ユリア・フォラ・エンプレス=春華

 床に手をついてお願いするなんてこと見たことも聞いたこともなかったリリーは困惑の表情を浮かべている。彼らが別の世界から来たことと帰りたいという事情は聞いていた。もちろん貴人の寝室にどこの誰ともわからない人間を入れるわけにいかないと言う事情はあるものの、別に嫌がらせで断っているわけでもない。それには事情もあった。


「そこまでお願いされましたら、私も力になれたらとは思います。

 でも、そうはいかないんです」

 護衛たちも頷いている。リリーは軽く目を瞑り理由を説明した。

「実はこの部屋には結界が張られていて特定の人しか入室できないんです。

 もちろん、私もこの二人の護衛も入ることができません」


 耕輔と裕司は愕然がくぜんとした。ここまで来て最後にこんなことがとつぶやく。フロスが駆け寄ってきて耕輔の肩に手を添える。

「お兄さん、大丈夫?

 私は入れるから見てきてあげようか」

「えっ本当?」

 耕輔の顔がぱっと明るくなるが、すぐに思い直して暗い顔になる。

「ありがとう。でも、フロスは藤鞍さん知らないでしょう」

 耕輔は立ち上がり扉に触れる。

 それは意図していたわけではない自然な動作だった。


 耕輔が触れた途端とたん扉が光に包まれた。手を置いた場所から光が広がりドア全体が鈍く光る。

「こ、これはどうしたことだ」

 護衛とリリーは唖然あぜんとしている。

 耕輔は無意識に扉に触れている手のひらに力を加えた。唖然あぜんとしている護衛たちはそんな耕輔を止めることも思いつかないでいた。

 扉はあっけないほど簡単に開いた。それこそ音もなく静かに、しかしゆっくりと開いていく。

 扉の隙間すきまからのぞく部屋の中は全体がうっすらとした光に包まれている。


 護衛が体勢を整える暇もなく玲奈が中に飛び込んだ。続いて裕司と耕輔が止める護衛の声を無視して部屋の中に踏み込む。護衛は入ろうとしたが躊躇ちゅうちょしたのか入らず外で待つことにしたようだ。フロスが入ってくる。その後についてこわごわとファーファが入ってくるが、バーデンも外で待っていることに決めたようだ。


 部屋は八メートル四方のかなり広い部屋で天井も高い。中央にシルクのカーテンでおおわれた天蓋てんがい付きの大きなベッドがしつらえてあり、四隅に装飾の施された魔法の明かりが淡い緑の光を放っている。その明かりとベッドの中から漏れてくる光とが相まって部屋中がうっすらと光に包まれている。ベッドから少し離れて六人掛けぐらいの小ぶりだががっしりしたテーブルが置いてあった。部屋の隅にやはり小ぶりのクローゼットがあるだけで、他に家具のようなものは置かれていない。実に質素な部屋だった。


 そのベッドには女性が横になっていた。先に部屋に飛び込んだ玲奈はベッドの天蓋てんがいに留まり中を覗き込んでいる。裕司と耕輔はベッドに歩み寄って覗き込んだ。ベッドのカーテンを引くと中の光がぱあっと部屋に漏れ出るように広がる。漏れ出る光は優しい香りを伴い焦る気持ちが落ち着いていく。


「これは…

 藤鞍さんなのか?」

 耕輔が息を飲む。裕司は思わず声に出していた。顔を見合わせ頷く。


 ベッドに横たわっていたのは、アングロサクソン系の年齢は二十四・五歳の美しい女性で顔そのもので言えば春華とは違っている。しかし、二人には確かに春華に見える。体をほのかな光が取り巻き、そのオーラのごとき光はえも言われぬ芳香として感じ取られ見るものをくらくらさせた。


「この方は、ご尊名を口にするのもはばかられるかた。

 この世界の魔力のバランスを司ってらっしゃるのです」

 フロス付きのメイドのリリーが背後から紹介する。

「ご存知かも知れませんが、眠りの魔法にとらわれ、もうここ三週間お目覚めになられません。

 この方は確かにお二方のお知り合いなのですか?」

「いえ、顔は違うのですが、持っている雰囲気、いえオーラは確かに彼女のものです。

 と言うか僕らには友人の藤鞍さんに見えるのです」


 リリーは軽く握った右手を額に当て悩ましそうな表情で考えごとをしている。

 しばらくしてなにか決心したのか顔を上げちらっとファーファに視線を振った後、話し始めた。


「そうですか。もしかしたら……」

 躊躇ちゅうちょを見せたものの、決意のもとに話をつづけた。


「これは、この塔の限られた人しか知らされていないことなのですが。

 言い伝えが残っているんです」


巫女みこが眠りにとらわれるとき、

 世のことわりが乱れ災厄が起こらん、

 未見の軍隊が現れ野獣の咆哮が鳴り響くとき、

 戦士と勇者が現れ眠りを討ち払わん』


「本当なら入れないはずの部屋にあっさり入れるなんて」

 リリーは躊躇ちゅうちょと決心の仕草を何度か繰り返している。どうしても言い出せないようだったので裕司から振ってみた。


「で、俺らにどうして欲しいんですか。

 そんな話をここでするってことは、何かして欲しいんでしょ?」

「ええっと、

 私はしがないメイドですのでそんなことを決めたり、お願いする権限はないのです。

 でも、個人的にはダメもとで眠りの魔法をなんとかして欲しいんです。

 あなたたちならなにかやってくれるような気がするんです。メイドなのに」


 そう言いながら、またちらりとファーファの方を見ている。

「だったら、なんとかしようよ。

 僕らもあまり時間がないし、その伝説の戦士と勇者かどうかはわからないけど」

 耕輔がもうじれったくてたまらないという風で裕司に同意を求める。裕司も頷いて答えた。


「で、どうしたらいいんですか?」

「それは、伝わっていないです」

「えー、そうなの?

 困ったな、そんな魔法知らないよ。

 アギーも知らない?」

「妖精はそんな魔法知らない」

 耕輔の頭を定位置にしているアギーに聞いてみるが、そっけない返事だった。


 みんなが困っていると、裕司がなにかひらめいたのかハッとした顔をしたが、すぐに意地の悪いニヤニヤ顏になり耕輔に話しかける。

「いやさー、耕輔」

「なんだよ、変な顔して」

「こんな場合、眠り姫の目を覚ます方法って決まってないか?」

 裕司が最初何を言っているかわからなかった耕輔であったが、気がついた途端顔を真っ赤にしてしまった。


「いやいやいや、そんなの無理だろ。

 あれは、王子様のキスで……

 僕らじゃ役不足じゃね?」

 その会話を聞いていた玲奈が叫ぶ。

「それはだめ、春華のキスなんて、そんなうらやまし……いや、なんでも。

 とにかく、春香とキスするのは絶対ダメ」

「他に方法あんのか?

 リリーさんはダメもとって言ってるし、玲奈はフクロウだろ」

 裕司に返されて、フクロウ差別だと言ったもの玲奈は黙ってしまった。


「それで、だれが試す?」

 ここでニヤリ。

「耕輔が嫌なら俺が試すしかないが?」

 ファーファが咄嗟に目を見開いたものの、すぐにうつむいて目を瞑った。それは誰にも気がつかれなかった。


「そんな、いやじゃないよ」

 裕司のニヤニヤ顏の意味は分かっているものの、ここは自分しかないと、

「わかった、僕がやる」

 耕輔は顔を真っ赤にして勢いよく答えた。

「よし、まかせた」


 裕司もさすがに真顔に戻り耕輔に場所を空けた。

 耕輔はどきどきしながら春華に近寄り、顔を近づけるが、途中で一旦戻り深呼吸をする。

「あー、どきどきする」

 思わず、言葉が漏れる。

 声を出したら少し落ち着いてきた。

 アギーは耕輔の周りを飛び回り冷やかしている。耕輔はアギーの冷やかしに取り合わず、とうとう決心して顔を近づけ春華のくちびるに自分のくちびるを軽く押し当てた。


 やわらかい、あたたかい、その感触が心に染み渡り感動となる、人生初めてのキス。自分が好きでたまらないひととキスできた。耕輔は感動でくらくらして今にも倒れそうになっていた。


 春華を取り巻く光が強くなりオーラのように彼女を取り巻き、逆に彼女の輪郭りんかくがぼやけて見えるようになった。そして彼女の閉じていた目がゆっくりと開かれる。

 目をしっかりと開いた春華は急いで体を起こし右手を振り上げた。

 ベッドのかたわらに立ち真っ赤な顔で唇に残る感触を思い起こしていた耕輔は振り上げられた腕とその軌道を理解出来ずに見つめていた。


 パンと乾いた音が部屋に鳴り響き続いて驚いた耕輔が尻餅をつく音が聞こえた。春華は耕輔の頬をおもっ切りはたいたのだった。


「最低!

 私の初めてのキスファーストキッス

 頬を真っ赤にして、プリプリと怒っている。耕輔は床に転がって何が起こったのかわからず呆然あぜんとしている。周りの人々も呆気あっけにとられて言葉を失っていた。

 裕司は耕輔を生暖かい目で見ていたが、これには吃驚した。


「おいおい、藤鞍さんだよね?大丈夫?

 目は覚めたようだね」

 裕司のその声を聞いて、春華はハッとしてバツの悪そうな笑顔になった。それからペロッと舌を出して軽く目を瞑ってから、表情を切り替えて真面目な笑顔になった。そして何事もなかったかのように話し始めた。


 周りの人々は眠り姫の態度の変化についていけていなかったが、それぞれの理由で次に続く言葉を待った。

「ありがとう」

 春華の声には二人の女性が同時にしゃべっているようなイフェクトがかかっており少し聴き取りにくい。本来の彼女のすずやかで良く通る声に、アルトの落ち着いた大人の女性の声がかぶっていた。

「皆さんのおかげで、眠りの魔法から醒めることができました」

 その頃には耕輔も立ち上がっていた。まだ立ち直れないのか、みんなのおかげなのかと小さい声でつぶやいている。


 春華はベッドから降り立ち上がった。身についた優雅な仕草で上品なネグリジェがゆるやかに波打つ。本来の春華は目を引く美少女ではあるが、ここにいるのは本来なら全く似てない女性、それは高貴な美しい王女の品を持った女性である。目を開き動くとその美貌が際立きわだち、耕輔は息をんだ。えっ、僕はこの人とキスしたの、などつぶやいている。


「フロスベルス、リリー、ウジェーヌ驚いているようですね。ちゃんと説明しますから少し待ってくださいね。

 神河くん、玲奈、ここまでの旅お疲れ様でした。矢野くんもね」

 えー、僕はおまけなの? と耕輔は呟いた途端、頭に戻っていたアギーに、『嫌われたようね』と更に突き落とす一言ですっかり落ち込んでしまった。


「さて、皆さんに説明する前に私の役目をまずたします」

 そう言って宙に向かい両手をさしあげ手のひらを上に向け真剣な表情で集中する。半目になり、呪文を唱え始めると彼女を取り巻くオーラのごとき魔力の光りが急速に広がっていく、そばにいる五人にそれは立って居られないほどの衝撃を感じさせ直ぐに通り過ぎた。実際には物理的力ではないので衝撃で倒れるような事はなかったが、目眩めまい以上のものを感じていた。


 耕輔たちには何が起こったか分からなかったが、元々この世界の住民たちには何か分かるのか表情がどことなく明るくなったように感じられた。頭の上にいるアギーが明るい声で、

「良かった。ウンウン。これで元通り」

 などと呟いているのが聞こえてきた。


 その本当の意味はわからなかったものの、アギーの声色こわいろに耕輔は幸せな気持ちになっていた。短い時間だったが、からかわれたりもしたが、色々と助けられもした。いまでは強い友情を感じている。友人が喜んでいるとこんなに満足した気持ちになるんだなと思いはしたものの、恥ずかしいので口には出さなかった。


 まわりを見ると、ファーファも表情が明るい。さっきの魔法的衝撃が原因なことはわかったが、何があったか聞こうとしたものの聞き損ねてしまった。春華が上げていた腕を下げて目を開けて深くおだやかな笑顔になり皆に視線をめぐらせたからだ。


「これからお話しする事は、あなた達にはとってもショックな事です。

 そして他の人には決して話してはなりません」

 リリーとウジェーヌの顔を目を見つめつつ顔を巡らせた。

「聞かなくてもあなた達の今後の立場が変わる訳ではありませんし、聞いたからと言って立場が強くなる訳でもありません。むしろ聞いた方を苦しめることになるかもしれません。

 聞きたくないと思う方は、この部屋の外に出てください」


 笑顔ではあるが、目に拒絶を許さない力があった。

「フロスブルスは、あなたはまだ幼いですがここに残って私の話を聞いてください。いずれは私の後を継ぐことになるあなたは、これから話すことをしっかり理解して欲しい」


 困惑し顔を見合わせているリリーとウジェーヌ、対してファーファは目に決心を込めていた。

アギーは、『ここまで来て聞かないなんてありえない』とつぶやいている。


 耕輔と裕司そして玲奈は、春華が自分たちを除外したのは別の世界から来た人間だからだと正しく理解し黙って見ていた。

 春華は笑顔で彼らの様子を見ている。

 ややあって、ウジェーヌが背中を折り曲げ見事な礼をしてその場を離れた。リリーは躊躇ちゅうちょしていたが心を決めたのか、目に迷いの色がなくなっていた。ウジェーヌが部屋を出て行く。


「リリー、貴方は残ったのですね」

 リリーは、背筋をまっすぐ伸ばし緊張の面持おももちで春華と目を合わせないように軽く目を伏せ自分の気持ちを語った。

「私は、フロスブルス様のお付きのメイドです。

 それだけではありません。フロスブルス様が一人前になるまではおそばひかえ、微力ながらもお助けするのが願いです。

 たとえ、お聞きしたお話で悩むことがあったとしてもフロスブルス様の御為おんためならば、それもまた喜びの一つです」

「リリー!ありがとう」

 フロスは涙をにじませ喜びのあまり上気した顔でリリーに抱きついた。

「わかりました。リリー、貴方の気持ちは大変嬉しく思います」


 ドアが自動的に閉まり、また元の様に結界が張られた。

 春華の後についてテーブルに移動し、勧められるままに皆席に着いた。上座に春華、そして右回りにフロス、リリー、耕輔、裕司、ファーファーと着席する。アギーはいつも通り耕輔の頭、玲奈は裕司の背もたれの耕輔の間側に留まっている。皆緊張の面持おももちで春華の顔を見つめている。


 全員の顔をゆっくり見つめた後に春華は静かに独特の響きを持った声で語り始めた。

「あなたたちには名乗っていませんでしたね。

 私は、この世界の魔法のバランスを司っている、ユリア・フォラ・エンプレスと申します。

 そして、いまこの身にはこの世界の創造者の意識も宿しています」

 春華=ユリアは驚くべき話を始めた。


 耕輔達にとっては話の流れから、この世界の創造者の意識とは春華のことを指していたし、それ以外の者にとっては、この世界の創造者という言葉の意味は分かるものの真意を計り兼ねていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る