空席のある教室

ササキ・シゲロー

第1章

---Sの手記より---



 中学二年になり、クラス替えをしたばかりの私たちの教室には、すでに一つの空席があった。


 四月生まれの私は、小中学校を通じたどの学年においても、当然のように出席番号はいつも最初の方だった。中でも2番であったことが最も多く、他に3番と4番とが一度ずつあり、しかし一方で1番だったことは一度もなかった。

 そんなわけで、この中学二年のクラスにおいて私は、その一度きりあった出席番号3番を割り振られることになった。

 新しいクラスの第一日目、出席番号順に廊下側からあてがわれたそれぞれの席に、私たちは座った。

 担任の挨拶が終わり、いよいよこのクラスで最初の出欠点呼がとられることとなった。

 まずは出席番号1番の男子生徒の名前が読み上げられ、私の席の二つ前に座る生徒が、少しだるそうに、はい、と返事をした。

 次の次が私の番だ。私は少し緊張していた。

 次いで、出席番号2番の生徒の名が担任に呼ばれた。しかし、それに対する返事はなかった。なぜ返事がないのか、その席のすぐ後ろにいる私にはもちろんわかっていた。

 私の目の前にあるその席には、座っている者がいなかった。

 だから、そのとき生徒たちの間に起こった小さなざわつきを、私は少し不思議に感じていた。一体、何に驚くところがある?一目瞭然、それに返事をする者などいないのだ、誰だって見たらわかることじゃないか。私は、ちょっとバカバカしいような気持ちでそんな風に思った。

 そこにきて、なぜか今度はやや強い語調で、担任が私の名前を呼んだ。不意をつかれて私は、思わずそれに対しやや上ずり裏返った声で返事をしてしまった。すると、先ほどからの生徒たちのざわめきは、今度は私への軽い嘲笑のトーンに変化した。そのため私は、大変バツの悪い思いをし、そして私をそんな気持ちにさせた、担任と目の前の空席の主に、小さな憎しみをおぼえたのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 私たちの担任は、松任谷由実と同じ大学出身であることを自慢げに語る、美術教科を担当する三十絡みの女性教員だった。本当はイラストレーターになりたかったの、と、事あるごとに彼女は言っていた。しかし彼女が、プリント類や学級日誌の隅っこに描くちょっとしたイラストは、私などでもわかるほど陳腐なものだった。イラストレーターになりたかった、というその願望は嘘ではないとしても、それを目指していた、というほどに彼女がそれに対して真剣に取り組んでいたのかどうかは、それらの実例を見る限り、私としては何とも言えない。しかし実際にはおそらく、なれなかったであろう、ということは、少なくとも私の確信をもって、言うことができる。


 新年度の挨拶で私たちの担任教員である彼女は、一年間このクラスのみんなで協力しあいながら、一致団結して一緒にがんばっていきましょう、などとその当時の学園ドラマにおいてさえ失笑を買うほど空疎で使い古されたスローガンを、しかし何の衒いもなく意気揚々とこれでもかと重ね並べ立ててきたものだった。

 とはいえ私たち生徒はもはや小学生ではないので、そのような一面的でチープなイデオロギーを鵜呑みにするほど純粋ではなかったが、彼女自身はどうやらそれに対して、何らか自分なりの確信をもっているようだった。その根拠を、私は知らない。少なくとも前年度一年間、彼女の教科担当の授業を受けた限りでは、彼女の自信を支える何かに、思い当たるところは私にはなかった。

 ただ、そのような彼女の、ものの見方や考え方について、何らかの推測ができるような、一つの印象的な出来事があった。

 彼女が担当する、美術科のデッサンの授業中だった。彼女の目を盗んで勝手にフラフラと動き回り、他の者にちょっかいを出している男子生徒がいた。おそらく、退屈な美術などの授業中には、よくある話であろうかと思う。その生徒の様子に気づきながら、しかし彼女は、それに対していっさい知らないフリを通したのだった。いくらやっても咎められないことで調子づいたその生徒は、さらにその後も同じ行動を繰り返したが、それでも彼女は、彼への黙殺を続けた。

 すると、いつの間にかその生徒は、自ずと動き回ることをやめてしまった。彼の行動が彼女にとって、文字通り何の意味もなしていないということに、彼自身が気がついた、ということなのだろうか。やがて彼は、一筆も手をつけていない自らの白い画用紙を前に、心なしかしょんぼりした様子で座っていた。

 そんな彼の前を素通りして、とてもよく描けてるわねえ、などと、美術教室中央に置かれた白い顔の彫像のデッサンにいそしむ、他の生徒たちの絵を見て回る彼女の姿に、私は、何か彼女という一人の人間の、頑なな心の一面を見たような気がした。

 つまり彼女の考える『みんな』とは、まさしくこういうことなのだろうか?彼女にとっての『みんな』の中に入ってこないような者は、その存在まるごとを最初からなかったことにすればよい、というわけなのか。最初からなかったものは、最後まで『無』だ。『みんな』には何の影響も与えない。ゆえにその世界は、きっととても純粋なのだろう。それがあの黙殺に、全て表わされている。私にはそういうように思えた。


 そのような彼女が、居並ぶ私たち生徒を前に、自身の一年の抱負やらを朗々と語る、その白々しいほどの明るさを強調した声の響きは、なぜだか私たちの教室を妙に広く感じさせたのだった。まるで本当は、実際に目の前にいる私たちを飛び越えて、その向こうにあるもう一つの、私たちの知らない『彼女の』教室、その私たちの関わることのできない教室と、彼女だけの知るその生徒たちに向けて、彼女は喋っているのではないか?とさえ、私には思えた。逆に本当に彼女は、目の前にいる私たち自体には、何も語ってはいなかったのかもしれないと、今になってはむしろ私はそう思う。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 しばらくして席替えが行われ、空席は教室の窓際の一番後ろという、いわば定番とも言える位置に押しやられた。

 しかし相変わらず朝の出欠時には、その空席の主の名前は、担任によって読み上げられ続け、そのたび私は、初日のあの間の悪い緊張を反復させられ続けることにもなったのだった。

 私は、その空席の主である彼とは小学校が別々で、中一のときもクラスが違っていたが、しかしその名前と顔は何となく知っていた。直接話をしたことはない。ただそのクラスにいた、私の小学時代の友人たちとの会話に、何度か彼の名前が出てきたことはある。その友人を教室に訪ねて、彼の姿が視野に入ることももちろん幾度もあった。

 そして当然だが、このクラスの中にも彼のことを知る者は何人もいる。どの程度の間柄であるのかは知らない。しかし中学一年のある時期から、彼の席はすでに空白であったというのは、私でさえも知っていた。要するに彼はもはや、けっして一時的に学校を休んでいるわけではないというのは、誰にも明らかなことだった。だからこそ私は、なぜあのときクラスメイトたちがざわついたのか、今もって不思議に思えた。

 私はあのとき、担任はあるいは彼の名前を呼ばないのではないか?とも思ったのだ。だから、出席番号1番の生徒が出欠の返答をした後、すぐに私が呼ばれることも想定して、私は少し緊張を強めてもいたわけだ。しかし私のそのような緊張を思いがけず外されてしまったのが、まさしくあのざわめきによってだったのであり、ゆえにまた、それに動揺した私自身のその後の失態を、今なお恨めしく思い続けてもいるのだった。

 もしかしたらクラスメイトたちも、ひょっとしたら彼の名前が呼ばれないかもしれないということを念頭に置いていたのだっただろうか?

 とすると、あのざわめきの意味も少し理解ができる。しかしそれを、後々になってまでわざわざ彼らにあえて確認する気には、当然私にはなれなかった。所詮それは私の恥を上塗りするだけなのはわかりきったことだから。


 さらに時が経つにつれて、私も他のクラスメイトたちも、窓際の空席の存在に次第に馴れていった。少なくとも表面上はそれを意識している素振りも見せず、そのことを話題にすることもほとんどなかった。

 私たちは、その空席の主である者を何とか、このクラスにおいては『そもそもいない者』なのだとして、私たちの意識の外に置こうと努めた。このクラスを成り立たせるためにも、それを「なかったことにすること」が必要であるような気が、私たちは私たちなりにしていたのだったのかもしれない。もちろん、そのように口に出す者は誰もいなかった。それを口には出さないことで保たれている緊張が、私たちの間には絶えず存在するようだった。

 しかしむしろ、ふとしたときに当然のように私たちの視界に入り込んでくる、その実在としての空席は、たった一人の不在を、私たちのクラス三十数名の存在の中に紛れ込ませる困難さを、否応なく私たち自身に思い知らせた。

 彼は結局のところ、このクラスで誰よりも際立って存在していたのだ。

 そしてそのことを、私たちにより強く思い起こさせたのは、言うまでもなく毎朝の出欠確認のときだった。


 ここで少し先走った話をすると、担任の教員がこの私たちのクラスを受け持っている間に、その空席の生徒の家庭訪問をしたとかといった話を、私は噂でも聞くことはなかった。少なくとも電話くらいはしていただろうとは信じたいが、それもおそらくそれほどの頻度ではなかっただろう。それは、私自身の確信をもって言うことができる。

 それはそれとしても、毎朝私たちの前では、その返答が戻ってくることのありえない茶番のようなやりとりを平然と繰り返しながら、実際の彼に対して面と向かって言葉をかけることは、ついに彼女は回避し続けたわけだった。一体、どういう心情が彼女にそうさせたのか。彼のことはそもそも自分の責任ではないのだ、というアピールだったのだろうか?

 一体、誰に対しての?

 その真相と真意については、私には今なおはかりかねる。


(つづく)


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