槍となれ。
殿代 海
第1話 遺体遺棄
*
春が終わろうとしている。それなのに、帝都の街は衣の色ひとつ変えようとはしない。
人々は分かっていた。照り付ける日差しを浴びる前に、長い長い雨が降るのだと。
その後は、草いきれの青臭さがどこからか漂う、生温くも生命の息づきを感じる心地よい日々になるだろう。
そう思いを馳せたのはきっと、かかる忍苦にどこか時の先のような誰も手の届かないところへと逃げたくなる思いがあるからだ。
ただ立ち込める、不安、恐怖、焦燥といったものが、グンッと、心に張り詰める弦を引っ張って離したからだ。現実を見ようとする真摯な思いを、どこか遠くへ投げてしまったからだ。
6月の、戌の鳴き止む午後の9時。
僕たちが抱えていた積年の暗い感情を晴らすには、あまりにも呆気なく、義理の父は殺されてくれた。
屋敷の一室で、とある魔術の書を、僕はめくり続けていた。
「…は、…で、…が………だから」
口で息をしていることにも気が付かず、首を傾げることはあれど視界は長らく手の内が支配している。隷属魔法の紐解きは、鎖帷子を片手で解くよりも難しいと思う。視覚と思考だけが研ぎ澄まされていく無音の空間と時間。それが唐突にぷつりと切らされた。
ガシャン!
屋敷の1階から、陶器の割れる音が廊下伝いに響いたのだ。ここが2階であっても、それは容易く認識してしまうほどの雑音だった。
「あ…。」
頭の隅で思考を支えていた、AとBとCの概念がどこで接していてどこで支えられているのかを突如として見失い、脳内で組み上げられた繊細なピラミッドは崩落する。
「ああ…。」
天井を仰ぎ小さく息を吐く。あの音は、屋敷にたった一人住んでいる使用人が粗相をしてしまったことに違いない。だが、それに対し怒りはなく、それよりも彼女を不憫に思う心が勝る。物が落ち、または物が割れるような音の後には、彼女の主人であり僕の育ての親である父の罵声が、鈍い音と共に屋敷に響くのだ。
「また、リリーは…。」
僕は、それが何よりも嫌だ。「うるさい!彼女を殴るな!彼女を傷つけるな!鬼畜め!消えろ!失せろ!」―その衝動がいつも、後から来ては拡声器を心に当てて叫んでいる。恐怖が席を譲るのがあまりにも遅いので、僕はその衝動に、身を任すことも声に出すこともできない。
いつも。
いつもいつも。
いつもいつもいつも。
力の籠る拳を振り上げる場所がないから、ただ血の沸騰が収まるのを待つしかないのだ。無力感が僕の心を苛んで止まない。
だが今日は、それよりも違和感が先を越した。
「…変だな。」
いくら待てども父の声は響かない。それが変だと感じてしまうのなら、僕は父のそれを受け入れてしまっているのだろうか。―確かめたくなった。居ても立っても居られないのは、野次馬の心地によるものではないと、自分に言い聞かせる。僕は即座に部屋を出て、父が居るであろう1階の居間へと赴いた。
片側の少しばかり開いた両開きの扉から、太い帯状に光が差している。音だけでは何も分からないほどに、静まりかえっているのが不気味だ。
はて、ここには父はいないのか。他の部屋には明かりがあっただろうか。
とりあえず、入るか。
居るかいないか分からない、それが僕の背中を押したようで。少しばかりの息を吸って止め、明かりへと踏み出した。
踏み出してすぐに、後ろ足が前足を追うのを止めた。
「……え?まさか、これ…」
頭から血を流した男が、僕に頭を向けるように横たわっている。
「…お義父さん?」
うつ伏せで表情は見えないが。
「はは。はははは。お義父さん。お前、お義父さんか!」
父は横たわっている。
「義父さん!いや、イワン・フォルディオ!お前はついに、ついに…っ!」
死んでいる。
「死んだか!死んだかぁあぁ…っ!そうか、そうか…もう、死体なんだな?そうなんだな?この問いに、死んだのだ、と、正直に答える息ももう止まっているんだな?ああ!それはそれは…」
きっと、苦悶の表情なのだ。そのまま、そのまま、どんどん冷たくなっていくのだろう。産まれたての卵が、親鳥の温もりを感じることなく放置されるのと同じような具合で、生の状態からより遠い状態へとなっていくんだよ。
ぐるりと、思考が血管を通じて身体中を一周するかのような天地のひっくり返る感覚。これは眩暈だ。衝撃だ。自らの跳ね上がった動悸と、屋敷の中に息づいていた小さくも全てである世界を一変させた事態に興奮を覚えているのだ。
「…ふふっはっはっはははははっはっははははっは」
脳内で世界を隅々まで指さしに確認して歩く僕の意識。『まず。父を失った悲しみを腹の中に探したが、見当たりませんでした。次に、父の思い出を後頭部の中に探したが、血管が裂けるほどの憎しみを憶えました。最後に、父に対する希みを手の中に探したが、遠い昔に捨てていました。唯一見つけたのは、身体中を支配していた恐怖でした。しかしこれは、たった今払拭されたばかりなので残り香でしかありません!ブラボー!これが自由ということなのか!どうですか!はははははは!』
心の僕は、そう叫んで、屋敷中を駆け回っている!御せぬ!御せぬ!喜びを御せぬ!人の死に歓喜する愚か者め!しかしこのひと時だけは!この時だけは!神から隠れ感涙を溢そう!それが父の死を無駄にしないための唯一の賛美!
「ふふ。ふ…はあ。…はあ…」
高まりを過ぎた麻酔はやがて切れ始めるもの。体内の熱気は息に混じり外へと逃れ、この興奮を冷まそうとする。冷静になることへの恐怖もあったが、これは安堵へと向かう心地に近かった。人へと戻る気分だった。
「…リリー。君がやったのか?」
彼女はやはりそこにいた。部屋の隅に問いを投げかける。ぺたりと足をなげだして座り込み、小さく震える彼女―リリーシャは、垂らした長い前髪の奥で、コクリと頷いた。
少し状況を見ておく。死体の下で、赤い絨毯が血で小さく黒ずんでいる。そこに散らばる、陶器の破片。これは、壺だったものだろうか。とようやく周りが見えてきた僕は、俯く彼女の元へと近寄った。
「…違うのです。私は、このようなことになるとは。思わなかった。ただ、今日こそは、と、ご主人様のお叱りを、手で、退けただけなのです。」
彼女は重そうな頭でこちらを見上げ、その切れ長な目尻を湿らせる。いつもの冷たく凛々しい彼女の表情が、果敢ない憂いを帯びていた。
それを見たら。
なんだか、再び身体が熱くなった。心臓が一度、大きな鼓動をしたようにも感じた。しかしそれは先ほどのような父の死体を目の前にした時のものとは異なった。そして、彼女の身体よりも奥底にある何かを抱きしめたくなるような衝動が僕を襲ったのだ。彼女を食い尽くし、自らの腸を取り出してはまた彼女を探すくらいの、強い衝迫だった。
それがなんなのか?理解できなかった僕は、彼女から目線を逸らしていた。
(なんだろう。苦しいというか、身悶えするような。)
死体の方へと、視線を移す。眼球だけ先に動かしたのは、平静な動作としては少し不自然だったかもしれないと、後で気付いた。
父が死んだ時の状況は、簡単に察することができる。
割れて原型を留めないこの壺は、天井近くの高さまである本棚の上に置かれていたものだ。死体が本棚のそばにあることから、大方、リリーシャに押された父は本棚に背中をつき、その衝撃で壺が落ちてきたのだろう。
つまり、事故。紛れもない偶然からこぼれ出た死。彼女に罪はなく、今彼女を苦しめている胸の痛みは本来、あるべきものではないもの。とでも言えようか。
そう思った矢先、先ほどの言葉に続け、彼女は告白した。
「いいえ。違いました。そうではありませんでした。私は、ご主人様を死なせた。この事実には、もはや、後悔も、苦痛も、ないのです。」
「…え?」
突如。昨夜見たつまらない夢のあらましを語るように、告げられた彼女の心境。その中身は、僕の計慮をずっと越えていて。
「レイン様。ここでお別れです。奴隷身分の私は、例え故意がなくとも人を殺めるに至れば、極刑は免れません。それを隠せば、レイン様にも罪が及びます。」
「そんなこと…いや、確かに、そうだけれども、でも。」
父の死に浸っていた僕より、彼女は断然冷静に事態を見据えていた。茫然自失という様子で座り込む彼女には似つかわしくない淡々とした口調で、表情を見せぬまま抑揚のない声を続ける。
「私にとって、レイン様の幸せが私の幸せなのです。私たちがこの屋敷に連れてこられた、あの雪の日から、ずっと。使用人としてお仕えしていたのは、ご主人様ではなく、あなた。だから―」
「止めろ!」
勝手な話だが。その冷静さが紡いでいる自己犠牲に、僕は苛立ちを覚えたのだ。彼女の思いのたけは、空言のように聞こえるほど装ったものに聞こえたのだ。だから自然と、強い言葉が出てしまっていた。
押しては返す波のように、僕の理性は引いたり、押したり。我に返ると、今度は不安が立ち込めた。たった今怒鳴るように言葉を吐いた僕の姿は、彼女を叱るあの忌まわしき父の姿と重なってしまったのではないか、と、不安になったのだ。
「そんな話は、聞きたくない。なぜ!あれほどいなくなることを願った邪魔者が、突然、ようやく消えたと思ったら!今度は君すらも消えようとする!それも、僕のためだと!?そんなものは…」
飲み込み切れたもんじゃない!
その偽善は、僕と彼女が心の内に渇望していたはずの、苦痛からの自由をみすみす捨てることに他ならない。それとも、彼女は思い描いたことはないのだろうか。父のいない、僕と彼女だけの屋敷の姿を。それをいつかいつかと待っていたのは、僕だけだったとでもいうのだろうか。
「埋めよう。」
「そ、そんなことをしてしまったら…」
「屋敷の地下に埋める。リリー。手伝ってくれるね?」
閉口する彼女を前に、巻き上がる全ての感情と言葉を込め、僕はそのように言い放ったのだった。
*
商人や小貴族が家屋を構える住宅街の一角に、僕らの暮らす屋敷がある。
大の大人だろうと息を切らせて走り回ることができるほどの広い庭と、それを囲むレンガの塀と手入れの行き届いた芝がいつも来訪者を感嘆させるものだ。
今宵。
草木は月明りに葉をなびかせ微かな擦れ音を立てるも、辺りはしんと静まりかえっていた。
三つ刻ほど前にこのうららかな園へ短く響いた、骨の潰れる鈍い音などは毛ほども感じさせぬほどに。
屋敷の中はどうだろう。
両開きの玄関をくぐると目の前には2階へ続く幅の広い階段がまず目につく。
赤い絨毯はもちろん、手すりや扉の金具に施された金色の装飾は金持ちを気取っていかにも派手だが、この暗がりにおいてはどこからか漏れる明かりを反射するそれらが、幾分上品に見えよう。
しかし、これに似つかわしくない音がどこかで一定のリズムを刻んでいるのが耳につくのだ。
ざっく
…ドサッ。
ざっく
…ドサッ。
それはこの屋敷の地下室から響く音だった。
僕―レイン・フォルディオはただひたすらに足元の土を掬い出す。
それ自体には何も感じない。机の引き出しを閉めるのと同じように、考えているのは先のことだけ。それが正しいか、不安にはなった―だから、聞いてみた。
「なあ。今、どんな気持ちなんだ?これが正しいかどうかなんて、考えているのか?」
「私は…使用人です。御主人様のご子息である、レイン様を第一に考えるのが正しいこと。ですから、穴を掘るのを、止めなくてはならないはず…」
「どう言われようと、止めないぞ。」
「それが、分からないのです。レイン様は、それをさせてはくれない。私は、責任をとれない。」
スコップの先を地面から押し上げる度にむわりと土のにおいがした。時々、土に絡まっていた細い根っこがブツブツと音を立て、持ち上げた土から引き千切ぎられていく。
僕の汗と熱気がこもり地下室の温度を上げているのか、はてまたこれを始めるより前から地下室はこのような息苦しい環境だったか。
手にかかる負荷と、犯罪に手を染めていることを自覚して指先からねっとりとした寒気を感じるほどに冷静さを取り戻したころには、そのようなことは覚えていなかった。
リリーシャが掲げているオイルランプに、どこから来たのか蛾が舞いはじめ、彼女の黒い給仕服に鱗粉をつける。
掘り始めてからかれこれ1時間は経っていた。
胃が痛い。これを埋めて、どうなる。いつか見つかったら、どうなる。いつかとは、いつなのか。明日か。明後日か。いや、スコップの土を降ろすこの音を、今まさに聞きつけ誰かがやって来るのではないか。決断を増長する恐怖が震わせる。罪の意識ではない。自らと、リリーシャの先行きに恐れを感じている。
地下の熱気と思ったよりも腕と腰に負担がある穴掘りに、僕の額や背中に汗が滲み出すのもそう時間はかからなかった。
「私は…私は。どうしたら良いのでしょうか。」
リリーシャは僕の掘る穴と地下室の隅で影を作る『黒い染みのある布の塊』を、細い目でチラリと見るも、ギュッ目を瞑る。
白い頬から血の気が引いて青白くなっていく彼女の様子を、僕は横目に流すことしかできない。作業に集中することでしか、先へ進むことができないと分かっているからだ。慰めに、彼女のざんばらに切られた長い黒髪ごと、この腕で抱きしめようものなら、やがて僕たちはその場に座り込んで怏々と涙を流し続けるかもしれないのだから。
彼女が時折鼻をすする音と、土を削る音。それだけが地下室にこだまする時間は、とても、とても、長く感じられて。気が、滅入りそうになる。
「くそ、墓穴を掘ることがこんなに大変だとは、思わなかった。これなら森かどこかに捨てたほうがマシだったか?」
思ってもみないことを軽口にして叩いた。そんなことをすれば街を出る前に衛兵に見つかって終わりだろう。なんということはない、ただ沈黙を退けるための言葉である。
吐きそうだったから。
僕の腹のずっと奥で、沸々と何かが沸騰し、贓物ごと不安も焦りも全て全て、吐き出してしまいそうだったから。
「申し訳ありません…。私が、ご主人様を殺さなければ…。」
墓穴を掘らせているのは私のせいなのです、申し訳ございません。そう僕には聞こえた。
事実、そうなのだろう。事故であると、明白だが。彼女からすれば殺したも同じ、と、そういうことなのだろう。
しかし、僕も同罪だ。彼女を残して父から逃げたのだから。
本当だ。慰めや痛み分けを慮ったものではない。心から、そう思う。そうでなくては、一心不乱に穴を掘ることも、眩暈がするほどに精神を混濁させることはない。ゆえに、彼女を責める気は全くない。
「事故だったんだよ。」
オウムと同じことをしている。リリーシャには何も伝わらない。
布の塊を一瞥した。黒い染みはもう乾ききっているようだ。血のにおいがどこからか漏れて、屋敷中に立ち込めてはいないだろうか。恐ろしい。恐ろしい。一刻も早く埋めなくてはならない。
視界の端で、リリーシャがまたベソをかくのが見えた。細い四肢を震わせて、小さな顔を大粒の涙で濡らして。身に着けた装飾のない白いエプロンの端々が皺でくしゃくしゃになるほど、裾を握りしめていた。
ハンカチでも差し出したいところだが、もう少しで完成する穴を目前に僕も余裕というものがない。
「…ん?」
横に広く楕円形に五十センチほど深く掘り進めたところだった。
スコップが何か固いものを捉える。―もしや、岩盤でも突いたのではないか。
僕は今までの努力が無駄になる予感と焦りを覚え、心拍を加速させる。
「…レイン様?」
順調に穴を掘り進めていた僕の様子に変化があったことを察知し、リリーシャは恐る恐る僕の足元へランプを近づけた。
「何かが埋まってるのか?岩じゃないな…木か?おいおい、こんな時に埋蔵金なんてやめてくれよ…」
掘っていた穴の底のどこを叩いても、木か何かに当たるような感触がある。おそらく平べったい板のようなものが埋まっているのではないだろうか。
十中八九、人工物だ。
僕は岩盤でなかったことへの安堵と謎の掘り出し物への疑念を胸に、丁寧に土を掘り、払っていく。
「…これは」
それは大木でも、ましてや埋蔵金でもない。ましてや、今自分が埋めようとしていたものに近しいもの。
これは、好都合ではないか。―なんと、木製の棺桶を掘り当ててしまったのだ。
「…はは。しめたぞ、リリー。中の骸骨なんざその辺に埋めちまえばいい。そこの布…父を、この棺桶に移す。家の地下からアイツの顔したアンデッドが湧くなんて、洒落にならないからな。棺桶に入れれば安心だ…」
奇妙な巡り合わせだ。運が味方をするとなると、これは赦される行いだったのではないか。少なくとも、神は赦した。そう言っても良いのではないか。
「で、ですが、そんなことをしてはレイン様まで罪に…」
「リリー。君のためは僕のためでもある。」
「いけません!私のためにレイン様が」
「…リリーシャ!!」
僕の発した突然の怒号にリリーシャは身体を強張らせる。この口調、この雰囲気。皮肉にも、リリーシャを苦しめた僕の父の言葉を真似た。そうでなければ、今この場においてはリリーシャを従わせることはできないと判断したからだ。
「は、はい、ご主人様…。」
かちかちと、歯が小刻みに震えて音を立てているのが、彼女の小さな口から僅かに聞こえる。それを聞くと、胸の奥がぐんにゃりとつねられたように、呼吸が重く、苦しくなった。
「…すまない。今は従ってくれ。棺桶に、死体を入れる。その手伝いをするんだ。リリー。」
「かしこまりました…」
薄暗がりでも分かるような、光を失った目をしたリリーシャの表情に、僕は二度と義父の言葉を借りないことを誓った。
リリーシャと布の塊の端と端を持ち上げ、穴のそばへと移動させる。
作業が終わり手を離した今でも、湿った粘土の塊を持ち上げたような感触が手に残り、気持ちが悪い。
いや、僕の方がまだマシな方だ。
配慮が足りず、成り行きではあるがリリーシャには頭の方を持たせてしまった。
「よし、それじゃあ棺桶を開けるぞ。」
「あ、それはわたくしが…レイン様は虫がお嫌いでしょうから。」
ああ、そうか。
年期の入った棺桶だが、それでもまだ中の遺体が虫の苗床になっていてもおかしくはないのかもしれない。
それに、リリーシャの手には死体の感触が残っているだろう。雑な言い分だが、虫でも触っておいた方が幾分気も紛れるのかもしれない…と、自分の都合のいいように解釈する。
リリーシャはスコップの先端を棺桶の隙間に捻じ込むと、徐々に力を入れ始めた。パラパラと土煙をあげて次第に露わになる中身。
僕は若干顔を逸らしてその様子を眺めていたが、そのあらましに段々と近寄らずにはいられなかった。
「―これは…!」
*
ドクン、ドクン。
耳よりも、もっと深いところで心音を聞いている。しかしその鼓動は響かない。響かせるものはなにひとつそこにはない。
風もない。温度もない。目を凝らそうとも線どころか点すらも浮かび上がらない、ただの暗闇がある。きっと自分の身体すらも、どこかへ置いてきてしまったのだ。
まさか、死んだのか。
短絡的な考えを浮かべてみたが、恐怖で震えるはずの心すら、まるで返事をする気配はない。
そうか、心も忘れてきたか。それは度し難い。
そこでふと。
俺―ロウ・ビストリオは楽観的であることを思い出した。
その俺が曰く、こんなときは大いに騒ぐべきだと言う。酒場で盛り上がりに欠ける連中を目の前にしたときのように、他人はおろか自分自身を巻き込んで、暴虐無人にはつらつとせよ、と。
俺だ!明かりをつけてはくれねえのか!
やけになり、思いつくままに叫んだつもりだ。しかし、吐き出した音が喉を震わせる感覚が一切ないので、多分、声はおろか吐息すらも出ていないに違いない。
構うものか。
こんな暗闇で、何をしろと言う!思考しか許さないようだが、それも運動のうちよ!
槍の勇者が聞いて飽きれる。ついに、思考を運動と称するまでに落ちぶれたか。一突きのうちに竜を屠っていた自らの四肢が、筋肉の伸縮が、懐かしくさえ思えてくるではないか。
それをきっかけに、思考の行き先が瞑想というよりも回想へと移っていった。意識だけの存在になったからか、記憶はくっきり、割と鮮明だ。
城壁でも包むのかというほどに、巨大な赤いマントを羽織った後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
あいつは魔王さんだ。
恐怖の象徴、力強く捻じれた2本の太い角を生やす。角同様、テカリのある黒い甲殻に身を包んだその姿はまさに悪魔の王。その巨躯と、鋭い爪に全てを穿つ牙、血を濃縮した宝石に喩えられるけったいな魔眼。
今でもありゃあ、恐ろしい風貌で。
そんな化物を倒すため、俺はだだっ広い大陸の端から端まで縦横無尽に闊歩した。
ひとりで?まさか。
傍らには、あの3人がいつも居た。
道草を食う度に面倒ごとをよいしょする剣士さんと。
そんな男の横顔とお節介が好きでたまらない聖女さんに。
何を考えてるか分からねぇが、無口でも情に厚い女狩人。
いい仲間達だった。
風来坊を気取って自分の思うがまま…を、アイデンティティと気取っていた俺にとっては、些か勿体なかったよ。
生まれながらにたまたま勇者の痣を宿した四人だが、ここまで気が合う連中を集めるとは神さんも気の利いた采配をするもんだ。旅の最中で何度もそうぼやいたもんだから、多分神さんもご機嫌になって俺達の旅を見守ってくれたんじゃあなかろうか。
旅はあっという間に終わっちまった。
魔王城がもっともっと遠いところにあれば、夏のひまわりだって3度も4度もあいつらと眺められたし、来年まで雪に手形が残るほど雪原を転げまわれたかもしれないなあ。
旅が終わると予感した日は、魔王さんの城で大暴れだ。いや、暴れ回ったから旅が終わると思ったのか?さて、どうだったか。
どでかい玉座の間に辿り着くころには、そりゃあ傷やら泥やら魔素まみれのボロボロのボロだったかもしれねぇが、全員揃って辿り着いたとあっては流石の魔王さんも顔が引きつってらっしゃった。
そうだ。そして俺たちは、魔王戦を三日三晩戦い抜いて見事勝利を収めたんだ。
半壊した城の外にたったひとつ、砂嵐とヒビ割れた大地に屈せず、崖のはざまでスズランが平然と咲いていたのが印象的だった。
これは僕たちだよ、と、剣士さんが滑らせるクサい台詞には、流石の聖女さんも黙っていたんだっけな。
こうして俺達の活躍で魔王軍は総崩れ、人間の世界にはようやく平和が訪れた…これが最後の記憶だ。
それからは、どうしたっけなあ。
何か大切なことと苦しいことの両方を、すっぽりと忘れっちまっている気がする。
そもそもここは、どこなんだ。
こんな暗闇の中で、俺は何をしているんだ―
*
例のものを掘り当ててから1時間が経っていた。
僕―レイン・フォルディオはいつもならば、今頃ふかふかのベッドに仰向けとなり、窓から吹く風に揺られる白いカーテンを眺めながら瞼が重くなるのを待つ頃だろう。今はくっきりと目が覚め、今日という地獄がずっと続くかのような心地さえする。
とりあえずは、父の死体を棺桶に詰めて家の地下室へ埋葬した。埋める作業は楽ではなかったが、そんなことは気にならないくらいには気になるものを掘り起こしてしまったのだ。
いや、ものではない。
ひとを、掘り起こしてしまった。
「この方は…何者なのでしょうか…。あろうことか生きたまま棺桶に入って埋まっているなんて…」
僕とリリーシャは二階にある客室のベッドへとその人を運び出して寝かせた。今はその男の寝顔を二人でまじまじと眺めていたところだ。
僕が掘り出したのは人間だ。
なんと、心臓が動いているどころか、棺桶の中でよだれを垂らし、スース―と寝息を立てて眠っている若い男だったのだ。
若いといっても今年で20を数える僕からすれば4、5歳ほどは上だろう。光に透かすと紫がかって見えるストレートの髪を右へ掻き分け、細く吊り上がった眉が気の強さを表しているようだ。なんにせよ、棺桶には似つかわしくない健康的な肌と風貌。虫が湧いているかもしれないという心配はどこへ行ったのやら。
「…憶測だけれども、長い年月を棺桶の中で腐るどころか寝て過ごすことができていたのは、蓋に書かれていた魔術式によるものなのだと思う。もちろんこんな魔術は見たことがないけど…術式はかなり高度で、棺桶も蓋だけ劣化が少なかった。おそらくその線で合っているんじゃないかな。」
「そうですね。私は、魔法は分かりかねますが。そのような理由ではないかと思っておりました。」
涙で目を腫らしていたリリーシャも、この男を運ぶころにはほとんど落ち着きを取り戻していた。
男の着ている服は教会の書庫で見たことがある。
胴と袖の節々は針葉樹の幹に似た茶色い固めの布が使われており、他は黒色の薄い生地で通気性を重視してある。これは百年以上前の型で、当時魔物と戦争をしていた頃に兵士が鎧の下に着ていたものだ。
もしこれが当時のものならば、それを身にまとうこの男は、老いもせず腐りもせずに百年以上地中に埋まっていたことになる。
この時代で昔の服を再現し、あろうことか人の屋敷の地下室で棺桶に入れられ最近埋められた、なんてことも考えられなくはないが、リリーシャや僕の目を掻い潜ってそのようなことができるとも考えにくい。
「…んん…」
ベッドで眠る男が小さく声を上げた。
僕とリリーシャの注意がその男の方へ向く。男は眉間に皺をよせ、次第に固く閉じられていた眼を開き始めた。やはり、この男は生きていた。
「ここは…」
男はむくりと身体を起こし、ボサボサの頭を片手で掻きむしる。休日の昼間、嫌々ながらに目を覚ますように。
彼のアーモンド型の目尻の上がった目が僕を捉えるや否や。ぴたりと全ての動作を止め、乾き、かすれた声で彼が語りかけてくる。
「お前さんは、誰だ。」
「え。ええっと」
「…この方は、フォルディオ家次期当主のレイン・フォルディオ様です。私は使用人のリリーシャ。あなたの名は。」
「フォルディオ家…?知らねぇなあ。俺はロウ。ロウ・ビストリオだ。」
寝起きがてらに凄む男の態度に気後れした僕の様子を察してか、リリーシャがぴしゃりと切り返してくれた。男はそれを見透かしてか、ほう、と僕よりも彼女に視線を移す。
それが少々癪に障ったが、しかしそんな態度を気にするよりも、この男の名乗りが僕にとっては聞き捨てならないものだった。
「ロウ…ロウ・ビストリオだと?随分大層な名前だな。ロウ・ビストリオといったら、あの魔王討伐の大英雄、ランサー・ロウその人じゃないか。冗談にしてはいただけないな。確かに顔はそっくりだが…」
そこまで自分で言葉にしながら、その後に続く台詞を喉奥でつっかえさせた。
確かに、ランサー・ロウの肖像画にそっくりなのだ。
少々鼻の高い顔立ちや、切れ長な目。光に透かすと仄かに紫色に見える髪の色といい、わざと似せたとしてもこれほどの出来があるものか。ましてや、肖像画特有の若干の美化演出を取り払ったような違和感のなさが、この男の顔からは感じてとれる。
「ランサー・ロウといやあ確かに俺のことだが…なんだ。文句あんのか、ボウズ。」
左の前髪だけを掻き上げて狭い額を見せる横顔も、美術館に飾られた絵画に既視感を憶える。バカな、そんなことがあるわけがない、と自らの視覚を疑ってしまうくらい。そんな狐につままれたかのような心地を振り払うべく、僕は見聞した情報をよくよくまとめて問いただした。
「じょ、冗談だろう!?ランサー・ロウは確か、魔王討伐後に魔王の狂信者に殺されるという最期を送ったはずだ!あんなに盛大に、国を挙げての葬儀までやった!少なくともあんなみすぼらしい棺桶なんかには入ってなかったぞ!」
といっても、僕の生前の話であり本で読んだ出来事であるが。ロウを名乗る男はそれに動じもせず、ただ自然に自らの疑問を漏らしていく。
「はあ?俺が死んだ?棺桶?なんだそりゃ。いやまあ確かに…直近の記憶ってのがあやふやだ。こりゃあもしかすると、お前さんの言う通り一度死んで生き返ったりでもしたか…?」
「ば、バカな!」
いや、待て。そもそもこのランサー・ロウと名乗る人物が真か偽かなんであれ、うちの地下室の地中から人の入った棺桶が掘り出されること自体、おかしいではないか。
「レイン様…あの、お忘れかもしれませんが…」
「ん?」
裾を引っ張るリリーシャに連れられ、一度部屋の外へと出る。
暗い廊下に点々と他の部屋の前に据え付けられたランプが灯っている様子は、どこまでも続いているようで少々気味が悪い。
リリーシャは声を潜めて耳打ちした。
「ご主人様の件です。あのような者を掘り出すイレギュラーはありましたが、遺体を埋めたからといって何も解決したわけではありません。やはりわたくしは、衛兵へ出頭します。」
「お、おい、何を言っているんだ。」
まだそんなことを考えていたのか。僕はリリーシャの小さい肩を掴み力を込めて、思いつくままに説得を試みる。
「いいかい?確かに法に触れることはした。でも、事故だったんだ。僕はたとえ奴隷階級であっても、リリーのことは家族同然に思ってる。そのリリーに暴力を振るう義父のことは、本来なら僕が止めなきゃいけなかったんだ。でも、僕は無力だった。何度抗っても無駄だった。結局、僕はいつの間にか諦めて、逃げてしまって…部屋に、籠るようになって。そんなことだから、結局リリーに汚れ役を担わせてしまう結果になった。」
リリーシャは俯く。目の下ほどまである前髪で表情こそ伺えないが、小さく首を振っているように見えた。
「いずれ、やらなくては。いつかは君が殺されていたかもしれなかった。分かっていたのに、僕は逃げ出したんだ。僕も同罪だよ。君のことを、見殺しにしようとしていたんだから。」
「で、ですがー」
「おい!」
その男の声と共に、目の前の客室のドアが大きな音を立てて開け放たれた。
僕たちの間に流れていた張り詰めた空気を裂く、突然の出来事。唖然とする僕とリリーシャの前に、さっきの男が顔を上気させて立ち尽くす。
まさか、聞かれたか?
「今…奴隷階級と言ったな?」
「あ、ああ…そうだけど…聞こえていたのか?」
「どういうことだ。」
なんだ、そっちの話か。胸を撫で下ろす僕のことはいざ知らず、男はその瞳孔の開きかけた目でそれを睨みつける。
「奴隷制度があるってのか!」
「え…ああ、奴隷制度は、100年以上前から続く制度だよ。それこそ、魔王が滅びた後に出来た制度で…」
「100年?待て。今は何年だ。」
「今年は丁度、グラシオス歴110年だよ。皇帝グラシオス即位から、110年だ。」
「な…」
男は絶句し、そのまま壁に背を預け、狼狽える。項垂れ、ブツブツと何かを唱え始めた。
そんな常識、今更どうだっていうんだ?しかし、ああでもないこうでもないと首を横に振っている様子があまりにも迫真のものであるから、疑うよりも彼の正気が心配になる。
どうやら奴隷制度の存在に大変な衝撃を受けているらしい、ということは分かった。だが、そんなものに驚くとすれば、それは奴隷制度の無いような国に住む人間か、それとも―
「レイン様…もしやこのお方、本当に…」
「100年以上前に死んだはずの、槍の勇者だっていうのかよ。」
信じられないのは、彼が生きていること、それよりも。今ここにあの大英雄が僕の目の前に立っているということだ。
「……思い出してきたぞ。」
男がポツリポツリと記憶を呼び起こし言葉に浮かべ始める。
「俺は、俺は―戦って、いや、逃げて―国王から、逃げてきたんだ。」
男の顔色は悪くなる一方だった。廊下の薄明かりに浮かぶ横顔が、なおさら消え入りそうな印象を与える。引き締まった彼の肉体には似つかわしくないその様子に、リリーシャが心配そうに顔を覗き込んだ。
「奴隷制を阻止するため、国王を倒すために、俺たちは反逆をした。―いや、いや。何か違う。違わねぇが違う。何かもっと、それ以上に重大な理由があったはずだ―思い出せねぇ―」
「リリー、彼を寝室まで。」
今にもしゃがみ込みそうな彼を見ていられなくなった僕は、リリーシャにそう促した。彼女はコクリと頷くと、男に華奢な肩を貸して寝室まで連れて行く。
男は抵抗もしないことは元より、立つことにさえ十分な力が入らないようだった。
彼の姿がドアの向こうに消えたことで、改めて冷静になって現状を見つめ直す。ロウと名乗る男のことは気にかかるが、僕たちには現状においてそれよりも優先すべき問題がある。
言うまでもなく、父の死体の件だ。遺体は隠したが、いずれ事態が露見してしまうのは明白だ。明日にでも、父の商売相手が訪ねてくるかもしれない。
一度や二度は病気だなんだと父の不在の誤魔化しが効くかもしれないが、いずれ疑念を持たれることは確実ではなかろうか。
棚上げしてどこかに収まっていた負の感情が、再び僕の中で渦を作り始める。段々と歪みが大きく、重くなっていくようだ。
―国を出るか?
いや、外は魔物が跋扈する無法地帯だ。運よく隣国に着いたとしても、不在中に家探しをされればいずれ手配書が回ってくる恐れもある。
この国の制度では出国すると、1年以内に帰ってこない場合は国に残した財産が全て差し押さえられてしまう。
限られた国土を各国間で一個人が無駄に持ち合わせることのないようにという対策と、外で魔物に襲われ帰らぬ人となった人々の財産を有効活用できるように、という2つの趣旨で作られた制度だが、外とは無縁だった僕にとってまさかこれが足枷になるとは思いもよらなかった。
「どうすれば…。」
打開策は思いつかない。
死因を偽装することも考えたが、死亡手続きのひとつとして役人が死因を、その死体の一部を媒介に水晶魔術で占うそうではないか。つまり、偽装するどころか死体が発見されれば一巻の終わり。
とりあえず埋めて隠したのは正解であると考える。
「レイン様。」
寝室から戻ったリリーシャの表情は、相も変わらず不安の色が濃い。労わってやる言葉を探すよりも早く、彼女は話を蒸し返した。
「やはり、わたくしめが全ての責任を負って出頭する他ありません。」
それは決心した顔などではない。無表情で、思いつめ伏せられた眼差し。そんな彼女を、どんな理由があろうとも衛兵の元へ送ることができようものか。一考の余地もない。しかし一方で、事故だった、と、何度も繰り返すだけでは彼女を引き留めることはかなわなくなりそうなことも事実だった。
「やめろ。さっきも言っただろ。それに、たとえそれで僕が助かったとしてもその後はどうする。商売もできない、家事もできない、金もいずれ食いつぶす。路頭に迷って野垂れ死ぬのは想像がつく。」
なんと情けない弁明なのだろう!
リリーシャ、お前がいないと僕は生きていけない、なんてプライドが許さないものだからそれを避けて言葉を繋げたというのに、思わぬ泣き言をこぼしてしまった。
だが、それは本音でもあり冴えた分析でもあった。親のすねをかじっていたつもりは無かったが、魔術の研究に明け暮れていたツケが回ってきたのだ。リリーシャがいなければ僕は何もできない、それを今、自分の言葉で思い知った。
「レイン様の、魔法の才があれば、商売など!」
リリーシャは僕の手を勢いよく握る。ああ、まただ。僕が弱音を吐くと、すぐ手を握ってくれるんだ。僕は単純だから、それで気が紛れてしまう。ちょっと熱くなるのはいつも突然で驚くせいだろう。
自らの気持ちを落ち着けるように、彼女の励ましを否定する。
「君は知らないだろうが、僕が研究していたのは奴隷契約に用いられる隷属魔法を無効化する魔術だよ。成果は何も出てない。成果が出たとしても、金になるとは思えない…」
隷属魔法の無効化。
それは結ばれている奴隷契約を、その契約において全く関係のない第三者が契約破棄させるに等しい魔術だ。
無論、そんなものは存在しないし、実現の目処も立っていない。義父とリリーシャとの契約を破棄させるための研究だったが、それも今となっては意味の無いものだ。
隷属魔法によりリリーシャが義父に対して殺意を持つことはできなくとも、事故ならば主人を殺害することもあり得る。
今回の一件がそれだ。
ただし、殺害の故意が存在しないことが隷属魔法の特性によって証明されていたとしても、死亡の因果に奴隷が多少なりとも関わった時点で極刑は免れないのが今の法制度。
リリーシャは観念したか、握っていた手をゆっくりと離す。
僕は、ありがとう、と喉先から出掛かった言葉を飲み込んで状況整理に頭を切り替えた。
「壺の破片や血痕は片付けたのだったよな。」
「はい。ですが、カーペットの染みはなかなか落ちず…。」
「まあそれくらいなら、どうとでもなる。幸い、色合い的にも目立たない。…とりあえず今日は休もう。色々考えたけど、まず、選択肢として夜逃げをすることはできない。となれば、少なくとも明日のフォルディオ家は平常を装って過ごさざるを得ない。そのためには、普段通り寝て起きる必要がある。」
リリーシャはゆっくりと顎を下げた。それが頷きなのだと気付くのに、少し時間がかかった。
本来ならば、義父から解放されたことに彼女は喜ぶ一面もあるはずだ。それでもこんな顔をさせているのは、それが実現したのが望まぬ形であり、僕のことを心配しているからなのだろう。
僕はとても、不甲斐ない。
「…それに。僕たちだけじゃあ事態が好転しなくとも、あのロウと名乗る人物…あの人に、頼ることもできるかもしれない。」
「そ、それは」
危険です。そうリリーシャが言おうとして堪えたことを、微かに動いた唇から察する。このような事態の責任を感じて口を噤んだのだろう。
確かに希望的観測だが、それでも望みがないわけではない。
「もし、あの人が本当にランサー・ロウその人だとしたなら可能性はある。三人で、身分を偽って国外に出るんだ。冒険者としてどこかの田舎町で拠点登録さえすれば、それだけで戸籍をとったようなもんだし、大陸のあちこちを歩き回る冒険者なら顔も覚えられにくいはずだ。きっと手配書だって怖くないよ。ランサー・ロウなら魔物討伐の依頼だって簡単だろうし、その素材の売買で僕たちも生計は立てられるかもしれない。」
「確かに…。しかし、レイン様。お言葉ですが、わたくしたちのような―その、大変申し上げにくいことですが―悪事に加担した者に、かの大英雄が力を貸していただけるか、どうか。ましてやわたくしどもと行動を共にするなど…」
「それは―」
虫が良すぎる話だとは思う。しかし、今は騙してでも、安寧を勝ち取りたいと、そう沸々と滾る思いがある。それはおそらく、僕が幼少の頃から姉のように慕っているリリーシャの生涯が、虐げられたものだからだ。
彼女の幸せを切に願う。そのためなら、かの大英雄でさえ利用してやる。
「僕に任せるんだ。僕が何とかして見せる。リリーに本当の人生を歩ませるまで、僕は決して間違わない。」
「レイン様―わたくしは」
もう寝よう。
彼女の言葉を遮るように、手をかざし首を左右に振って見せた。下がれ、という合図だった。リリーシャはペコリと頭を下げると1歩後ろに退く。
結局、僕はリリーシャとの隷属関係を便利に使ってしまっていることに、自室へ向かう道すがらに気が付いた。
「リリー…ごめん。」
思わず呟いてしまう。
ともあれ、今日は疲れた。
今日を清算したい。
仕切り直すには睡眠が一番だ。
シャワーは明日、落ち着いてから浴びるとしよう。
寝巻に着替え、ベッドに横になる。
先ほど父の手帳を読んだ限りでは、明日の来客は午後に1件。リリーシャを売り飛ばすために義父が呼んだ商人だ。今日のリリーシャへの暴力と、事故死を導く火種となった話。
僕も顔を知っているくらいには付き合いのある商人だ。義父は体調が優れない、そう伝えて帰ってもらうしかない。
枕に頭を乗せると、頭の奥がじぃんと重くなっていくような錯覚がある。
微睡みというやつだ。
義理とはいえ、父親は父親だった。その父親を失った日の夜でも、僕は悪夢を見ることを恐れることもなく、
こうして深く眠っていくのはなぜなのだろうか。
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