夕陽ヶ丘通り
世間一般では休日と呼ばれている、そんなある日のことだった。
「所長」
「なんだね」
「来ませんね、お客さん」
「うむ。来ないね」
客が来ない。夕陽ヶ丘通りの雑居ビルの二階に居を構える、ここ稲達ヒューマンリサーチ株式会社の事務所内に客はいなかった。いつも通りといって差し支えない光景が広がっていた。
応接用のソファーには姪である芙月がいつものように我が物顔で座り、自分で淹れた緑茶を飲んでいる。稲達はと云えば、パソコンのディスプレイを食い入るように眺めていた。
「話は変わりますけど……所長ってですね、収入あるんですか?」
「あまり変わっていないように思えるなあ」
「夕陽おばさんはびじゅちゅの先生しているのでお給料はあるのでしょうが、今の事務所の状況を考えると、どう見ても所長が夕陽おばさんのヒモをしているとしか思えないんです」
「ヒモヒゲ……?」と呟く芙月へ、稲達は苦笑しつつ答えた。
「私の方も、一応は収入がある。人の信用を取り扱う者として、少ないながらも法人の方とのお付き合いもあるのでね。もちろん、個人の浮気調査やらも行っている。その報酬も頂いているということだ。その中から税金もきちんと支払っている。一国民としての義務を果たしているわけだ。ということは、私はヒモではないということになる。いいかね、理くん」
「ヒモでヒゲではないんですね」
「ヒモでヒゲではないのだよ……いや、ヒゲではあるな。ヒモではないが」
ヒゲではあった為、そこは認めた。
「ということは、所長がいつも見ているパソコンの中には、顧客情報が入っている、ということなんです?」
「その通りだ」
「私てっきり、ユーチューブとかを見てるとばっかり」
「それが業務上必要なことならば見はするが、業務中に個人的に見るということはない」
「こっそり私の個人情報を入れてていいですか?」
「それは何故だね」
「喜ぶかなーって」
えへへ、と芙月は微笑んだ。
はは、と稲達は苦笑した。
「あ、あと従業員を増やそうとは思わないんですか。美少女女子高生探偵とかは話題性が大きいと思います。ここは是非とも増やすべきなのでは」
「今のところは私一人でどうにか回っている。その予定はないよ」
「ちぇっ。所長のけちっ。ドケチヒゲっ」
むすっとしている姪へ、稲達はやはり苦笑をもって応える。賑やかな姪なのである。
「それはそれとして、です。所長って探偵七つ道具とか持ってないんですか?」
「そういうものはないな」
「でもでも、あのカメラって浮気調査とかで使うものじゃないんです?」
芙月が指すのは、部屋の隅の棚のガラス戸の奥に保管してある、ひとつの古いカメラだった。
「あれは……もう、使っていないものだ。なにせ古いタイプのものでね」
「所長の私物なんですか」
「そういうことになる」
「それを仕事に使ってないということは……ま、まさか!? 私用で麗しいJKのあられもない姿を……!?」
「違う。仕事だけではない。私用でも使ったことはないよ、私は」
「へー……所長、カンで言いますけど、これってステロイドカメラってやつですよね」
「微妙に違うな。ポラロイドカメラ、だ」
「あれぇ……? ステロイドは……あぁ、ムキムキの方でしたか……」
「ムキムキの方だね」
「まあいいです。誰だって間違えることだってあります」
「ははは……因みにこれはな、知ってるかもしれないが、写真を撮ったらすぐに現像できる驚きのカメラさ。昨今ではあまり見ない代物だがね」
「スマホがありますもんねー」
立ち上がり、てくてくと芙月はガラス戸を開けると、「お触りオッケーですか?」と聞いた。
「うむ」と稲達が頷くと、おそるおそる、カメラを手に取った。
「これ、今でもシャッター切れます?」
「どうだろう。フィルムはおそらく、入ってるんじゃないか」
「……ヒゲ発見。シャッターチャンスっ」
芙月はカメラを構え、稲達がなにかを言う前にシャッターを切ろうと──「あれ?」けれど切れなかった。
「壊れているようだね」
「壊れてますね……残念」
そっとカメラを棚に戻し、芙月は「そういえば」と話を変えた。
「所長」
「なんだね」
「お腹がすきました」
「お昼は、持ってきてないのか」
「はい。だからどこか食べに行きましょうよ。しばらくはお客さんも来ないでしょうし」
その言葉に違うとはっきり言えないのがまた、つらいところもあるが、稲達本人も空腹ではあったため、「そうだな。そうしようか」と姪の意見に賛成した。
事務所にしっかりと鍵を閉め、吹き抜けるような青空の下、稲達と芙月は街路樹の並ぶ歩道を歩く。天気に対して寒々しい日だったが、スーツの上からはしっかりとトレンチコートを着て、防寒対策はしてあった。
「理くんは、なにか食べたいものはあるかな」
「なんでもいいでーす。所長の食べたいものがきっと私の食べたいものですっ」
「しかし……」
稲達は特に食べたいものはなかった。空腹を満たせるものなら何でもよかったのである、できれば脂っこくないものならば。
「あ、それならイタリアン食べましょうよ、イタリアンっ。パスタにピッツァっ。今はランチタイム中でしょうし、私通りの方で良いお店知ってるんです!」
「それはいい。ならそこにしようか」
「はいっ!」
はしゃぐ姪を微笑ましく思いながら、稲達は真冬の夕陽ヶ丘通りの石畳を踏み歩いていく。
すると、
「あれ、芙月ちゃんじゃんっ」
と、背後から声が聞こえた。
「ぴゃっ!? あ、諏訪さんでし……だったの」
振り返ると、そこにいたのは金髪少女。つい先日にも見た、妙に視線の圧が強かった女子高生だった。
「なーにしてんのっ」
「えっと、お昼御飯食べに行くの。伯父さんと」
「オジさん?」
金髪少女の目が、稲達の方を向く。「どうも。姪がお世話になっているみたいで。理芙月の伯父で、興信所を営んでいる稲達孤道です」と自己紹介を兼ねた挨拶をした。
「こーしんじょ? なんですかそれー」
「探偵ってことだよ」
「探偵さん!? 芙月ちゃんの伯父さんって探偵さんだったの!? すっごーい、かっこいー!」
「でしょう。そうでしょう!」
金髪少女の言葉に、姪は自慢げに頷いている。
「えっと、まずは私も自己紹介を、諏訪玲那と言います。よろしくお願いします」
礼儀正しく、玲那はぺこりとお辞儀をする。稲達も背を曲げ、「よろしく」と会釈を返した。
「それにしても探偵さんかー。いーなー。私もなにか依頼できるようなことが──あ! 殺人事件とかは取り扱ってるんですか?!」
殺人事件。創作の中の探偵は、確かに頻繁に殺人事件に首を突っ込んだり巻き込まれたりして、けれども最後にはきちんと解決している。だが、稲達はそのように解決した経験はなかった。ごく普通の、浮気調査やら信用調査だけである。
「取り扱ったことはないね。そのような事件は警察の方に任せっきりだよ」
「そうなんですかー……同級生の、友達の男の子が殺されちゃって、その解決を依頼しようと思ってたんですが……」
残念そうに諏訪は言うと、「あ、用事があったんだ!」とはっとなった。
「どんな用事なの?」
芙月が聞くと、金髪少女──諏訪は「ん? 墓参りだよ。西霊園の方に行くの」と淡白に答えた。誰の、と聞くことはできず、芙月は「あ、そうなんだ」とだけ。会話はそこで途切れた。
「じゃね、芙月ちゃん。それにヒゲの探偵さん。また会いましょうねー」
と手を振り振り、走り去っていった。
「やはり私の印象はヒゲなのか……」
「あの子が諏訪さんです。可愛い子でしょう?」
「……そうだな。可愛らしいという印象が、よく似合う子に思える」
「……ていゃっ」
稲達は芙月の言葉に同意し、即座に彼女から脇腹に手刀を喰らった。
「すみません。なんかムッとなったので、衝動に任せてしまいました」
そう謝る芙月に、「平気だ。私は強いのだからね」と稲達は笑った。
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