雨の日だった

「────────女子──」


 足もとが悪い。

 ギシギシと喘ぐ木床は心もとなく、そのうち足を踏み抜くかも分からない。床に雑多に転がる椅子やら何かのチラシやら窓ガラスの破片やら、いずれも朽ち果て、寂しげだった。

 俺は前を向いて、建物の中を歩んでいた。

 エントランスらしきところは、割れた窓ガラスの隙間から吹き込んできたのだろう枯れ葉がいくつもいくつも積もっている。入り込んだ泥土が、じゃりじゃりと靴底をこする。


「────のこ──────」


 誰かの手を引いている。

 引いている理由は、……なんだったっけ。近くに答えがありそうだと見回してみても、当然のように何もなかった。打ち捨てられた廃墟の朽ちた内装が死人のように俺たちを囲っているだけだ。引いている手は、少し汗をかいている。緊張だ。俺もこの子も、緊張していた。


「──────とが────」


 バラバラに、割れていた。

 もとは何かの絵画が飾られた額縁だったのだろうが、床に落ちて、散々に割れている。中の絵も、吹き荒ぶ自然の中に還っていこうとしていた。抽象画もかくやとばかりに滲み、ぼやけ、歪んでいた。もとがどんな絵だったのか、まるで分からない。

 

「アン──────────」


 あの二人、大丈夫だろうか。

 未明ヶ丘の森手前の広場にある四阿で待ち合わせしていたのだったが、結果的にあの二人を置いて行くような形で先に出発することになった……まあいい、後で謝ろう。この子の様子が、あまりに鬼気迫っていたことだし。それほど、大事な用件なのだろうから。

 蝶番が壊れて、開きっぱなしの扉を抜けると、かび臭かった。もとは真っ白だったのだろうベッドがそのままだ。足もとは相変わらず不安定で脆く崩れそうで、天井に至っては若干崩れて隙間ができて、太陽の光が差し込んでしまっている。一筋の光が床までの間で広がり、円錐状に光り輝いている。それに……「オーちゃん」なに?


「──────────き」


 呼ばれ、振り返り。

 俺は、たった今しがた手を引いていたその子を見た。 


「──夕────────」 


 いったい、この子は誰なのだろう?


 ────。


 憂鬱な雨が降り注いでいる。

 雲に覆われ、窓の外は薄暗く、部屋の中もまた気が滅入る暗さだった。


「おはよ」


 陽香は既にいた。いつものように椅子に座り、横たわる俺の方へ身体ごと向いている。休日であるからか、舞は起こしに来なかったようだ。


「いやな天気ね」

「まったくな」


 部屋の中を覆う薄暗さの中、陽香がにんまりと笑っている。慈しみすらありそうな笑顔は、恐らく俺が眠っている間も注がれていたのだろう。


「あーあ、濡れちゃったわぁ。ちょっとうちの玄関から出てオーリんちの玄関まで行く間に、よ。はあ、サイアク……」


 愚痴をこぼしながら、陽香は自分のシャツの胸部をつまみ、空気を送り込むようにパタパタと引っ張った。じじつ、彼女のシャツは雨に降られて濡れており、湿って張り付いた白のシャツにより、陽香の胸がいつもより強調されている、ような気がする。あと透けてる。なんか水色が見える。爽やかな色合いだなぁ、と思う。


「どうしたの? そんなに私の方を見つめて」

「いや、なんでも」

「ん? どうしたのよ、言ってみなさいって、ヘンリー」

「分かってて言ってるだろ」

「んふふーっ」


 にまにまとした口元で、からかうように陽香は目を細めた。そして彼女は立ち上がると胸を張り、そのために強調された胸元の水色を、さあ見てみろとばかりに手を添える。


「私の胸だってねー、シズカには負けてないんだからねっ」


 見てみろという態度を相手がとるのならば、こちらも見るのが礼儀だろう。張られた胸部の膨らみを、真正面から直視する。爽やかな水色だなあ、ってなった。


「どーお?」


 二つの膨らみは確かに大きい。言われてみればそうかもしれない。陽香の言う通り、大きさだけなら、尾瀬に並ぶ。とはいえ尾瀬の胸部をまじまじと見たことはない。視界にちらついたときの印象と照らし合わせたうえでの判断となる。

 

「いつにもまして真剣な表情……私じゃなかったらヒかれてるわ」


 もっともだと思った。

 これは嬉しい状況なのかもしれない、と他人事のように思う。幼馴染に胸を見てみろと言われ、言われた通りに見ている今の状況は、人によっては嬉しいことなのだろう。

 なのに、俺はそう思えなかった。

 陽香の胸部をじっくりと見ていると、なぜだか胸がちりちりと焼け付くように痛み、嘔吐感すら覚えた。本人にはとてもじゃないが言えない。自分でも理由の分からないこの、大きすぎる不快感。言えるわけがない。後頭部が痛い。古傷が、また。


「……確かにな。比肩するかも」

「でしょでしょ。オーリがシズカの胸を好ましく思っていることなんて分かってた。だから私はシズカに負けじとバストアップに励んだということっ。さあオーリ、私の健気な努力を誉めて」 

「頑張ったんだな」

「ふふふー。うん、頑張った。私、あなたの為にすごく頑張ってるんだからね」


 実に嬉しそうな笑顔を浮かべ、陽香はそう言った。



 階下に降りると、舞がテレビを見ていた。

 真剣な表情で、なのにぽかんと口だけは開いている。「おはよう」と言うも無視された。よほどテレビ画面に集中しているようだ。一体何を見ているのだろうか、と視線の先を辿り、テレビ画面を見ると、そこには、

 

『朝陽ヶ丘西霊園内で変死体発見。他殺か。』


「……」


 映像は雨に打たれる西霊園内を映しており、多くの警察官が濡れ鼠になりつつ行ったり来たりしている光景が映し出されている。俺たちが昨日、ちょうど行ったところだ。訪れた場所だ。帰りに幽霊を見た、途中で陽香と夕陽に遭遇した、園田桜子の墓参りをした──尾瀬といっしょに。


 ちょうど目の前の画面で、発見された変死体となった人間の名であると表示されている──『尾瀬静香』と、だ。

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