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 逃げたい。いや、この際、旅行でいい。一週間、半年、一年でもいい。誰も知らないどこか遠い島にでも逃げられたら、どんなに良いだろう。


「はぁ……なんでみんな結婚しちゃうんだよ……」


 あの一生仕事に生きると豪語していた冬美ですら、結婚を決めてしまったくらいだ。もしかしたら、私がそう思わないだけで、結婚とはそれほどまでに良いものなのかも知れない。


 すべてを捨ててでもこの人と一緒になりたい、この人と一生をともに生きたいと思うほどの相手が私にも現れるのだろうか。そんなときが、私にも訪れるのだろうか。


 父と母の時代には、男は外で仕事、女は家庭を守るという古くからの習慣がまだ残っていた。共働き家庭ももちろんありはしたし、妻側の負担が大きかったのも確かだが、核家族化がここまで進んだ今とは、考え方も家族の形態も違う。


 それに比べて今はどうだ。世は育メン流行りで家事育児を得意とする夫もいるにはいるが、その実態は定かではない。また、大半の男は、妻となる相手に対し、同等に稼ぎ同等に生活費の負担を求めてくる上に、家事育児まで女の仕事と思い込んでいるフシがある。そんな負債でしかない夫を抱え、家庭を営む意義がどこにあるというのか。


 弥生さんだって、内情は知らないが、仕事、家事、育児に奔走している。彼女の苦労している姿を見ていたら、理想の王子様なんてこの世にいるわけがないと実感する。もしかしたらそれなりの幸せを感じられるのかも知れないが、少なくとも私は、彼女のような生活は申しわけないが御免被りたい。


 今日、山内さんから旅行に誘われた。あれは、もしかして、そういう意味なのだろうか。


 山内さんは、人柄も良くて面倒見も良い。仕事もできるし、容姿だってなかなかのもの。恋愛、結婚の対象としては、十分に魅力的な相手だ。彼ならば、結婚後は家庭を大事にする良き夫になるかも知れないが、しかしそれは、あくまでも今知っている彼から想像できる範囲のこと。


 男も女も所詮、結婚までは猫を被る。釣った魚に餌をやらないとはよく聞く言葉だ。つまり、実態が判明するのは、結婚後だということ。そんな無謀な賭けをしたくないと思う私は、計算高く狡い大人になってしまったのだろうか。



 そうは言っても、こんな私だって彼氏がいたことが無いわけではない。私を良いと言ってくれる人は何人もいたし、この人ならと思った人もいた。実際に付き合いをした相手ももちろん複数いる。ただ彼らとの関係は皆、多忙故に音信不通になった挙句の自然消滅または相手の浮気、おまえには愛情があるのか、そんなに好きなら仕事と結婚しろと異口同音に罵られての喧嘩別れと、長くは続かず、家族に紹介するまでには至らなかっただけだ。


 もし、母が、今現在、私に彼氏がいるのだとの確信が持てたら、あのお小言からは解放されるが、間違いなくすぐに会わせろ連れて来いと言うだろう。こんな私をもらってくれるかも知れない相手だ。たとえ誰であろうと、泣いて喜び、大騒ぎすること請け合いだ。


 母が大騒ぎするといえばやはり、あの遠い記憶が蘇る。小五の秋、俊輔との恋を母に知られたあの日学校から帰ると、私を待ち構えていた母お手製の特大ケーキと居間に掲げられた『祝!初恋成就』の横断幕。きっと母はすごく嬉しかったのだろう。大人になった今なら、あのときの母の気持ちを理解できなくはない。だが、あんなに恥ずかしい思いは、もう二度と御免だ。


 あの俊輔が彼氏だと言えるのなら、今も一応いることになるのだろう。ただ、あいつと付き合うとはどういうことなのか、そもそも、一度強引にキスをされたきり、甘い言葉も身体的接触も無い今現在の状態が、付き合っていると言えるのだろうかと、疑問に思う。


 確かに、悪い奴ではないのはよくわかっている。どちらかといえば良い奴であることも。稼ぎは知らないが、家事能力は私より上。炊事もまあでき、掃除はプロ級、ブラジャーとパンツを手洗いまでするあいつとの未来を考えることは可能なのだろうか。


「駄目だ……やっぱり勘弁して欲しい……」


 たとえ、おまえは狡い、逃げている、時代に取り残されてると罵られても、やはり私には、たくさん仕事をしてお金を貯めて、離島移住計画でも練る方が、より現実的だ。


「ウッ」


 突然、ドンっと音がして、胸の上に何かが乗ってきた。そろそろと手を出して撫でるとモフモフが気持ち良い。


「みゃー」

「戻ってきてくれたのね。良い子」


 この子がいれば、他に誰もいらない。


 愛しい彼氏を抱き寄せ、顔を齧られながら私は眠りについた。


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