稲達ヒューマンリサーチ(株)

「殺されてしまった男の子は、私のクラスメイトだったんです」


 事務所内のソファー(お客様用)に深々と埋まる芙月が、そう切り出した。


「前もちらっと言っていたね、その子とは仲が良かったのかな?」

「話したことは、たぶんあんまりないと思います」


 芙月は首を横に振り、手元のお茶をひとくち飲んだ。


「そもそも私学校に仲の良い子いませんし」


 そんな姪の悲しい発言に、稲達は反応に困り、頬をかいた。


「仲良さそうに話す子は何人かいるでしょう? ご飯もその子たちといっしょに食べてるのをよく見かけるわよ」


 夕陽が、芙月へ言う。芙月の通う高校で教員をしている夕陽は、さすがに夫の姪を色々と気にかけてはいるようだ。

 

「ちっ、バレましたか。所長の同情を引いて色々と要望を聞いてもらおうと思ったのに」

「ふふ、理さん? あなたの言動には詰めの甘さが見られるわ」

「ちぇっ」


 可愛らしい顔をワルな感じに歪める姪と、妻の教師然とした返答。稲達はあまり触れないでおこうと思った。そこに言及してしまうとヤブヘビになりそうだ。

 

「きみも、その男子生徒について知っているのか?」

「知ってる。美術の授業でその子のクラスの授業を担当したこともあるから。真面目な子よ。霜月先生があの子の担任だけど、評価は高かった。転入生の案内も受けてくれたりしたらしいし」

「ほう。……霜月先生はそのほかに何かを言っていたか?」

「いいえ。なにも。とても無念だ、とは言っていたけど」

「……そうか」

「あと、君の旦那さんは年下趣味なのか、とも聞かれたわ」

「なんだね、その質問は」 


 君の旦那さん、と夕陽に言うことは、つまりは稲達自身を指していることになる。年下趣味なのか、というのはちょっと質問の意図が分からなかった。妻である夕陽は同い年だ。


「それについては私から言いましょう」


 ふふん、と何故か得意げに、芙月は手を挙げた。


「それでは理さん」


 夕陽が指名した。挙手制らしい。


「はい……なんと、私が何処ぞの事務所の中年男性のところへ頻繁に出入りしてあれやこれやしているという根も葉もない噂が流されてしまいまして……。なんとかリサーチの稲なんとかとかいう中年男性が、その相手として挙げられているんです。あ、具体的な相手について知ってるのは霜月先生だけですよ、たぶん」


 よよよ、と芙月が崩れ落ちる。ええ……、となんとかリサーチの稲なんとかは戸惑った。初耳だった。

 

「あなた……」


 責めるような妻の言葉に、「事実無根だ」と稲達は答える。言い訳ではない。事実無根であるという事実を述べただけだ。実際、なにもない。そういうことは一切ない。全くない。これからもない。断言できる。


「私の方から直接、霜月先生に言ったほうがいいかもしれないな。そんな事実はない、と」

「そうね……でも、その必要はないと思うわ」


 さっきの語調はどこへやら、夕陽の声色には柔らかな微笑が含まれていた。


「霜月先生、笑っていらっしゃったから。稲達くんは姪御さんにとても好かれているようだな、って」

「それで済む話なのか」

「大丈夫なんじゃない?」


 適当な妻の返事に、稲達は「ええ……」となった。それで大丈夫なのだろうかと真っ当な心配を抱いたのだ。


「第一、そんな噂を流されたら理くん、君に悪影響が出るだろう?」


 中年男性とのあれやこれや。直接的な表現を用いてしまえば売春の噂を立てられているのである。姪の学校生活がより心配になった。この子はきちんと学校生活を送れているのだろうか、と稲達は伯父なりの不安を抱いたのである。


「心配は要りませんよ」


 ほんとに平然とした様子で芙月は言うと、「あ」となにかを考える仕草をした。


「やっぱり要ります。心配要ります。傷ついてます私。めっちゃ傷ついてます。何処ぞの誰かの流した噂のせいで、わりと白い目やイヤらしい目で見られてるんです。思春期真っ盛りの高校生男子にとって、その手の話題はやはり彼らの際限のない性欲を刺激してしまうのでしょうかね……怖い、私怖いです、所長……」


 両手を組み、上目遣いに涙目で、芙月は稲達に主張する。稲達が何かを言う前に、芙月の肩にぽんと手が置かれた。夕陽の手だった。


「実はね、芙月ちゃん。私なりに、その噂の出どころを調べてみたの」

「えっ。そ、そうなんですか」


 芙月の身体がギクリ、となったように見えた。


「噂を知っている子たちに、それをいったい誰から聞いたの、と順々に聞いていったのよね。そうすればほら、それを言い始めた最初の人間に最終的には辿り着くでしょう? 私もあなたの為を思って、そんな噂を流した子を諭そうと思ったの」

「へ、へえ……さすがは久之木先生ですね、ありがとうございます」

「みんな、素直に答えてくれたわ。根は良い子たちなのね。それで順々に、噂を遡っていったのよ。するとね、おかしなことに……みぃんな、芙月ちゃんが自分で言っていた、と言うのね。街中にある寂れた事務所によく行くの、って意味ありげな笑みを浮かべて言っていたんだ、って。霜月先生はその段階で気付いていたみたいなんだけれどね」

「ほ、ほほう……」

「ねえ、芙月ちゃん? ううん。何処ぞの誰かちゃん? そういうことをしてはダメだって、先生は思うわ」


 じぃっと芙月の目を見つめ、夕陽はそう言った。諭すような口調だが、有無を言わせぬ凄みがあった。稲達は黙ってことの成り行きを見守ろうと早々に決めた。


「私の外堀埋め作戦が、こうも易々と……」

「だぁめよぉ?」

「ひぃっ……」


 稲達の方からは、夕陽の後頭部に当たる箇所しか見えない。

 ナニカ恐ろしいものを見たかのような芙月の怯え顔しか見えない。


「この人は私のもの。この人のことに関しては、私はどこまでも大人げなくなるから。芙月ちゃん。分かった?」

「ひゃ、ひゃいっ……私はただの小娘ですっ……」


 話はついたようである。

 ふるふると小動物のように震える芙月に、稲達はいささかの同情をした。ただ、やっていることは割と凶悪なため、どう言うべきかを逡巡していた。もちろん姪に悪気はないのだろうが。


「好きな人への愛情というものはね、自分で制限をかけておかないといけないのよ。どこまでもどこまでも膨れ上がらせてしまったら、その好きな人まで不幸にしてしまうから」


 夕陽の言葉に、芙月はガクガクと赤べこ人形のように首を縦に振っていた。振り返った夕陽は柔和な微笑を浮かべ、稲達を見つめている。

 怒っているわけではないのだ、と稲達は知っている。わざと凄んだのだ。

 そして夕陽は稲達の方に歩み寄り、

 

「あなたはどうしてこうも、不条理に好かれてしまうの」


 小さく呟き、くすりと笑う。少女だった時とは違う、鮮やかな紅を塗られた血を啜ったかのように赤い彼女の唇の端が吊り上がった。

 そんな夕陽の婀娜とすら捉えられる笑みを含んだ声を受け、稲達は苦々しげに口を歪め、顔全体で苦笑を形作り、夕陽から顔を逸らすように視線を壁際に置かれた棚の方へそっと向けて、


「さあな」


 と、だけ答えた。

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