私と彼女

1 恋は人を狂わせる

 恋は人を狂わせる。

 全く、馬鹿げた言葉だ。私は全人類の中で、これに最も当てはまらない人間だと自負している。なぜなら、狂った私を誰も望んでいないからだ。私は皆が望んでいるような、完璧な人間として生きていきたい。だから、恋なんていうくだらない理由で私が変わる訳がない。

 親も先生も、同級生たちさえも、私が完璧な人間であることを望んでいる。実際、私は彼らの願いを叶えてきた。どこにでもある公立小学校に通っていたのにも関わらず、中学受験で最も偏差値が高い女子中高一貫校のS学園に、見事に入学した。親はT大の入場券が手に入ったと喜んでいた。先生と小学校の同級生たちは私が学校の名声を上げたことを嬉しく思って、おめでとうの色紙を作ってくれた。特に仲がよかった訳でもないのに、作ってくれた。

 私は嬉しかった。S学園に入ったことよりも、皆の望みを叶えてあげられたことが嬉しかった。でも、皆が私に向けた好意が一時的なものであると、私は同時に知っていた。皆を繋ぎ止めるためには、もっと実績を残す必要がある。だから、努力した。勉強も、部活動も、学校外活動も。そうすればもっと褒めてもらえる。褒められたら、人に好かれているような気分になる。これを原動力に、完璧な人間を目指してきた。

 もしも、友達なんてものがいたら、努力しなくたって、私のことを好きでいてくれるのかな。

 そんな考えがよく頭に浮かぶけれど、私はいつもそれを押し潰す。残念ながら、私は人に好かれるような性格ではない。人間を友達として好きになったことがないし、誕生日にプレゼントをあげるとか、グループで行動するとか、そういった女子にありがちな行為を馬鹿馬鹿しいと思わざるを得なかった。

 S学園に入ってからも、私は一人で弁当を食べて、一人で歩いて、一人で勉強をした。最初こそ誰かが私をグループに誘おうとしたが、そのうち私の性格が学年中に知れ渡って、クールな人として一目置かれるようになった。


 だから、高校一年生になる始業式の今日も、一人で昼ご飯を食べている。

 教室の真ん中で大きなグループが形成されていた。さすがに進学校なので、校則違反をしてまで髪を染めたり制服を着崩したりしている人はいない。それでも華やかな雰囲気を漂わせている。

 そのグループの更に真ん中で、モデル然とした少女が談笑していた。初めて同じクラスになったが、私は彼女を知っている。中学校の頃から、あの人は有名人だった。スカウトを何度もされたことがあるという容姿だけでなく、テニス部の主将を務めて都大会優勝に導いたとか、期末試験でいつも一位を取っていたとか、そういった華々しい実績をいくつも持っていた。初めて彼女を見たとき、目を疑うくらいに「綺麗」だという第一印象を抱いたのを覚えている。まさしく雑誌の表紙を飾りそうな容貌。しかし、私は彼女の外見よりも、どちらかといえば成績の方に関心があった。どれだけ努力しても学年一位の座を彼女に奪われることが、私のコンプレックスの一つになっていたのだ。

 人と関わる時間を犠牲にして、学業と英会話部の活動に打ち込んできた私は、どうしていつもグループでわいわい楽しんでいる人間なんかに負けるのか。一言で言えば、私は彼女に激しく嫉妬していた。何らの犠牲も支払わず、私が諦めていた友達というものを手にしている上、私にとって生きがいである優秀さにも、彼女は私より恵まれているのだ。

「くだらない」

 誰にも聞こえないような小声で呟いた。

 あんな人間のことを考えている暇があれば、もっと有意義なことに時間を割けないのかね? ――そんな能があったら、考えていないんだが。

 自嘲気味に心の中で問答したあと、胸にこびりつく不快感を忘れようとして、愛読している、別荘や豪邸をレポートする住居雑誌をカバンから取り出した。夕焼けに染まる空と静かな大海原。どこまでも広がる水平線。泣きそうになるほど、私には綺麗な世界が眩しい。もしも、誰の期待にも応えず、ひっそり誰かとそこで暮らしていけるとしたら――それは、とても、幸せなことなんだろうな。


「一緒にご飯を食べてもいいかな?」

 始業式の翌日。あり得ないことに、私を昼食に誘うような人間が現れた。それがよりにもよって、いつもクラスの中心にいるあの人だった。

 戸惑いが先に来た。何かの罰ゲームかな、と考えてみたが、彼女は他人を貶めるような真似をする人柄ではなさそうだ。どうして誰もが踏み込もうとしない場所に、あえて入ってこようとするのか。私と関わろうとした動機が全く見えなかった。

 彼女の所属しているグループがこちらの様子を窺って、ざわざわしている。どうも断りづらい。しかし、もし一緒に弁当を食べてよいと了承したら、今後つき纏われる可能性がある。私としては仲良しごっこは御免だ。

「一人で食べるのが好きだから、ごめんね」

 彼女が手に持った弁当を私の机の上に置こうとしたところ、勇気を出して告げる。あちゃー、と、彼女のグループから声が飛んでくる。

「そっか……あまり話したことがなくって、気になっていたの。いつも読んでいる雑誌もすごく綺麗で、読んでみたいなって」

 彼女を追い払うためにランチクロスを机いっぱいに広げようとした私の手が、ぴくりと止まった。私は初めて彼女と目を合わせた。

「読みたいの?」

 彼女は頷いた。

「なら貸すけど」

 私は片手でカバンの中から雑誌を取り出して、彼女に差し伸べた。彼女はそれを受け取ったあと、ごく自然に弁当箱を一個前の席に置いて、蓋を開ける。断ったのにも関わらず、私と一緒に昼食を食べる気みたいだ。呆れて、追い払う代わりに黙り込んだ。こちらの様子を観察していた女子たちは、劇の終わりが訪れたかのように自分たちの食事に戻る。彼女はさっさと弁当を胃の腑に流し込むと、雑誌を広げて読み始めた。無理やり会話をしてこない彼女の姿勢にほっとしつつも、私はいつも通り無言で弁当を食べた。


 次の日の昼休み、彼女は私に雑誌を返しに来た。

「海は好き?」

 突然の問い掛けだった。私は返してもらった雑誌に視線を落とした。表紙が海だから質問してきたのだろう。

「好きか嫌いかと言われれば好き」

 素直に好きと言えばよかったものを、自分は捻くれた返答の仕方しかできなかった。捻くれ者だから仕方がないね、と心の中で自嘲する。

「じゃあ、好きなものは何? 動物とか。私は犬を飼っていたから、犬が好きだよ」

 彼女は再び前の席に腰を下ろす。正直もう構わないでほしいけれど、執拗に追い払うのも気まずくなりそうだから、仕方なくその質問に答えた。

「特にこれといった好きなものはない」

 彼女はきょとんとした。何秒か経って、口元から笑い声がこぼれる。

「え、何がおかしいの?」

「ううん、いや、やっぱり面白い人だなって」

 いきなり笑い出す彼女を不審に思って、私は一歩引くように椅子を後ろにずらした。それでも彼女は楽しそうな口調で話す。

「普通の人は遠慮して嘘でも何かしら好きなものを答えるのに、初めてこんな返事をもらったから」

「そりゃ、好きなものがないから……」

 私は呆れ気味で呟く。馬鹿にされているのか、と密かに思った。しかし、彼女は私との温度差を気にせず、

「私たちって気が合うと思うの」

 なんて笑顔で言う。

 その言葉を無視して、返してもらった雑誌をカバンの中にしまった。その後、彼女は時々私に質問をし、私は時々彼女の質問に答えた。

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