17. 第三試合 九回表


 八回裏。泉野高の攻撃は九番の岡野、一番の樫野が連続三振。続く二番の西脇も初球を打ち上げてしまった。打球は前に飛ばず、キャッチャー後方へのファールフライで終わった。

 大阪東雲の長瀬は結局(六回を除いて)一人のランナーも許さない完璧な投球で泉野高を圧倒した。精密機械に生じた小さなバグが結果的には試合の行方に大きく影響を及ぼしてしまったこととなった。一度狂いが生じると立て直すのは至難の業なのは万人共通らしい。

 岡野もまた長瀬から味方が追加点を引き出してくれるとは全く思っていなかった。あの神懸[が]かり的な流れがあったからこそ五点も取れたのであって、打てない姿が通常運転なのだ。悲しいかな、援護に恵まれないのは慣れている。

 でも、今は奇跡的に勝っている。それだけで気持ちの面で楽に感じていた。余裕があるからか、序盤と比べて岡野の表情は幾分穏やかに映った。

 肩慣らしを終えた岡野が九回のマウンドに向かう。その背中に向けて一塁側アルプススタンドから沢山の拍手が送られる。その拍手が『頑張れよ!!』と言われているような気がして、自分に向けて手を叩く人々の思いに岡野は自然と背筋が伸びた。身が引き締まるのと同時に、心強さを覚えた。

 マウンドに登ってから一つ息を吐くと、いつも通り投球練習へ移る。投じたストレートの球速表示は一二七キロ。まだ慣らしの段階なので七割方の力で投げているが、それでもいつもなら一三〇キロは超えている。ストレートは調子を測るバロメータで、平均値を下回る場合は調子が悪いか疲労が蓄積しているかのどちらかの場合が多い。

 序盤から中盤にかけて球数を費やした影響で、いつもより疲れているように感じる。特に試合前半は気持ちが昂[たかぶ]って飛ばした余波が今になって出てきたのもある。それでも岡野は、意地でも「交代したい」と口にしたくなかった。幾つか理由はあったが、“折角ここまで投げてきたのだから途中で降りたくない”という気持ちが一番強い。それに……投げるのが、単純に楽しい。

 確かに疲れは感じているが、調子自体はそんなに悪くないように思った。スピードは落ちているが生命線のコントロールに狂いは無いし、ボールのキレも十分ある。変化球もストレートと似たような感じだった。

 何球か投げ込むと、新藤がマウンドに駆け寄ってきた。

「……いけるか?」

「今の球受けてみて分かるやろ? 大丈夫」

 岡野は「今更何を言ってるの」と言わんばかりの反応を示すと、新藤の方も「それもそうだな」と笑った。新藤が笑ったのに釣られて岡野も笑みを浮かべた。

「あと一イニング、頼んだぞ」

 そう言うと新藤は右の拳を突き出してきた。岡野もそれに倣[なら]って自らの右拳を出すと新藤がコツンと拳を合わせてから元の守備位置に戻っていった。グータッチをして颯爽と去っていく、まるで漫画のワンシーンだなと他人事のように思った。

 本当は「気を抜くなよ」と言いに来たのだろうが、途中で止めたのだろう。そもそも破壊力抜群の大阪東雲打線を相手に気を抜けるはずがない、と岡野は本心で思っていたのだが。

 この回は打順が先頭に戻り、一番の中居から始まる。打席へ向かう中居に向けて、三塁側から幾つも声が飛んでいる。マウンドの上からでははっきりと見えないが、神に縋[すが]らんばかりに祈っている人もあの中に居るのだろう。

 四対五と一点追いかける展開のまま九回の攻撃を迎える。このイニングで同点に追いつかなければ、三アウトとなった時点で試合終了となる。去年のセンバツで負けてからずっと勝ち続けてきた王者・大阪東雲が今、窮地に立たされている。点差が逆だったら『無名の公立校があの大阪東雲を相手によく健闘したな』と称えるだろうが、リードしているのは泉野高だった。俄かに信じ難いスコアだが、当事者である岡野自身もまだ半信半疑の心境だった。

 『夏を制覇して勢いに乗る優勝候補筆頭格の大阪東雲が順調に初戦を勝ち上がる』、これが大半の人の予想だった。その予想を立てた人の中には『ここから鮮やかに逆転を遂げて、王者の貫禄を見せつける』と考えているかも知れない。その方が波乱の無い筋書きよりも魅力的で面白いから。もしかすると、よく分からない無名の学校が勝つことを誰も望んでないかも知れない。

 でも……!!

(ここは譲れない。勝ちたい)

 自分達は負ける為に甲子園まで来たんじゃない。勝ちに来たんだ。

 組み合わせ抽選の結果を知った時、軽く絶望もしたしクジを引いた新藤の運の無さを恨みもした。穏やかな青空の下で執り行われた開会式、岡野は圧倒的戦力を前に成す術なく蹂躙[じゅうりん]されるのではないかと本気で危惧した。試合が始まる前まで、自分達が勝つイメージが湧かなかった。

 それでも―――信じられないことに、今勝っているのは自分達の方だった。“事実は小説よりも奇なり”の例えがあるけれど、正しくその通りだ。小説やドラマ、マンガ、映画と世の中に楽しませてくれる物は数多くあるが、目の前で起きている出来事に勝るものはない。

(……危ない、危ない。まだ終わっていないのに勝ったような気になっていた)

 新藤がマウンドに来たことが脳裏に過[よぎ]って、妄想の世界から現実に意識を戻した。勝った時のことは三人抑えてからじっくり味わえばいい。

 緩んだ気持ちを(もしかしたら頬も)引き締めてから、一つ息を吐く。いつものルーティーンを終えると、雑念は綺麗に払われて頭の中がクリアになった。

「プレイ!!」

 主審が試合再開を告げる。ここから、九回表のイニングが幕を開ける。

 このまま逃げ切る為には何としても先頭打者の出塁は阻止しておきたい。この局面で女房役の新藤は、初球に何を選択するか。

 注目の初球。内角ボールゾーンからストライクゾーンへ食い込んでくるシンカー!! 意表を突くフロントドアに中居も手が出せず、白球はストライクゾーンを通過して新藤のミットに収まった。一ストライク。

(……よし)

 まずストライクが取れて気分を良くする岡野。

 ボールゾーンからストライクゾーンへ入る変化球は僅かなズレが生じても外れてしまう上に、コントロールが乱れればバッターにぶつかる可能性もある。リスク承知で投げ切る度胸と精度の高い制球力の双方を満たさなければ成立しない、難しいボールだった。

 中居が見逃したのはボール自体に勢いがあったのもあるが、それ以上に新藤の配球が利いているのが大きかった。

 六回表に三者凡退で抑えたのを皮切りに、それまでの展開が嘘のように破壊力抜群の大阪東雲打線は鳴りを潜[ひそ]めてしまった。唯一ヒットを一本許したが、得点圏にランナーを抱えることもなくスルスルと試合は進んでいった。それもこれも新藤の読みや勘が冴え渡ったお陰だ。

 例えば、直球狙いのバッターには遅い変化球を、じっくり球数を稼がせたいバッターには三球勝負を……といった具合に、相手の裏を掻く配球が面白いように嵌[は]まった。逆転を許してからは焦れた大阪東雲の各バッターが早打ち気味になったのも相まって、少ない球数でアウトを積み重ねられたのはありがたかった。

 ボールが返ってきてすぐに新藤はサインを出してきた。それに岡野は小さく頷くと、間を挟まず畳み掛けるように投げ込む。初球から厳しいコースを突かれて内心の動揺を抑えるのに気が取られていた中居は若干反応が遅れた。外角低めのストレートも中途半端なスイングでは当たらない。これで二ストライク。

 ポンポンとテンポ良く二球で追い込んだことで、岡野は気持ちの面でゆとりを覚えた。何が何でもストライクを取らなければいけない場面は、思っている以上にしんどいし、疲れる。

 新藤はこの局面で長考した。次の一手を決めかねている訳ではなく、打者に色々と考えさせる為に取った間合い……だと思う。岡野も新藤のサインが出るまでの間、大阪東雲のブラスバンドが奏でる音に耳を傾けていた。野球の強豪校である大阪東雲は球場で演奏する機会が多い影響からか、その音は洗練されているように感じた。聴いている人の心を躍らせる、と表現すれば良いか。

 ……うん、気分がノってきた。恐らく打席に立つ中居を鼓舞するべく演奏しているのだろうけど、音は聴こえる全ての人の耳に届く。自分に向けて演奏していると勝手に解釈しても何の問題もない。

 テンションが昇り調子になったタイミングで、新藤がようやくサインを出してきた。これを待っていた筈はないのに、二年間バッテリーを組んでいるとお互いの考えがシンクロすることが多くなったように思う。

 今演奏されているのはプロ野球でも使われている定番曲だった。岡野も心の中でそのメロディを追いかけながらモーションに入る。

 リズムに乗って勢いよく腕を振り抜くと―――放たれたボールは浮き上がるような軌道を見せた。岡野が一番自信のあるボール、スローカーブだ。

 中居はゆっくりと曲がりながら落ちてくるスローカーブを捉えるべく、打ち気を堪[こら]えてグッと待つ。右足を上げたままの体勢でタイミングを図る。

 そして、満を持して……上げていた右足を踏み込んだ!!

 必ず仕留めると強い決意を持って繰り出されたバットは―――向かって来るボールを捉えはしたが、上っ面を叩いてしまった。打球は一二塁間方向へ弾んでいく。中居は一瞬悔しそうな表情を見せて一塁に向けて走り出す。

 これが鋭い当たりならば一二塁間を切り裂いただろうが、僅かにタイミングが早かったが為に打球の勢いはそれ程でもなかった。セカンドの野沢が余裕を持って追いつくと、難なく捌[さば]いてから落ち着いて一塁に送球する。野沢が投じたボールが大きく逸れる波乱は起こらず、一塁の関口が構えたミットへ無事収まった。その後に一塁ベースを駆け抜けた中居は天を仰いだ。

 まず、一アウト。先頭打者を抑えたことで、少しだけ緊張が解[ほぐ]れた。一塁側からはパラパラと拍手が湧き起こったが、それもすぐに三塁側から発せられるブラスバンドの演奏音で掻き消された。

『二番 キャッチャー 城島君』

 独特の抑揚をつけたアナウンスが球場内に木霊[こだま]すると、城島がやや頬を強張らせて打席に入ってきた。四点のリードを引っくり返され、内心忸怩たる思いを秘めているに違いない。ここまで四球と内野安打がそれぞれ一つ、後の打席では凡退している。岡野自身、城島に打たれているというイメージを抱いていない。しかし、油断は禁物。

 息を深く吸い込み、肺いっぱいに溜め込んだ空気を静かに細く長く吐き出す。いつものルーティーンをこなした岡野は、戦う準備が整った。

 頃合を見て新藤がサインを送ってきた。岡野も二つ返事で頷く。これもいつもの流れ。特別な手順を挟まない、呼吸をするように自然体のまま投球に移る。

 岡野が投じた球は、城島の肘の辺りに向かって突き進む。城島が危険を察知して身を引くのと前後して、ボールは懐の方へ変化を始める。城島から逃げて行くような軌道を描き、最終的にはストライクゾーンを通過して新藤のミットにボールは収まった。スライダーをフロントドアで投げ込み、初球はストライクとなった。

 一歩間違えれば体にぶつけて死球となるリスクも充分あったが、大胆な攻めにも臆さずに投げ切れることが出来た。一点リードしているという精神的優位に立てていることが気持ちを後押しした。

 間髪入れず、二球目へ。外へ逃げて行くスローカーブで誘うも、城島は悠々と見送る。こちらは外れてボール。まぁ、この一球に関しては『打ってくれればラッキー』程度に考えていたので、ボールと判定されても特に気にしていない。

 三球目。今度はスローカーブをフロントドア気味に投げる。これも外れて二ボール、ボールが先行してバッティングカウントとなった。今の球も問題はない。この二球は“見せる”のが狙いだったから。

 四球目。岡野が投じたのは、真ん中高めへのストレート!! これまでじっくり見てきた城島も甘いコースに来たストレートを見逃さず、振ってきた。

 芯で捉えた打球は―――サード正面への痛烈なライナー。打球速度が速かった為にサードの原も一度は取りこぼしてしまうが、慌てることなく掴み直してから一塁へ送球。城島も懸命に走るが、ボールが先に一塁へ到達した。

 これで、二アウト。史上最大の大番狂わせまで、あとアウトカウント一つ。一塁側のアルプススタンドから再び拍手が起きた。

 歴史的快挙が目前に迫っている状況にあっても、岡野に緊張している様子は見られなかった。城島に芯で捉えられた直後は流石にヒヤッとしたが、原が落ち着いて処理してくれたことで瞬間的に跳ね上がった心拍数は通常通りに戻った。

 二球続けてスローカーブを、しかも極力遅くなるよう加減していたので、城島は遅いボールに慣れ切っていた。そこへ全力投球でストレートを投げ込むことで、スローカーブの遅さに目が慣れていた為にバットの振り出しが僅かに遅れてしまったのだ。この僅かな差がタイミングを狂わせ、打ち取ることに結び付いたのだ。……とは言え、紙一重の差ではあったが。

 九回二アウトではあるが、岡野に浮ついた気持ちは一切抱いていなかった。何故ならば―――

『三番 センター 木村君』

 ネクストバッターズサークルで自らの出番を待っていた木村が、ゆっくりとした足取りで打席へ向かう。その姿を三塁側のアルプススタンドから祈るような視線で見つめる女子生徒が何人も見受けられた。

 それもそのはず、木村はここまで四打席全てでヒットを放っていた。満塁ホームランの次の打席でもヒットを打ち、六回以降で出塁を許したのは木村ただ一人だけだった。『木村だったらもしかすると!?』と期待を抱くのも当然のことだ。

 一方で、岡野からすれば印象は最悪だ。ここまでスローカーブを除く全ての球種を弾き返されている。相性云々[うんぬん]以前の問題に、実力で雲泥の差が開いているのだが……今最も相手にしたくないバッターだと断言出来る。

 本音を言ってしまえば、勝負を避けたい。しかし、歩かせて次の松岡にホームランを浴びれば逆転されてしまう。一方で、木村にホームランを打たれてもまだ同点だ。虎の子の一点を守り抜く為には、敬遠するよりリスク承知で勝負するしか選択肢はない。

 ふと、新藤と目が合う。すると新藤はマスクの下でニコリと笑った。その笑顔を見て、岡野も少しだけ気持ちが解れた。例えるならば、膨らみ過ぎてパンパンになった風船から余分な空気が抜けて、程々の大きさになった。そんな感じだった。

 大丈夫、やれる。具体的に根拠は無いけど、そんな気がした。でも、それだけで充分だった。

 いつも通り、大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。毎回やっているルーティーンは相手が誰であっても変わらない。

 さぁ、臨戦態勢は整った。あとは全力でぶつかるだけだ。

 初球。インローの隅を狙ったストレート。やや中に入ってしまったが、木村は泰然として見送る。一ストライク。

 ……追いかける展開で、しかも残されたアウトカウントは一つという状況で、木村は堂々と見送った。ガムシャラに振るのは分かるが、相手の意図が掴めないので気味悪さを覚える。

 二球目。外角低めへ逃げて行くシンカーを投じるが、木村はこのボールをカット。打球は三塁側のスタンドに飛んでいった。これで形の上では追い込んだが、全く追い込んだ気がしない。あの満塁ホームランを打たれた時も二球で二ストライクと追い込んだ状況だった。苦い思い出が否が応でも脳裏に蘇る。

 三球目。バックドア気味に外から切れ込むスライダーを投げてみたが、これもカットされる。続けて内角高めにストレートを投じるが、これは外れてボール。カウントは、一ボール二ストライク。岡野は木村が何かを待っているような気がした。

(……スローカーブ、かな)

 ここまで満遍なく投げているが、唯一スローカーブだけはまだ投げていない。相手がスローカーブ待ちだとしたら、どう攻めるか。相手の望み通りにスローカーブで勝負するか、それとも別のボールで仕留めるか。ただ、木村は自分が求めるボールでなければカットで逃げれる技術があり、球数が嵩む可能性も否めない。これ以上疲労が蓄積すれば、不慮の事故が起きないとも限らない。

 岡野は新藤の出したサインに全てを委ねるつもりだ。果たして、新藤の答えは。

 少しだけ間を挟んで、新藤の指が動く。サインは、スローカーブ。相手がこの球を待っていると承知した上での選択だ。但し、真ん中低めからボールゾーンへ落ちていく感じであった。こちらも馬鹿正直にストライクゾーンで勝負はしない。あわよくば空振り、または上っ面を叩いてゴロを打たせるのが理想だ。

 努めて、と言うよりはいつも通りに。岡野は一つ息を吐いてから投球動作に入る。

 しかし―――!!

 ボールが指先から離れた瞬間、「これはヤバイ!!」と直感した。疲労で握力が弱まったか、タイミングが若干ズレたか、腕の振りがブレたか。原因は幾つか考えられるが、いずれにしても脳内で警鐘が激しく鳴らされていた。指先から放たれたのは、回転が申し訳程度にかかったスローカーブ。それもストライクゾーンど真ん中。正に“打って下さい”と宣言している失投だった。

 嗚呼、どうしてこのタイミングで失投が出るんだ。岡野は自らを恨んだが、時既に遅し。手から離れてしまった以上は「待った! 今のナシ!!」と止められない。岡野の目には、白球が放物線を描いてスタンドまで飛んで行く光景がありありと見えた。折角みんなが死に物狂いで掴んだリードが、瞬く間に水の泡となって消えてしまう……悔やんでも悔やみきれない一球となること間違いなしだ。

 野手のみんなに何と言って詫びればいいか。決して油断していた訳でも気が緩んでいた訳でもない、むしろいつも以上に気持ちを引き締めていた筈[はず]だったのに一体どうしてこうなったのか。逆に、平常心で臨まなかったからこういう結果になったのか。

 岡野が自責の念に駆られている間も、白球はお構いなしに進んでいく。新藤もこのタイミングで飛び出した失投に目を丸くする。そして、木村は待ってましたと言わんばかりに力強く右足を踏み込んできた。体を捻って勢いをつけ、ど真ん中に吸い寄せられるボールへ自らのバットを鋭く振り出す。

 頼む、お願いだから当たらないで―――!! 藁[わら]にも縋[すが]る思いで祈る。

 白球がベース付近に差し掛かる。躊躇いなくスイングされたバットは無防備なボールを確実に捉えるべく、猛スピードで進んでいく。タイミングはバッチリ。万事休すだ。

 そして―――ボールがベースの上に達した。振り出されたバットも全く同じタイミングでベースの上に達する。しかし……両者は交わることなく、バットはボールの下を通過していった。

 絶好球を捉え損なった木村は目を点にして、勢い良く振り出した反動でやや体勢を崩して左膝を地面に着けた状態で固まった。阻まれることなく前へ前へと進んでいったボールは、新藤のミットに音も無く吸い込まれていった。

(……え。何、どうなっているの?)

 当初、岡野は目の前に広がっている状況を理解出来なかった。百パーセント被弾したと覚悟したのに、自分の想像を遥かに越える結末を迎えた。ここまで四打席全てで打ち込まれ、さらに自分史上最高のボールを完璧な形でホームランにした、あの木村が絶好球を空振り。どうして? という気持ちが真っ先に浮かんだ。

「―――ストライクアウッ!!」

 頭が真っ白になっていると、主審の声が耳に飛び込んできた。どれくらいの時間ボーっとしていたのだろうか。恐らくほんの一瞬のことだろうが、岡野にとっては凄く長い時間のように感じた。

 直後、三塁側ベンチから大阪東雲のメンバーが出てきた。目に涙を溜めていたり唇を噛んでいたりと、皆一様に悔しさを滲ませていた。ふと気付けば、一塁側ベンチからもチームメイトが続々とグラウンドに出てきていた。こちらはヒマワリのような弾けんばかりの笑顔を咲かせていた。

「ほら、行くぞ!!」

 背中をポンと叩かれて、岡野は我に返った。状況を呑み込めずフリーズしていた岡野だったが、続々と両軍ナインが整列していく光景を見て、ようやく自分が木村を三振に仕留めた事を理解した。

 岡野は慌ててホームベース付近に並んでいる味方の列へ合流する。ふと、向かいの選手と目が合って、何だか気まずく感じて目線を少しだけ落とす。

「互いに、礼!!」

「「ありがとうございました!!」」

 スタジアム内に試合終了を告げるサイレンの音が鳴り響く中、下げていた頭を上げた選手が向かいの選手の元へ歩み寄り、握手やハグを交わして互いの健闘を讃え合った。岡野も夢見心地ではあったが、相手から握手を求められたので右手を差し出す。握手をしながら岡野は相手の顔を見ながら、「日焼けした肌と真っ白な歯のコントラストは高校球児っぽい」とか「負けた直後なのに爽やかな笑みを浮かべるなんて凄いなぁ」と多少ズレた印象を抱いていた。

 球場全体から両校ナインに向けて温かい拍手が送られる。握手を終えて去っていく相手の背中をじっと見つめながら拍手の音に聞き入っていると、隣に居たチームメイトから肘打ちが入る。ハッとした岡野はみんなから少し遅れてバックスクリーンの方に体の向きを変える。

『ご覧の通り、五対四で泉野高校が勝利致しました。勝利しました泉野高校の栄誉を讃えて同校の校歌を斉唱し、校旗の掲揚を行います……』

 ウグイス嬢のアナウンスが終わると共に、校歌のイントロが流れてきた。タイミングを合わせて岡野は校歌を歌い出すが、隣の柳井が大きな声で歌い始めたのでそれに倣って声のボリュームを上げる。

 甲子園で、母校の校歌が流れている。

(……あぁ、本当に勝ったんだな)

 いつもより声を張って校歌を歌っている自分の姿を思い描いて、ようやく試合に勝った事を実感した。勝者のささやかな余韻に浸りながら、岡野はこの一時をじっくりと噛み締めていた。

 時刻は既に七時を過ぎており、センバツでは異例となるカクテル光線に照らされながら校歌斉唱という形で長い一日は幕を下ろした。

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