晩餐

「久しぶりだなあ、弘子」


 家に帰っていきなり日本語で迎えてくれたのは、軽やかな笑顔だった。


 自分の扉を開けた先にいたその人に私は目をこれでもかと丸くして、帰ってきてからの第一声までが裏返った。


「よ、良樹?」

「変わってないなあ。色気も出てきた頃かと思ってたのに」


 意気揚々とした声の主は、相変わらず白い歯を光らせて笑っている。


 この中村良樹なかむらよしきという人物は私より5つ上の22歳で、日本にいた頃からの幼馴染だ。近所だった彼の中村家と私の工藤家は家族ぐるみで仲が良かった。

 私たちがエジプトに行くと同時に中村家はアメリカへ移住して、国籍まで移動してアメリカ国籍。飛び級しまくって、22歳ですでに医師として医学を研究中。父親も高名な医学研究者だ。


「どうしてエジプトにいるの?アメリカは?研究は?」


 玄関に入りながら良樹を見上げて尋ねた。この前電話した時は、大きな研究に携わっているのだと自慢していたのに。


「日本の研究施設に誘われてさ、それで明後日、おばさんとおじさんが日本に帰るっていうから一緒に帰ろうかと思ってここに」

「わざわざ?」

「エジプトには一度くらい来てみたかったんだ」


 昔から変わらない実の兄のような笑顔を向けてくれる。

 家族ぐるみで仲がいい私たちは、ほとんど一つの家族のようなものだった。日本にいた頃は、勝手に良樹が家に入ってきて、うちの冷蔵庫を覗いているような光景が当たり前だった。


「機会があったらおじさんたちと一緒に帰りたいと思ってたし……あーもちろん、弘子に会いたい気持ちもあったから、そこらへんは安心して」


 そんな冗談を言う馴染みの顔が、傍にいることが急に嬉しくなって頬が緩む。笑って手を伸ばすと、良樹も手を伸ばして互いに軽く肩をたたき合って抱き締めた。彼はほぼアメリカ人で、挨拶はいつも変わらずこれだった。


「良樹が来てくれるなら、日本に帰るのも楽しくなりそうだね」


 良樹が背後で父と話すのを聞きながら家へ上がると、母がテーブルにお皿を並べながらくすくすと肩を揺らしていた。


「俺もおばさんと一緒に飛行機に乗るの楽しみですよ。そうだ、免税店でいい紅茶のお店教えてあげましょうか」


 私の横を颯爽と行った良樹が母に屈託なく笑いかける。


「まあ、嬉しい。ますます楽しみだわ」


 お母さん自身も本当の息子みたいに可愛がって、もう22の青年の頭を撫でた。良樹の顔は満更でもなさそうだ。


「おじさんにはワイン店教えてあげますね」

「おう、ありがとう、良樹。それは楽しみだな」


 なんて仲の良い人たちなのだろう。娘の私よりこの二人に馴染んでいるような気がする。

 楽しそうに話している3人を視界の端に、私は心地良さを感じながらリビングのソファーに腰を下ろした。電源の入っていたテレビは、映像と共にアラビア語を響かせている。ニュースチャンネルだった。


『今日は王家の谷でイギリスの考古学調査隊が……』


 王家の谷だ。64か所の王族の墓が見つかったという宝の谷。

 緑が皆無で寂しい茶色のさらさらとした砂で埋め尽くされている物悲しい場所だと、映像を目にするたび思う。11年間もエジプトにても、ちゃんと行ったことが無い。小学校の遠足で行った以来だろうか。


「あ、王家の谷!」


 ぴょんと、私の隣に良樹が飛んできた。22歳と言っても、まだまだ子供のような振る舞いをする。


「俺、行ったことないんだよ、ここ」

「何だ、世界中飛び回ってるくせして行ったことないのか?」


 父が嬉しそうに顔を輝かせて、私の開いている隣に腰を下ろし、私は二人に挟まれる状態になった。


「そうなんですよ。ここって凄いんですよね?あの有名なラムセス2世からアメンホテプ4世の墓もあるとか。是非とも大王ラムセス2世にアイされた王妃ネフェルタリの墓もこの目で拝んでみたいものです」

「あの場所は人類の宝の谷と言っても過言ではないだろうね」

「行ってみたいなあ。ツタンカーメンとかの墓もあるんでしょう?」


 ツタンカーメン。

 その名前が何故か胸に響いた。今日の怖い記憶が蘇ってくる。私に微笑み、腕を伸ばしたあの幽霊のせいだろうと瞼をぎゅっと閉じた。


 本当に怖かったのだ。でも今となっては何か錯覚でも見た様な気がする。最近のとてつもない暑さで疲れていたから。


「ツタンカーメン王墓はKV62。1922年にハワード・カーターによって発掘されたんだよ」


 父の情熱に満ちたエジプトトークがまた始まりを告げたようだった。


「あの発見は凄いですよね。もうあれから90年も経ってますけれど、未だにあれを越える発見は無いと聞いています。発見記も勿論読みましたよ」

「そうだよ!さすがは良樹だ!」

「分かりますよ、お父さん。何かの発見は男の、いや、人類のロマンですもんね」

「そうだそうだ、ロマンだ!人類のロマン!」


 私の目の前で二人の手が固く握り合う。こんな暑苦しい会話をどうして私を挟んでするのか。ただでさえエジプトは暑いのに。


「はい、じゃあ、二人でエジプトトークを存分に楽しんでください」


 二人の腕を払ってソファーから立ち上がる。


「おっ、弘子!お前も」

「結構です。お母さんの手伝いしてきます」


 父の言葉を無理に遮って二人に背を向けた。エジプトの話はもうお腹いっぱいだ。どれだけ小さい頃から聞かされていたと思ってるのだろう。


「弘子、冷めてるなあ。だから彼氏の一人も出来ないんだよ」

「出来ないんじゃないの、作らないだけよ」


 良樹にもそっけなく返し、料理をしている母の方へと行ってみると、おいしそうな香りが鼻孔をくすぐった。料理の完成は間近のようだ。


「お母さん」

「あら、弘子。良樹と一緒にいなくていいの?また長い間会えなくなるわよ?」

「いいの。どうせ日本に行っても毎日のようにまた電話してくるんだもの」


 アメリカとエジプトで離れていてもこれだけの絆があるのは、電話で定期的に話しているからというのもあった。

 エジプトや世界の歴史に多少興味のある良樹は、父のお気に入りなのだ。私よりむしろ父のほうが電話で良樹と話している時間が長い。


「手伝うよ。何すればいい?」

「じゃあ、オーブンにあるアエーシの焼き具合を見てくれる?そろそろ焼きあがるころだから」


 アエーシはエジプトを代表する料理のひとつ。古代から続いているという料理で、簡単に言えばパン。カレーにつけるインドのナンのようなものだ。

 オーブンを覗くと4つとも綺麗にきつね色に焼きあがっている。もう取り出してもいいくらいだろう。


「……ねえ、弘子」


 食器棚からお皿を4枚選び、アエーシをオーブンから一枚ずつ出して盛りつけをしていると、母が声をかけてきた。


「なあに?」

「あなた、本当に彼氏いないの?」


 ぶふっと吹きだしてしまう。


「どうしたの、いきなり」


 落しそうになったお皿の上のアエーシを慌てて持ちこたえながら聞いた。


「あなた、もうお年頃だから一人くらい、いたりしないのかしらーと思って」

「残念ながらいません。休みにメアリーとしか出かけてないじゃない。彼氏がいたらもう少しおしゃれして出かけてるはずでしょ」

「まあそうよね……でも、医学部でしょう?かっこいい、頭のよろしい彼氏がいてもおかしくないと思ったんだけど。ねえ、正直どうなの」

「彼氏がいなくたっていいじゃない、毎日を楽しんでるもの」


 恋がしたくない訳じゃない。カップルが手を繋いでいるのを見て羨ましくも思う。いい雰囲気で話す男子もいないわけじゃない。


 でも、自分の時間を割いてまで会いに行きたいと思える人となんて出会ったことがない。そんな他人に自分の時間を費やすのが勿体ない、とさえ思ってしまうのが今の私だった。

 彼氏のいる友人は毎晩電話、毎週末はどこかにデート。課題も実験もあるのによくそんな時間が取れるものだと逆に感心してしまう始末。

 好きな人が出来たら、こんな気持ちも変わるのだろうか。


「弘子とそういう話したかったのに。お母さん、がっかりだわ」


 母はわざとらしく肩を竦めた。


「親不孝な娘で申し訳ございません」


 娘と恋バナしたいなんて母も若いものだと思って、小さく笑ってしまう。


「で、良樹とはどうなの?」


 けろりと話を変え、私の肩を肘でつついて身を寄せながら囁いてきた。


「どうして良樹?」

「あら、やだ。もしかして気づいてないの?」


 信じられないわと手を口を覆う素振りをする。


「嫌だ、私の娘としたことが」

「だから、良樹が何?」


 テレビに出ている王家の谷特集で父の熱烈なトークを全身に浴びながら頷いてしっかり話を聞いている彼を視界の端に見た。


「良樹、ずっとあなたのこと好きよ」

「はい?」


 思わず眉尻を挙げて、手の中のアエーシから母に視線を移した。


「小さい頃からずっと。近々そんなお話が彼からあるんじゃないかしら。頭が真っ白にならないように、今のうち返事決めときなさいね。弘子は突然のことがあるとびっくりして動けなくなるんだから」


 固まる私の肩を叩いて、お皿に他のおかずを並べていく。


「そんなことあるわけないじゃない。お母さんの考え過ぎ。やめて」


 我に返って言い返すと、母は優しい表情で目を伏せて手を動かす。


「まあ、いずれ分かることよ。……それから弘子、自分の進路悩んでるでしょう?本当に医者になるのかって」


 はっと息を呑んだ。何も言っていないのに、母は気づいていたのだろうか。


「お母さんもお父さんもあなたに何か生きていく内に役立つ技術を持たせようとあなたを大学に入れたけれど、それが合わないんだったら、お母さんは違う道でもいいと思ってる。誰か好きな人と結婚して、子供を産んで……それだけでも十分に幸せになれるから」


 そうだ。医師になるかどうか私は悩んでいる。

 医師を諦めたら、何になりたいとか情熱も夢もない私には何も残らない。医師になれる可能性があるというのは恵まれている。だけど、人の命に関わるものだからこそ、生半可な気持ちでやってはいられない。


「あなたのことだから、最後にはちゃんと自分で決められるでしょうけれど、追い詰めすぎちゃ駄目よ。お母さんの言葉は、そういう道もあるんだって頭の隅にいれておいて」


 微笑む母の顔を見つめてから、そっと良樹を見てみる。母は慈愛のある笑みを私に向けているけれど、言われたような関係は想像できなかった。


「さあ、エジプトでの弘子との最後の晩餐よ!良樹もお父さんもテレビ消してこっちにいらっしゃい!」


 母は私の答えを待たず、テレビ前にいる二人に声を掛けた。


 明後日の午後、お母さんとお父さんはここを去る。私だけがここに残される。確かに、最後の晩餐だった。少し寂しい、そんな気が今更ながらに私の胸に流れてきた。




「さすがおばさん。これ、すごく美味しい」


 私の目の前に座る良樹は、上品にそれを口に含んで母の料理を褒めた。


「ありがとう。なんなら、日本に帰ってからも仕事帰りに家に寄りなさいな。御馳走してあげるから」

「本当に?嬉しいなあ」


 部屋が暖かいからか、頬をほんのりと染めて良樹は笑っている。人懐っこい顔をしているから余計そう見えるようだ。


 こんな素敵な人が私を好き、かもしれない。

 どうして母はそんなことを言ったのだろう。

 ひょっとして母は良樹から何かを聞いていて、それで私が将来に悩んでいるのも知っていて、だからあんなことを。


「あ、そうだ。明日、良樹を連れて家族で遺跡めぐりしようと思ってるんだ」


 突然の父の提案が私の思考を断ち切った。


「あら、いいじゃない」

「いいだろう?良樹、ちゃんとエジプトを回ったことがないらしいからな、俺が案内してうやろうと思って」

「ええ、もう今から楽しみなんですよ。弘子も行くだろ?もちろん」


 いきなり会話が降ってきて、持っていたフォークを落しそうになる。


「弘子も行くよな?何たって、お父さんたちとの最後のお出かけだぞ!」


 追い打ちをかけるようにお父さんの声が飛んでくる。


「最後だなんて、何言ってるの。1年間だけじゃない」


 試験もあるし、遊んでる暇なんてない。あの蜘蛛の巣みたいな身体中の血管の名前も覚えなければいけないし、内臓の名前と働きの暗記もある。やることが山積みだった。


「ノリが悪いなあ、弘子。一緒に行こうよ」


 良樹がもぐもぐしながら私を見ている。


「駄目よ、私、今度試験あるの。勉強しなくちゃ」


「そんなの俺が教えてやるから。なあ、一緒に行こう?」


 確かに数学や化学なら、この秀才に教えてもらえたら多分百人力だ。


「そうよ、弘子。一緒に行きましょう?日本に帰ってくるつもりはないんでしょうから、一年はまったく会えなくなるのよ?」

「そうだぞ、弘子!お父さんは何としてもお前を連れて行く!!」


 全員から無理な説得をされ、断ることができなくなった私は『お父さん主催、良樹のためのエジプト遺跡めぐり』について行くことになった。



 食後に、丸一日かかるであろう外出前に課題を少しでも減らそうと、とりあえず数学に手を付けたけれど、案の上見事に行き詰った。椅子に背中をあずけてぐっと伸びをする。椅子の軋む音がした。


 振り向くと静かに読書をしている良樹が目についた。微かに鼻歌を奏で、優雅に紅茶を飲んでいた。


「ねえ、良樹」

「ん?」


 私の部屋なのにまるで自分の部屋であるかのような寛ぎ様だ。一体何様なのか。


「この濃度の計算分からないの。ちょっと教えてくれない?」

「何のやつ?」


 本から目を離さず返事をしてきた。


「ペニシリンの濃度よ。あれって途中から入れたりするでしょ?式は作れたんだけれど、答えが合わないの」

「ああ、それはあれだな」

「あれって?」

「変数分離形での積分。計算の仕方、合ってるか?」


 それだけ言って本を読み続けている。こっちを見向きもしない。それだけでは分かるはずがない。私と良樹では頭の出来が違うのに。


「ねえ、ちゃんと教えて」

「しっかたないなあ」


 勢いをつけて起き上ると、すばやく私の隣に身を乗り出してきた。


「ああ、式のここが違う。……はい、これはこう。これをこうして」


 私からシャーペンを取ってすらすらと書いていく。あまりに身近すぎるのと、いつも冗談ばかり言ってからかってくるだけだから実感がなかったけれど、やっぱり頭いい人なのだと思い知らされる。


「ここからは出来るな?」

「うん、ああ、はいはい、できそう」


 シャーペンを受け取って解いてみる。


「なるほど、こうやるのね……分かった、ありがとう」

「そうそう。よく出来ました」


 にっこり笑って私の頭をわしゃわしゃと撫でる。


「ちょっとやめて!髪崩れるでしょ!」

「いいだろー、もう外出掛けないんだから」


 私の頭を持っていた漫画でぱこんと叩き、またもといた場所に彼は座った。


 机の上の鏡を見て顔をしかめる。ぐっしゃぐっしゃじゃないの。もういっその事結んでしまえと、肩までの髪をゴムで一つに結いあげた。

 そして再び、よしと気合を入れて机に向かった時。


「なあ、弘子」


 背後から聞こえてきたのは、ついさっきとは抑揚を変えた良樹の声だった。


「はいはい、何でございましょう」


 身体を捻って、また彼の方を振り向くと、思った以上に近いところに相手の顔があって少し驚く。


「……なあに?せっかくやる気を取り戻したところだったのに」

「ごめんごめん」


 まったく悪気のない様子だった。


「で、何?どうしたの?」


 首を傾げて聞いてみる。


「何かご用?」


 彼はいつもの穏やかな顔じゃなくて、少し真剣な顔を私に向けた。その表情にどきりとする。


「弘子って、本当に彼氏いないの?」


 ぎょっとしながら彼を見た。


「い、いませんおりません」


「だよな!当たり前のこと聞いてごめん、許せ」


 そう言いながら、彼は高らかに笑っている。


「何よそれ!」

「弘子、もう18になるだろ?ちゃんと彼氏出来たかなあと思ったがやっぱりの結果だったってことだよ。……しっかし、それくらいの年には俺にだって彼女の一人や二人……いや、それはどうでもいいんだけど」


 それもそうだけど。そういう話があってもいい年頃だけど。


「私はね、今勉強一筋なの。忙しいの。秀才なあなたみたいに、あっちこっち行き来できるような人じゃないのよ。見てなさい、いつかすっごいイケメンを彼氏として紹介してやるから」


 嫌味で言ったつもりなのに、彼はいつもの屈託のない笑顔を私に見せた。


「そう。楽しみにしてる」


 少し驚いた私を無視して彼はまた読書に勤しみ始めた。アメリカ音楽のような鼻歌を鳴らしながら、紅茶の香りを漂わせていた。

 どきりとした私とは裏腹に、彼はまた呑気に「明日は楽しみだな」とか「ミイラとお友達になっちゃったらどうしよう」とか呟いていたのだけれど。


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