緑の楽園

どっぐす

プロローグ

第0話 プロローグ 初めての散歩

 生まれて初めての犬の散歩は、さほど気分の良いものではなかった。


 俺は二十二歳の大学四年生。名前は大森陸。

 今、房総の山道で一匹の犬と一緒に歩いている。


 左手には、犬を引っ張る紐――リードというらしい――をグルグル巻きにしている。

 慣れていないので、何かの拍子で手を離してしまわないよう、念のためにそのようにしていた。


 リードの先には斜め後ろについてきているのは、真っ白な和犬。

 実家の飼い犬で、三歳の紀州犬。名前はクロだ。

 真っ白なのにクロと命名されたのは、色々苦労した犬だから、である。


 クロはさっきから、無言でこちらを見ながら歩いていた。

 散歩のときは飼い主のほうを見るよう、うちの家族から躾けられているのだろうが……。後ろを振り返るたびに目が合ってしまう。


 気まずい。




 正直なところ、犬はあまり好きではない。

 独特の獣臭さも苦手だったし、犬のルックスもそこまで良いと思ったことはなかった。


 特に、紀州犬であるうちの犬は、小型の洋犬にあるようなマスコット的な可愛さはない。

 精悍で整っていると言えばその通りなのかもしれないが、どうも近寄りがたい雰囲気がある。


 そんな感じなので、今まで餌やりくらいはしたことがあったが、散歩に連れて行ったことなどは一度もなく、世話は基本的に家族に任せきりだった。


 その俺が初めて犬の散歩をすることになった理由は、もちろん積極的なものではない。


 今日はバーベキューをやることになっており、クロも含めた家族全員で房総山中に来ていた。

 俺の就職活動が無事終わり、身軽になったために企画されたものだ。


 先ほど無事に現地に着き、準備を始めることになったのだが……。

 ふだん家事もロクに手伝っていない俺は最も戦力外ということで、準備は父・母・姉の三人でおこなうことになり、俺はその間に周辺でクロの散歩をすることになったのだ。




 バーベキュー場から伸びていた細い道を歩いてくると、少し広めの道に合流した。

 道の左側は林になっており、右側は低い木の柵が続いていた。柵の外は崖になっているようだ。


 柵のある側を歩いていく。

 柵の下を見ると、崖の下は渓流になっていた。高さは結構あるようだ。

 吸い込まれそうな気がしたので、すぐに見るのをやめた。


 しばらくそのまま歩いていたら、疲れてきた。

 いや、飽きてきた。


「いつも一時間は散歩しているからお願いね」

 と言われたが……長すぎだと思う。

 散歩の時間はそんなに必要なのだろうか?


 ……。


 まだ早いが、もう引き返そうと思った。

 時間が少し余るだろうが、怒られることはないだろう。


「ちょっと早いけど引き返すぞ」

「ワン! ワン!」


 回れ右して今まで来た方向に帰ろうとしたが、逆方向に引っ張られ、吠えられた。


「何だ? 吠えるなよ」

「ワン! ワン!」


 ん?


「ワン! ワン! ワン!」


 何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 少し迷ったが、無理矢理リードを引っ張って帰ることにした。


「散歩は毎日しているみたいだし、今日はもういいだろ。バーベキュー場に戻るぞ」


 まだ吠えていたが、そのまま来た道を戻り始めた。

 吠え声も、しばらく無視していたら静かになった。


 今度は左手のほうが柵の側だ。

 崖下の渓流の反対側には、色とりどりの木々。景色はいい。が、既に見飽きている。楽しみにはならない。

 そのまま無機的に歩き続ける。


「ワン! ワン!」


 また吠えられた。強い力で逆方向に引っ張られる。

 手首が痛い。


「うるさいな。おとなしくしろって」


 意味がわからない俺は、また強引にリードを引っ張り、進んだ。


 と、その時。

 ゴゴゴゴ……という音が聞こえてきた。


 ん? 何だこの音は。


 ゴゴゴゴ…………


 地鳴りか?

 こういうところで地鳴りって、確か……。


 確か…………。


 あ。


 バキバキと、何かが折れるような無数の音がした。


 ヤバい。早くここを離れなければならない。

 これは崖崩れだ。


 しかし足が動かない。

 動け。竦んでいる場合ではない。

 下半身にそう喝を入れたが、動いてくれない。


「――!」


 足元が崩れた。

 リードをぐるぐる巻きにした左手が、また強く引っ張られるのを感じた。

 だがそれでも、俺の足は動かない。


 ダメだ、もう間に合わない。


 内臓が持ち上がる。

 左手が上に引っ張られる感覚。

 そしてその感覚もすぐに消え――。


 自由落下。


「うあああ――!」


 意識はそこで途切れた。

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