19. 二回戦


 三月三十一日、第一試合。初戦で優勝候補筆頭の大阪東雲を撃破する大番狂わせを演じた泉野高の次の相手は、上州第一。上州第一は走塁が売りのチームで、積極的に盗塁を仕掛けたり果敢な走塁を仕掛けたりと、リスク承知でランナーを一つでも先の塁に進める戦術を特徴としていた。送りバントやスクイズも絡めるなど、抜け目の無い攻撃で貪欲に一点をもぎ取っていくスタイルで、守る方からすれば気が抜けない相手だった。

 一回表。先攻の泉野高は先頭の樫野が一二塁間を破るライト前ヒットで出塁すると、二番西脇が送りバントでランナーを二塁へ進め、続く三番大本は四球を選ぶ。一アウト一二塁の場面で四番新藤がセンター前に弾き返し、泉野高は幸先良く先制点を挙げた。

 その裏、上州第一の攻撃。岡野が投じた第一球からセーフティバントを敢行され、これが決まってしまう。出端からランナーを背負う展開で、続く二番の初球から上州第一は盗塁を仕掛けてきた! だが、これを新藤が素早く反応してランナーを刺すことに成功した。その後は内野ゴロ二つで抑え、まずまずの滑り出しとなった。

 だが、四回表に先頭打者の三番にツーベースを浴びると、上州第一はここで四番に送りバントを指示。これが決まって一アウト三塁の場面で、次の五番バッターがスローカーブを打ち上げて浅めのセンターフライに。犠牲フライには飛距離が物足りないから走らないか……と思ったが、三塁ランナーはタッチアップ!! センターの西脇がすぐさまバックホームしたが、送球が逸れたことでランナーが生還。同点に追いつかれてしまった。

 その後は両者一歩も譲らない、膠着した展開となる。泉野高は何度か得点圏にランナーを進めたがあと一本が出ない。対する上州第一も再三に渡ってランナーを出すものの、盗塁死や走塁死でチャンスの芽を潰してしまう。そのままイニングは進み、遂に九回が終わっても決着がつかず延長戦に突入した。

 十回表、泉野高の攻撃は七回から登板した上州第一の二番手ピッチャーの前に三者凡退に抑えられ、見せ場もなく終了。その裏、泉野高は九回一失点と好投していた岡野から二番手の白玉にスイッチした。

 白玉は入学当初はショートを守っていたが、投手の適性を見出した新藤の薦めもあって野手から転向した、異色のピッチャーだった。投手としての経験は浅いが、一四〇キロに迫るストレートとナックルカーブで力押しするスタイルである程度結果を残していた。

 十回裏は空振り三振一つを含めて三者凡退に抑えたが、十一回裏には先頭の九番バッターに左中間を破られるツーベースを打たれ、ノーアウト二塁のピンチを招いてしまった。一番バッターが一塁線に転がる絶妙な送りバントを決め、これで一アウト三塁。一打サヨナラと絶体絶命の大ピンチとなった。

 打順は二番。二人歩かせて満塁策を採っても、待ち構えているのは四番。それならサヨナラ負けのリスク覚悟で二番と対峙した方が良い、と考えたバッテリーは勝負を選択した。

 だが……白玉の制球が定まらず、三球続けて外れて三ボールとなる。投手転向して経験の浅い白玉はコントロールに自信がない投手なので、ここまでカウントを悪くしてしまえば潔く歩かせる選択肢もある。

 四球目。白玉がモーションに入ったのと同時に三塁ランナーがスタートを切った!! バッターもバットを寝かせてスクイズの構えを取る。万一外された場合バッターは四球となるが、飛び出した三塁ランナーは行き場を失って挟殺となる可能性が極めて高い。このカウントから博打を打たないと踏んだが、まさか勝負に出てくるとは!!

 視線の端で三塁ランナーが走り出すのを捉えた白玉は咄嗟に腕の振りを外角高めに向きを変えた。同様に新藤も立ち上がり、白玉がウエストしたボールを捕球する体勢を整える。

 完璧に外した……誰もがそう信じた。

 しかし―――!!

 白玉が投じたボールはバッターが飛び込んでも当たらないよう大きく外したのだが、傍目から見ても明らかにボールが高かった。咄嗟の出来事だった分だけ制球に狂いが生じたか。

 バッターの方も体を投げ出してバットを伸ばすが、到底届きそうにない。そしてまた、受け止める側の新藤もまた瞬時に立ち上がると懸命に左腕を伸ばす。このボールさえ掴んでしまえば、例えフォースアウトに出来なくても三塁ランナーは元の塁に戻る。投げ出したバットが当たっても、転がった方向次第では命拾いが出来る。ただ、捕れなければ……待っているのは敗北の二文字だ。

 頼む、捕ってくれ―――!! 泉野高を応援する全ての人達の祈りや願いが新藤に注がれる。

 体を、腕を、指の先まで、目一杯まで伸ばす。“絶対に捕る!!”新藤の強い決意が全身から滲み出ていた。

 果たして、白球は―――新藤が差し出したミットから数十センチ先の高さを通り過ぎていく。

 バックネットに直撃したボールがポトリとグラウンドに落ちるのとほぼ同時に、三塁ランナーが頭から滑り込んだ。

 劇的な幕切れと呼ぶにはあまりに呆気なく、泉野高ナインの春は終わりを迎えた。

 歓喜に沸く上州第一の面々とは対照的に、片膝を着いてがっくりと肩を落とす新藤とマウンド上で泣き崩れる白玉。ショートの松田とセカンドの野沢に支えられて白玉が立ち上がると、球場全体から温かい拍手が送られた。

 運命の女神が微笑まなかった、と岡野は思わなかった。これだけ一人一人が精一杯頑張ったのだから力を与えてくれたはずだ。かと言って、上州第一に実力で劣っていたとも思わない。むしろ、拮抗していた。では、両者の勝敗を分けたのは……何だろうか?

 決着を見届けた岡野は他のメンバーと共にベンチを出る。ホームベースを境に向かい合わせで挨拶を交わすと、自陣ベンチの前に整列して上州第一の校歌を直立不動の姿勢で聞く。

(……ああ、負けたんだな)

 聴き慣れないメロディが流れる中、上州第一の選手達が嬉しそうに校歌を斉唱している姿を見て、岡野は自分達が負けたことを実感した。瞳を潤ませたり、悔しそうに唇を噛む仲間達に混じって、新藤だけはじっと前を見据えて立っていたのが印象に残った。


 試合が終わった泉野高ナインはバスで宿舎に戻った。まだ敗戦から時間が経過していないこともあり、悲しみを引きずる部員も多かった。

 荷物を片付け終えると、監督から食堂に集まるように指示があった。新藤の呼び掛けで集まることはあっても、監督がみんなを集めるのは滅多に無かったので珍しいことだった。

 食堂には既に監督が待っており、部員は食堂の椅子に続々と座っていく。全員が揃ったのを確認して、監督がおもむろに話し始めた。

「みんな、今日はお疲れ様」

 一人一人の顔を確かめてから、続けて「よく頑張った」と労いの言葉を掛けた。

「本当に素晴らしい戦いだった。野球のことはあまり分からないけど、手に汗握る展開で“野球って面白い”と心の底から感じた試合だった。最後はああいう形で終わってしまったけど、俺はみんなの戦い振りを誇りに思う」

 試合が終わった後に監督が感想を述べるのも、初めての出来事だった。しかも、べた褒めである。いつにない反応に部員達もやや戸惑いつつも黙って耳を傾ける。

 そこまで一気に捲し立てた監督だったが、直後に一転して険しい表情に切り替わった。

「実は……みんなに黙っていた事が一つある」

 突然の告白に、ざわつく一同。隠し事なんかしないイメージが強かったので、何を言われるのか分からず動揺が広がる。

 監督は一度言葉を切って間を置くと、一つ呼吸を挟んでから意を決した表情で口を開いた。

「……今年度いっぱいで、泉野高を離任することとなった」

 端的に告げられた内容に、全員が言葉を失った。

 確かに、三月は異動の時期である。三月の終わりには新聞に公立校の教師の異動先が掲載され、それを見て初めて担任の離任を知る……というケースも多い。

 それがまさか、監督も含まれているなんて……誰もが考えてもいなかった。ずっとこのままの体制が続くと信じて疑わなかっただけに、その衝撃は計り知れなかった。

「上には『監督が変わると知ったら絶対に動揺するから内緒にしておいて欲しい』と頼み込んだ。そして、センバツの期間中は新年度に入っても引き続き指揮を執る旨の了承を貰った。全ては、みんなが野球に集中出来るようにする為に」

 “俺の仕事は見守りと引率”が口癖だった監督が、裏でそんな事をお願いしていたなんて全く知らなかった。適当そうに見えて案外生徒思いな一面があるんだなと、見直した気分だ。

 監督の方も喋っている内に込み上げてくるものがあったのか、目に涙を浮かべ鼻を啜[すす]り、言葉に詰まった。その姿に釣られて他の部員達からも嗚咽が漏れ始める。

「……俺が辞めると知れば、真面目なお前達のことだから“最後に監督へ餞[はなむけ]の勝利を!!”といつも以上に躍起になるのは目に見えている。でも、それは違うと俺は思う。気持ちが空回りして、絶対に良い結果に結び付かないと思った。でも……お前達は、あの大阪東雲を相手に、勝ってくれた。途轍[とてつ]もない事を成し遂げてくれたお前達を、俺は凄く誇りに感じる!!」

 そこまで言うと、監督の双眸[そうぼう]から大粒の涙が溢れた。その涙を皮切りに、それまで部員達が懸命に堪えていた感情が一挙に限界を超え、あちこちで泣き始めた。涙腺が決壊して滂沱の涙を流す部員達の姿を目の当たりにして、感情の起伏に乏しい岡野も胸がギュッと締め付けられる思いになった。

 監督はポケットから取り出したハンカチで顔を乱暴に拭うと、笑みを作って全員に向けて優しく語りかけた。

「……後任には、野球に詳しい人が赴任することになっている。ずぶの素人だった俺とは違って、これからはちゃんとした指導も受けられる。泉野高から離れるけど、どこに行ってもお前達のことは応援するからな!」

 伝えたい事を全て言った監督は、体を半回転して全員に背中を向けた。その背中が、小刻みに震えているのを岡野は見逃さなかった。

(……もっと、この監督と一緒に野球をしたかった)

 岡野から見た監督は、“グラウンドの端っこに立っていたり片隅に置かれたパイプ椅子に座っていて、常に腕組みをしながら練習を眺めている”という印象が強かった。練習中も練習外も監督から声を掛けられた記憶はあまり無い。指導者よりは傍観者の方が当てはまる気がする。

 でも、そんな付かず離れずの距離感が岡野にとってちょうど良かった。

 よく分からないまま的外れな技術を教えられても迷惑だし、経験に裏付けされた体育会系特有の熱血指導も鬱陶[うっとう]しい。かと言って、練習中に新聞を読んだり携帯電話を触ったりと興味が無いことを全面に態度で示されても何だか面白くない。……何度か椅子に座っている時に舟を漕いでいる姿に遭遇したが、こちらも授業中意識が飛んだ事が『断じて無い!』と言い切れないので、お互い様だと勝手に解釈している。そう考えると、これまでの野球人生で一番合っている監督だったと思う。門外漢だと分かっているからこそ、邪魔をせず遠くから見守ることに徹してくれた。その配慮が今振り返れば、とてもありがたかった。

 けれど……だからこそ―――!!

(……もう少しだけ、自分達の野球を見ていて欲しかった)

 人は、失ってから初めて失ったものの大切さを知る。岡野自身手を抜いた事は一度も無かったが、もっと手を尽くしていれば結果は違っていたかも知れないと考えると、悔しくて悔しくて堪らなかった。

 岡野の頬を、一筋の涙が伝う。暫しの間、控え室は部員達の泣き声に包まれていた。

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