って、隣のラムセス6世の王墓にいた係員らしきターバンを巻いたおじさんに声をかけた。


「クドー!クドーじゃないか!久しぶりだねえ!!」


 おじさんが褐色の頬に満面の笑みを見せて父に抱きついた。


「ちょっと娘たちにツタンカーメンの墓の中を案内したいんだ。特別に開けてくれないかな?」

「クドーの頼みならお安い御用さ!」


 おじさんは鍵らしきものを腰のポケットから取り出して、柵の鍵を開けてしまった。


「ほら、弘子、お母さん、良樹!おいで!」


 そんな。


「さすがお父さんねえ。職業の権威上手く利用しちゃってるわ」


 母の台詞に、利用というより乱用ではないかと思わずにはいられない。


「さすが、天下のカイロ博物館の学芸員だと違うな」


 良樹は興奮気味に歩き出す。

 カイロ博物館である程度の地位にいた父には、そういう権威があったということを、私は今更になって思い出した。


「さあ、弘子、行くぞ!」


 父に腕を掴まれて入口を覗くと、その黒い入り口が階段の下にありありと見えた。


 その瞬間、ぶわっと風が下から噴き上げたような感覚がして、突然泣き叫びたいくらいの感情に襲われる。

 悲しいのか、辛いのか、怖いのか、嬉しいのか、言葉にならない、今までに感じたことのない感情の渦が私を呑み込む。


「……わ、私、外で待ってる!!」


 父の腕を振り払って逃げるように後ずさり、入口前で立ち竦んだ。呪いの話を聞いたせいだけではない。

 何故か、入ったらもう二度と外へ出てこれないような気がした。暗い入口があまりにも怖い。


「どうした、弘子」

「やだ!!私、行かない!」


 良樹の呼びかけに自分のものとは思えないような声で叫んでから、はっとして家族の方を見やった。両親も良樹も、ターバンのおじさんも、私を唖然として見つめている。


「……ご、ごめんなさい」


 慌てて言葉を発した。


「あの、ちょっと暑さにやられちゃったみたい。みんなは行って来て。私、外で待ってるから」

「ちょっと歩きすぎちゃったかしら……大丈夫?弘子」


 母が心配そうな顔をして駆けてきて、私の背中を擦りはじめた。


「大丈夫。ちょっと、気分が悪いだけ」


 暑さにやられたというより、背中を舐めるような悪寒にやられたと言った方が正しいかもしれない。背中に冷や汗のようなものが伝って行くのを感じて、自分を抱くようにして腕を摩った。


「なら、今日は帰るか?」


 父も腰を屈めて私の顔を覗く。


「そうですね。弘子が心配ですし……今日は随分と歩き回りましたから」


 良樹も私に近寄って顔色を窺う素振りをする。


「で、でも、今日逃したらお父さんたちもう長い間来れないし!私は大丈夫だから」


 エジプトが大好きな父が明日エジプトを離れる。その最後の楽しい日を、私の体調だけで中断させるのは申し訳なかった。


「でもなあ」

「なら、クドーさん。私が娘さんと外で待ってましょうか」


 そう提案したのはターバンのおじさんだった。


「水もありますし、日陰も十分にありますから。もしもの時は、ちゃんとレスキュー隊も呼べますし。よくこの辺りで熱中症で倒れる観光客はいますから、対応には慣れていますよ」


 それでも父は眉を八の字に崩している。


「いや、でもなあ」

「お父さん、大丈夫だから楽しんできて。最後じゃない」


 私は蝕むような悪寒を堪えて、笑顔で悩む父の背中を押した。


「弘子もせっかくそう言ってますし、おじさん、少しの時間だけ入ってみましょうか。この墓、すごい狭いですし、短時間で回れるでしょう?10分もかからないとか」


 私の気持ちを読み取ってくれたのか、良樹がそう促してくれた。


「そうね、せっかくだし少しだけ。弘子、大丈夫ね?」

「うん、3人で楽しんできて」


 私から手を離した母に笑って見せる。


「じゃあ、お父さん引っ張って行ってくるわ。この人ったら、一人娘が可愛くてしょうがないのよ。ほら、お父さん行くわよ!」


 渋る父の背中を良樹と母が押しながら、3人は下の暗い階段へと消えて行った。






「ここの日陰にいるといいよ、お嬢ちゃん」

「ありがとうございます」


 ターバンのおじさんに案内されて、KV62の入り口付近に設けられた、小さな日陰に椅子を用意してもらい、そこに座った。


 夕方の太陽が足元に伸びる遺跡の影を伸ばしていく。黒々とした自分の影を見やってから、あのお墓の入り口の階段の方に目をやった。そこだけが温度が随分低いように感じられた。

 3人は今頃楽しんでいるだろうか。今となっては何ともなくなっていたから、ついて行っても良かっただろうかとも思えてくる。

 けれど、どうしてあんなに嫌がったのか、自分でも分からなかった。

 ファラオの呪いの話を聞いたからだろうか。それとも、もっと別の何かだろうか。自分が変であるように感じた。いつもと違うような。



『──ドウシテ死ンダノダ』



 弾かれたように顔を上げた。

 足元をエジプトの砂が舞う中、砂嵐の奥で、噛みしめて出されるような声が耳の奥で鳴った。


『──ドウシテ死ンダ』


 まただ。辺りを見渡すけれど、何もない。誰かがいる訳でもない。いるのは隣におじさんだけ。


「あの、」

「どうした?お嬢ちゃん」


 隣で書き物をしていたターバンのおじさんは優しく微笑んで、返事をしてくれる。


「何か、言いませんでした?」

「え?何も言ってないが」


 聞いてみて、おじさんの声ではなかった。また、空耳だったのか。


『──ドウシテ!!』


 身体がびくりと跳ね、それと同時に勢いよく足が立ち上がった。


「呼んでる……」


 言葉が不意に私の口から漏れた。


「え?」

「……私を、呼んでる」


 足が無意識に動き出す。ふらふらと、不確かな足取りであの場所へ向かう。


「お嬢ちゃん!どこに行くんだい!!もう大丈夫なのかい!?」


 おじさんの声がおぼろげになる。耳に見えない蓋を被せたかのように声が遠かった。足は前に歩み、階段を降りていく。


『――約束シタノニ』


 声が、お墓の階段を降りていくたびに鮮明になっていく。


「い、いや」


 自分の物ではないように動く自分の足に恐怖が走った。何かに憑りつかれてしまったよう。


 止まって。行きたくない。

 そっちに、行きたくない。


「止まって……!」


 自分が怖い。


『――最後マデ見届ケルト約束シタノニ』


 また声。砂漠に泣くような声。それが増すたびに心臓が跳ね上がる。

 階段を下りて細長い空間の奥に小さな部屋に出た。埃っぽい、胸が詰まるような臭いの先に良樹がいた。


「弘子?」


 彼が驚いたように目を見開いて私を見ていた。


「なんだ、元気になったのか。おじさんたちなら奥にいるよ」

「た……助けて」


 やっと出した言葉に、彼は訝しげに眉を寄せる。


「弘子?」


 説明しようとする口は動かず、足は止まらない。


「良樹!」

『――約束、シタトイウノニ』


 やめて。

 もう話さないで。私が壊れそう。


「おい!弘子!」


 彼の横を通り過ぎ、ふらふらとその奥の部屋に向かって行く。その向こうの部屋。

 壁画が部屋一面に美しく描かれ、その真ん中に棺がある部屋。写真で見たことのある玄室だ。そこに踏み入れた途端、涙が知らないうちに頬を溢れだした。


「弘子?どうした?」


 そこにいた両親もさっきの良樹と同じ顔をする。助けを求めようとするのに、もう声が出てくれない。両親の間をすり抜け、私は棺の前に立つ。

 ガラスの蓋の中の、黄金の棺。中にあるのは、故人の似顔絵が描かれた人型棺。ツタンカーメンの、人型棺。


 ようやく足が止まってその場から逃げ出そうとするのに。両親の方へ駆けていきたいのに。接着剤か何かで固定されてしまったように、足が動いてくれない。足が、身体が、言うことを聞かない。


『――アンケセナーメン』


 泣き叫びたい。

 その声に、泣き喚きたくなる。


「弘子?」

「どうしたの?弘子?」


 両親の声にも答えられない。


 助けて。私、おかしいの。身体が勝手に動くの。


 言いたいのに、口が動かない。両手が無意識に動き、その棺を覆うガラスケースに触れた。そして、口が勝手に動き出す。


「おん、み……」


 震える声が玄室に落ちていく。知らない言葉だった。


「生きて、ある限り……心、正しくあれ」

「弘子、それは死者の」


 父の声は戸惑いを孕んでいる。


 助けて。助けて、お父さん。止まらないの。声が、言葉が、止まってくれない。


 最初から知っていたもののように、言葉だけが私を残して口から流れていく。


「人は、皆、すべて死後に……世界、ありて……なせる業ことごとく」

「弘子!」


 弾けるような呼び声と共に現れたのは良樹だった。そしてターバンのおじさんを後ろに連れている。


「おじさん!おばさん!弘子の様子が」


 彼の声を遮って、私の声が張り詰めた。


「屍の傍らに降り積むなればなり!!」

『――帰ッテコイ』


 声が。


『――我ガモトヘ』


 声が。


『――約束ノ下デ、甦レ!!』


 私も叫ぶ。その声に答えるように。意に反して、勝手に言葉が口から出て行く。喉がはち切れんばかりに、知らない言葉が鳴り響く。


「我、汝がもとへ……いざ、帰らん!!!」


 その瞬間、どこからともなく黄金の眩い光が溢れた。茶色の寂しい世界から、一瞬にして金の世界へと変わっていく。

 髪が吹き荒れ、息が止まってしまうくらいの黄金の風が私を包んだ。白い帽子が飛んでいく。


「い、いやっ!!」

「弘子っ!!!」


 良樹が叫んでいた。両親が、唖然と大きく目を見開いて私を見ている。光が私の身体を絡め取る。


「た、助けて!!助けて!」

「弘子っ!!」


 血相を変えた良樹が、両親を押しやってこちらに手を伸ばした。ぐいと光に引っ張られながらも、伸ばされた手に、私も手を伸ばした。光の中から精一杯の力をこめて伸ばす。


「お父さん!お母さん……!!」


 助けて。誰か、助けて。怖い。怖いの。


「ひ、弘子っ!!あなた!弘子が!!」


 我に返った母の悲鳴を上げた。


「弘子!手を伸ばせ!!!」


 良樹が、その大きな掌を思いっきり広げて、私に伸ばしてくれる。小さい頃から見てきた、馴染んだ手を。


「良樹!!」


 それを掴もうと、私も必死に腕が千切れんばかりに伸ばすのに。懸命に手を伸ばすのに、良樹の手が、その家族の姿が、遠ざかっていく。

 手が触れることはない。遠ざかって消えていく。黄金色が私の視界を埋め尽くす。


「弘子!」


 誰かが、私の名を呼んだ。もうその声の主さえ私には分からない。

 ただ、その声に届くように必死に叫ぶ。


「助けて……っ!!!」


 私は悲鳴と共に、黄金の中に引きずり込まれた。








 上も下も。右も左も、分からない。何も、分からない。

 川の中にでも溺れてしまったようだった。

 黄金のナイル川だ。どこへなど分からず、私は流れに従って流されていく。


「お父さん!お母さん!誰か……!」


 呼んでも、叫んでも、誰も答えてくれない。


「助けて!!」


 肩にかけてあるショルダーを離すまいと胸に抱きしめて叫ぶ。縋りつくとしたらこれしかなかった。離すまいと腕が痛くなるくらいの力を込めてショルダーを抱き締めていた。


 私はどうなるのだろう。一体、私はどこへ流されるのだろう。


『……私の治める世を』


 また。


 途切れることなく、さっきよりもずっと滑らかに耳に鳴る。


 もうやめて。


『共に見届けると、約束したではないか』


 これは私に言ってるのだろうか。でも、そんな約束なんて、私は知らない。


『幼い時から、ずっと』


 知らない。

 小さい頃からいたのは良樹だけ。良樹と、メアリーだけ。他の男の人なんて、私は知らない。


『頼む、甦ってくれ。そうでなければ、私はこの国を治めることは出来ぬ』


 どんどん近づいてくる。どんどん近くなっている。


『この太陽と砂漠の国を。神々の国を』


 太陽と砂漠の国?神々の国?

 どこのことを言っているのか。


『頼む、甦れ!我が元へ!!』


 その声と共に、流れていく先に金色の中に白い光が生まれる。開かれたように丸く白さが弾けていた。


 出口だと、そう思った。


 きっとあそこから抜け出せる。この意味の分からない空間から抜け出して、両親に、良樹に逢える。KV62に戻れる。


 我武者羅になって、その白さに手を伸ばした。風が吹き荒れて、私の髪を後ろに流していく。


 助けて。

 誰か、私を助けて。


 やがて、白い光の中に人影が見えた。

 褐色の肌にエジプト人だと咄嗟に思う。額に黄金のハヤブサをつけた、黄金と茶色を併せ持つ人が祈るように目を閉じている。


「助けて!!」


 必死に叫ぶと声が聞こえたのか、その人がぱっと目を開けた。顰められた眉の下に、見慣れぬ淡褐色の目があった。茶色がかった、黄色の瞳。それが私を大きく映し出し、驚いたように大きく見開かれる。

 いきなり何か強い力に引き寄せられ、私は黄金の中から投げ出された。切れ長の黄金が舞う淡褐色の中に私が大きく映って、ぶつかりそうなくらい近くなり、ガタンという音と共に私は地面に落ちた。


「……い、いた」


 頭を抱えながら体を起こす。何が何だか分からない。

 私は、戻って来れたのだろうか。あの怖い出来事は、あの光は、何かの夢だったのだろうか。


 ああ、駄目。

 気持ち悪い。

 頭がぐるぐるしていて吐いてしまいそう。


「お前……」


 声がすぐ近くから聞こえ、頭を抑えながら顔を上げる。顔を上げた先。目の前に、褐色の人が目を見開いていた。

 なんて綺麗な目。黄金のような、淡褐色。今更、さっき光の中から見ていた目だと気づいた。

 父でもなく、良樹でもない。私は知らない男性の上に伸し掛かっている状態だった。おそらく光の中から飛び出して下敷きにしてしまったのだ。


「ファラオ!!」


 声が弾けたと思ったら、いきなり槍のような武器を持った人に360度囲まれていた。


「何奴っ!!!奇怪な光の中からファラオを襲うとは何かの妖術かっ!?」

「ファラオに伸し掛かるとは何たる無礼!殺してくれる!!」


 まるで重罪でも犯したように、槍を向けられている。


「な、何……」


 ファラオ?それはエジプトの王の呼び名のはずだ。

 誰のことを、言っているのだろう。


「ひ、姫様……?」


 槍に驚いて顔を上げた私を見て、槍を向けていた内の一人が素っ頓狂な声を上げた。


「姫!」


 その言葉にも首を傾げたけれど、それより驚いたのが私を囲む光景だった。


 まるでさっきまで見て回っていたルクソールの神殿の中のようだ。でもそれはあまりにも美し過ぎる壁画で彩色され、大きな柱は威厳を湛えている。あの遺跡とは比べ物にならないほどの、神々しい栄華に彩られていた。


 大きな神の像。祭壇のような場所を囲むように並べられている、大きな炎。そして、周りを囲む人たちの格好。


 よく壁画で見てきた、半裸で、白いスカートのような生地を腰に巻き、金属のサンダルと白い頭巾を被っている姿。よく父が言って聞かせてくれた古代エジプトの兵士の衣装そのもの。


「姫様がお戻りになられた!」

「まさかこれほど早く甦られるとは!」

「我々の祈りが通じたのだ!!」


 意味が分からなくて、あたりを何度も見渡す。周りの人たちは涙ながらに『姫』と叫んでは信じられないと言った目を私に向けている。


「アンケセナーメン……」


 はっとして正面を向くと、ずっと近くにその顔があった。最初見た時は気づかなかったが、今になって記憶が蘇る。

 褐色の肌。淡褐色の綺麗な切れ長の瞳。

 博物館で、私に手を伸ばした人。博物館で私を呼んだ、あの幽霊。


「アンケセナーメン、戻って来てくれたのか」


 彼は言った。今にも泣きそうな目で。


「あ……ああっ…!!!」


 恐怖が仰け反ってきて、思わず後ずさる。頭を抱えて、その幽霊の面影を持つその人から離れようもがいた。立てずに座ったまま、とにかく逃げようと必死になる。


 知らない。アンケセナーメンなんて、私は知らない。


「ひ、姫!いかがなされました!?」


 兵士が叫ぶ。

 違う。姫って誰なの。私は姫なんかじゃない。


「や、やだ!寄らないで!」


 叫ぶのに精一杯だった。なのに、どんどん兵士のような人たちは嬉しそうな笑顔を向けて、私に近づいてくる。


「戻ってきてくれたのだな」

「お父さんはどこなの!?お母さんは!?良樹は!!」


 ガタンと背中に何かがぶつかった。はっとして振り返ると、何やら装飾が施された箱がある。


 棺であると一目で気づいた。博物館で並んでいるものだ。見間違えるはずがない。

 女の人を描いた人型棺。私がぶつかった拍子に、それが揺れる。

 博物館にあるようなものじゃない。ずっと鮮やかで、生々しい。時代を越えて現代にあるような、廃れた色がひとつもない。

 身体中が震えだす。まるで、古代だ。私がいる世界は、父が見せてくれた古代エジプト壁画そのものだ。壁画でしか見たことのない世界が、目の前で生々しく動いている。

 そんなはずない。私は確かにKV62にいた。ツタンカーメン王墓で、お父さんとお母さんと一緒にいた。ついさきっまで。


 なら、どうして。どうしてこんな訳の分からない所にいるのだろう。

 ここはどこ。お父さんはどこにいるの。お母さんは。良樹は。

 私は、一体どこにいるの。


「アンケセナーメン」


 真上から落ちてきたその声に、恐怖が走る。

 そう。その声。さっきからずっと耳の奥に鳴っていた声。


「甦ってきたくれたのだな」


  甦るとは死んだ人が生き返ることではなかったか。私は死んでない。死んだことなんてないのに、どうして甦ることなど出来るだろう。この人はどうして私が甦ったなんて言うのだろう。

 棺にぶつかって腰を抜かし、動けなくなっている私の目の高さに、その人が腰を屈めた。


「約束を果たすために」


 博物館の時と同じように、薄い唇がゆっくりと動いてそう言った。

 金縛りに合ったように私の身体が固まる。その褐色の腕がふわりと私の方へと伸びる。幽霊がおいでと言っているように。

 あの時と、同じ。


「や……」


 手が伸びる。それが何か魔物の手のように私の目に映る。


「いや」


 意味が、分からない。分からない。何も、分からない。


「いやあああああああああっ!!!」


 自分のものとは思えないような悲鳴が頭を貫いた刹那に、すべてが真っ白になって、何も見えなくなった。


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