9 ホワイトモカ
目の前の少女が男の頬から唇を離し、私の方に振り返る。
しかし、私の存在に気づかず、そのまま男と腕を組んで去っていく。
私の背後を、別のカップルが同じように談笑しながら通り過ぎる。
私は繁華街の一角にいる。少女と男もまた繁華街の一角にいる。
独りと二人。それだけの違いなのに。
あれ、ショックを受けたときはカバンを落としてしまうものかと思っていたけれど、手がしっかりとカバンを握れている。
床に膝をつく訳がない。別に体が震えたりしない。
ただ彼女の後ろ姿が遠ざかって消えたのを、上の空で眺めている。
上の空。確かに私は今、歩道橋の上にいるから、的確だなあ。
私は裏切られたのか?
彼女は男にキスをしたから、恋人のつもりでいた私は確かに裏切られたのだろう。
キスか、羨ましいな。
私は浮気されたのか? いや、むしろ私が浮気相手なんだろう。
そもそも、私たちは恋人同士ではなかったのかもしれない。何を基準につき合ったといえるんだろう。彼女が私のことを好きになった証拠は、何一つ残されていない。
彼女は、友達が恋愛ごっこをやり出したのを嘲笑いたかったのか?
私が彼女に恋したことを、私の純粋な気持ちを、踏みにじりたかったのか?
彼女を助けてやりたい、なんていう傲慢な考えに取り憑かれていたとき、彼女は本当の恋人とキスをしていたのか? そうだろうな。
初めて友達ができた。初めて人を好きになった。初めて誰かにずっと見ていてほしいと思った。そして世界が輝いて見えて、そして初めて私は欺かれて、二股を掛けられた。
二股って、リアルに存在していたんだな。
ねぇ、私は裏切られたの?
弱気な、本当の私があっさりと心の中でうんと認めると、突然、目の前の景色が私から遠ざかって見える。空気が薄れていく。
彼女のためにしてきたこと、彼女のために頑張って練習した料理、彼女のために変わろうとしたこと、それらに意味などなかったと突きつけられて、それで彼女が振り向いてくれるという妄執に取り憑かれて、私は一年間何に時間を費やしていたんだ、そんな時間があったら勉強していればよかった、ううん、いや、すごく幸せだった、幸せだったからこそあんな幸せが悔しくて憎くて仕方ない!
幸せにならなければよかった、と思った。
彼女のことを好きにならなければよかった。好きだからこそ、今はこんなにも憎い。憎い。私を裏切って。最初から私を裏切って。好きにならなければよかった。一緒に雨宿りしたり、彼女の家で遊んだり、展望台で海を見たりして、そうやって、騙された私も。
だめだ、早く落ち着こう。コーヒーでも飲んで落ち着こう。塾に行けるような調子ではない。明日は一日だけでもいいから、学校を休もう。そう、学校ね、学校。彼女にどんな顔をすればいいのか分からない。私たちは別れるのか? 別れるって、言わないといけないのか? 彼女とはもう一緒にいられないのか? 私はまた独りに戻るのか?
いや、まずはコーヒーを買おう。
首を自ら握り締めて、落ち着こうとする。そうすると頭が白くなる。でも肺に空気が足りない。どれだけ吸っても足りない。首から手を離しても足りない。もっと空気がほしい。今更呼吸が荒くなる。最後までみっともないのね。
手すりに捕まりながら、歩道橋を下りていく。
よかった、息が少しずつ落ち着いてきた。
死人のようにぼうと歩いて、横にカフェを見つける。扉を乱暴に押し開け、ふらふらと暗いカウンターに向かうと、不気味な私を主婦たちがチラチラと見てきた。
「ホワイトモカ」
私は昔から嫌いなホワイトモカを指差した。
店員からドリンクを渡されると、店の雰囲気を壊しかねない私はさっさとドアを出た。秋の夜は冷たい。街をゆくカップルたちも冷たい。その笑顔の裏にあるのは何? 彼らはどうして笑えている?
先程見た光景が脳内でひたすらリピートされている。
手に持ったホワイトモカを一口啜った。舌が焼けそうなほど熱い。
「甘い」
目頭から一気に温かい涙が溢れていく。ホワイトモカの蓋に大粒の水滴が落ちていく。蓋に気持ち悪い水たまりができる。床にも涙が無様に落ちていく。側を通り過ぎる人々は、歩道橋の下で一人泣いている私を気にも留めない。人は冷たい、でもこればかりは有り難い。
「甘すぎる……」
舌が痺れそうになる。これだから私はホワイトモカが嫌いだ。こんなに甘いものが好きな人の気が知れない。
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