第2話 金髪の少年
まだ二十二歳だが、ここまでの人生は一応順調だったはずだ。
無事に大学まで進学し、単位を取り、就職活動をし。
内定を貰い、卒業論文もほぼ仕上がっている。
あとは来年四月まで遊んで過ごせる…………はずだったのに。
――今のこの状況。俺、たぶん死ぬよな。
いったい俺が何をしたというのだろう。
なぜこんな目に……。
……。
あれ?
目を開けたら、そこに見えたのは木目の天井。
背中は少し柔らかい感触。ベッドだ。
首だけ動かし、周囲を確認する。
どうやら小さな部屋のようだった。
どこだ、ここは。
俺は起き上がろうとし、いつもの癖でまず左手に力を入れた。
「うがぁああ!」
前腕に激痛が走った。左腕を噛まれたことをすっかり忘れていたのだ。
だが崖落ち後と同じく、痛いということはやはり生きている証拠だ。
どういう事情で助かったのかはわからないが、また命拾いをしたようだ。
「うぐ……」
左手を使わずに体を起こそうとしたが、今度は全身に鈍い痛み。
結局今すぐに起きることは諦め、また寝ている状態に戻った。
左の前腕を見ると、包帯らしきものが巻いてある。
手はしっかりと動くようだ。神経や腱が切れているということはないと思う。
が……狂犬病などは大丈夫なのだろうか?
確か、発症してしまうと死亡率はほぼ百パーセントと聞いたような気がする。
そんなことを考えていると、ガチャリという音がした。
「あら、起きたのね。昨日から目を覚まさないので心配したわ」
扉から入ってきたのは、長い黒髪の女性。年齢は二十代後半くらいか。
白衣のせいもあるが、大人の女性という雰囲気だ。俺よりは間違いなく年上だと思う。
「あ、あの、ァイタタタ!」
「起きなくていいわよ」
「あ、はい。すみません。えっと。俺、あなたに助けてもらったんですか」
「私じゃないわ。ああ、でも治療をしたのは私だから、いちおう間違いというわけではないかしら」
「ありがとうございます……」
「それが仕事なので当然よ。打撲だらけだし、今は体をあまり動かさないほうがいいわ。噛まれた痕があったから狂犬病のワクチンはやっておいたけど、様子を見たほうがいいのでしばらくは入院ね」
この人は医者らしい。
日本語に、少し訛りがあった。どこかの地方の出身なのだろうか。
しかしワクチンを打ってくれたのはとても助かる。
狂犬病、怖いし。
「さて、目も覚めたことだし。これから問診を始めないといけないけど、大丈夫?」
「え、あ、はい。大丈夫です……あ、その前に」
「ん?」
クロは、今どうしているのか。
俺が助かっているということは、あいつも助かっているということでよいのだろうか?
「俺、白い犬と一緒だったと思うんですけど。知りませんか?」
「もちろん知っているわ」
「無事……なんですね?」
「無事よ。後で会えると思うわ」
よかった。
あのまま死んでいたらあまりにも不憫すぎる。俺も家族に合わせる顔がない。
「あんな真っ白な犬は初めて見たわ。町の人たちが、神社に祀られている霊獣様にそっくりだって騒いでいるわよ」
え?
えーっと……。初めて見る? 霊獣様?
言っていることが色々おかしい気がした。
紀州犬に伝説があることについては、母親から聞いたことはあった。
紀伊山地では神の使いとされていたことや、高野山に空海を導いたと言われていることなどだ。
だが一般的には、そこまで神性のある犬という認識はないはず。
そこらの神社に紀州犬が祀られていることなども、なかったように思う。
「はぁ……そうなんですか」
気にはなった。
しかし今突っ込む話ではないような気もしたので、この場は適当に流した。
「さて、じゃあ質問させてもらうわね」
女医の問診が始まる。
最初は、既往歴や家族歴、現在処方されている薬がないかなど、ごく普通の内容だった。
そしてそれらが一通り終わると、医療とは関係のない質問も飛んでくる。
「あなたの身に着けていた服の生地、初めて見るものばかりだったわ。あなたはどこの国からの旅人さんなの?」
…………はい?
***
結局あのあと、女医とはかなり長くやりとりをすることになった。
そしてその結果……。
どうやらここが、自分が知る日本の千葉県ではない線が濃厚となった。
この国が日本という名前の国であることは確からしい。
女医に日本語は通じているので、公用語が日本語ということも間違いはない。
しかし、記憶障害を疑われて自分の出生地を聞かれたときに「千葉市です」と答えても、「そんな町はない」と返されてしまった。
他にも千葉の地名をいくつか挙げてみたが、「聞いたことがない」と言われた。
……日本という名前の、知らない国?
あの崖落ちで、そんな国に飛ばされたということなのだろうか?
まだこの病室だけしか見ていないので、その結論で納得しているとは言い難い。
ただ、病室内を見回すと、確かにおかしな点はある。
まず、電気の気配がない。
天井に蛍光灯がなく、壁にコンセントもない。
そして、樹脂製の物が、見る限りは一つもないようである。
現代日本の病室で、それはあまりにも不自然だ。
他にも、世話になっているのに申し訳ない言い方ではあるが、内装が全体的に前時代的な雰囲気がある。
壁も壁紙が貼られておらず、板張りのまま。
病室らしい備品もほとんどない。バンガロー風の部屋にそれらしいベッドを置いただけ、という印象を受ける。
……外はどうなっているのだろうか?
確認してみたい――そう言ってみたら、
「いいけど。怪我人だから介助があったほうがいいわ。ちょっと待っててね」
と言われた。
女医は退室。現在待ち状態だ。
窓を見る。カーテンは開いていた。
ここからでは木が見えるだけで、街の景色などを窺い知ることはできないが、外は明るいようだった。
半日以上眠っていたということだから、今は崖落ちの次の日の午後くらいか。
俺とクロが行方不明なので、家族は心配しているだろう。
そうだ……クロと言えば。
女医は、クロとは後で会えると言っていた。
今回ほぼ俺のせいでクロも散々だ。野犬襲撃のせいで未遂に終わってしまったが、今度こそきちんと謝ろう。
と、心の中で決意表明をしていたら。
バタン。
急にドアが開いた。
「おー。兄ちゃん目が覚めたんだ。よかったね!」
そう言いながら入ってきたのは、金髪ショートの少年だった。
歳はかなり若い……というよりも、子供だ。見た感じは小学生か中学生くらいだろう。
そして、手に何か黒い布を持っている。
「これ兄ちゃんが着けてた下着だけどさ。ツルツルだし、ゴムじゃないところも伸びるし面白いな! こんなの初めて見た」
「あ! それ俺のボクサーパンツじゃないか。あれ? そういえば俺、全然違う格好に……? 俺の服は一体どこに」
「全部脱がしたよ!」
「な、何ぃ?」
「だって汚れてたし汗でベチョベチョだったし。そのままベッドに寝かせるのはマズイでしょ」
それはその通りだ。
あの女医さんがやるわけにはいかないということで、この金髪少年に任せたのか。
「これはボクサーパンツって言うの? 面白いなぁ。貰ってもいい?」
「ダメに決まっているだろ。だいたい俺が着けてたんだから汚いぞ」
「洗ったから大丈夫!」
……な、何だこいつは。
「ちょっとカイルくん。ダメよ怪我人を困らせたら」
女医が戻ってきた。どうやら、この金髪少年はカイルという名らしい。
日本人の名前ではない。外国人だろうか?
「車椅子の準備が出来たわ。じゃあカイルくん、あとはよろしくね。あまり遅くならないうちに帰ってきて頂戴ね」
そして女医は俺のほうを向く。
「倒れていたあなたを背負って運んできてくれたのは、この子よ。見た目よりもずっとしっかりしているから安心するといいわ」
「え! そうだったのか?」
「そうだよ! たまたま用事の帰りで森を歩いてたら、まっ白な犬がやって来てさ。
生まれて初めて見たけどアレ霊獣様でしょ? オレのズボンを引っ張るんで、何かな? と思って、行ってみたら兄ちゃんが倒れてたんだ」
その少年の説明で、俺は意識がなくなったあとに何があったのかを理解した。
野犬はクロが全匹追い払ったのだ。
そして俺が例によって気絶したままだったので、助けを呼びに行ってくれた――そういうことらしい。
しかし俺は身長175センチ、体重も70キロ近い。
それをおぶって街まで運ぶ?
どれくらい距離があったのかは知らないが、とんでもない体力だ。
「そうか……なら命の恩人だな。ありがとう」
「お礼にボクサーパンツ貰っておくよ。へへへ」
「お前は変態か……」
「だってこれ凄くない? ね? お医者さん」
「確かに。私も初めて見るわ。考えられないくらい薄くて絹のような光沢もあるし、それにかなり伸び縮みもするのね。不思議な布だわ」
結局ボクサーパンツは奪われた。
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