『モルスの初恋』
8
未明ヶ丘市にまた朝が訪れた。
いつものように桜花は目覚め、いつものように準備を行う。制服に着替えて、靴をはき、鞄を持って外に出る。同じタイミングで、お隣の道戸穂乃果が家から出てきて挨拶を交わす。冷たい朝の空気を受けながら、そうして学校まで通学した。いつものように。
校舎に入る前に、パトカーが数台止まっているのを見つけた。いつも通りではない。
校舎内に入ると、慌ただしい様子で先生方が警察官と駆けていくのを見た。いつも通りではない。
教室に入れなかった。黄色い、KEEP OUTのテープが貼られていた。
警察官が数人立っていて、やってきた生徒に優しい調子の声で多目的ホールに行くように伝えている。穂乃果と桜花も言われた。
「今日はまず、多目的ホールに行くようにね。そこで先生方から説明があるから」
そう言われたとき、警察官と黄色いテープの隙間から、教室の一部が見えていた。真っ赤な液体が、机や椅子に付着しているのが微かに見えた。いや、それらのことよりも────
いた。
黒い影のシルエットが、楽しそうに踊っていた。
平面なのは変わらない。身体が真っ黒なのも変わらない。
だが、生首だけがついていた。
真っ黒なシルエットの身体に、人間の頭が乗っかっていたのである。茶色いサイドテールに、嬉しそうに口角を吊り上げる。誰かに、似ている。見知った誰かに。そんな黒の影が、顔を得た影が、なめらかに、人のように、楽し気に、愉快そうに、陶然とした様子で、踊っていた。なにか楽しいことがあったのだろう。嬉しい事態が起こったのだろう。
「あー、早く行った方がいい」
立ち尽くす桜花に、警察官が促す。行った行ったと、背中を軽く押す。桜花は「はい」とだけから返事をし、穂乃果とともにその場を去った。
「オーちゃん? なにを見ていたの?」
穂乃果が尋ねる。彼女は桜花の視線の先を見たはずなのに、特になにも変わった様子はない。何も見えていない。飛び散っていた血液も、幸いなことに視界に入らなかったのだろう。
「いや……なんでも」
早足で桜花は廊下を歩く。一刻でも早くあの教室から離れたかった。
早鐘を打つ心臓をできるかぎり気にかけないようにしながら。今見てしまったものについて、可能な限り思考のなかに入れないようにしつつ。
多目的ホールには一年C組のクラスメイトが何人か既にいた。
「あ、穂乃果ちゃんに、桜花くん。おはよう……」
真っ先に桜花と穂乃果に気付き、消え入るような声で挨拶してきたのは小瀬静葉である。
「おはよう」
段々になっている席の自由なところに座るようなので、桜花と穂乃果はとりあえず小瀬の隣に並んで腰を下ろす。彼女はどこかおどおどと、不安そうに切り出した。
「見た? 教室のところの」
「見たよ」
「なんだろうね、なにが起こったんだろうね、怖いね」
両の手をしきりに合わせながら、小瀬は言う。彼女は怯えている。疑問を抱きながら、なにが起きたのかを漠然と了解しつつある。
「分からない。或鐘先生が話してくれるらしいけど……とりあえずは待つしかないな」
「うん……」
続々とクラスメイトが入ってくる。
クラスメイトが殆ど揃ったところで、或鐘先生がやってきた。
「……全員、いるみたいだな」
その言葉に首を傾げる者が数人いた。「あれ、咲良は……」隣で小瀬が口にする。そうだ。確かにそうだ。園田がいない。このホール内に全員いるわけではない。なのに先生は全員いると口にした。数え間違えたのか……いいや。
いつもより疲れた調子の或鐘先生は、そうして口に出した。
みんなが考え、あえて口に出そうとしなかったその、いつも通りではない原因。
「一年C組の教室で、人が死んでいた」
はっ、という音が聞こえた。空気の抜ける音だ。
桜花が音の聞こえた方を見ると、小瀬が口を押え、目を見開いていた。
「まさか、咲良が……!」
或鐘先生が口に出す前にはもう、彼女は気付いてしまったようだ。
死んだのは誰か、を。
「園田咲良、だ」
問題文の正解を言うときのように淡々と、先生は言った。その言い方はあまりに淡白で、薄情だととるものもいるかもしれない。極力、感情を乗せないようにしたのだろう。
「そんな、咲良が……」
これでもかと目を見開いて、小瀬はふるふると怯え切った小動物のように震えている。
「園田、さん……」
穂乃果が小さく、言う。
「図書館で、会ったわね……」
「ああ……」
先日、桜花たちは園田咲良と図書館内で偶然出会った。殺される直前の園田咲良に会った。もし、桜花が一人ならば、園田咲良はなけなしの勇気を振り絞り桜花といっしょに勉強をし、忘れ物を取りに行くことはなく死ぬことはなかったのかもしれない。もし園田咲良が心の底で桜花を想っていなかったら、彼女は道戸穂乃果を忌避することはなく彼らといっしょに勉強をして死ぬことはなかったのかもしれない。全ては仮定だ。今となっては無意味な、過ぎた事実の空想にすぎない。結果、彼女は死んだ。殺されたという事実だけが残った。ほんとのほんとにカワイソウ。
「きみたちにはカウンセリングを受けてもらうことになった。教育委員会の方からスクールカウンセラーが来るとのことでね。一日にいっぺんに、じゃない。日程は僕のほうから各々に知らせる。あと、今日の授業はなし。君たちは今から帰宅をすることになる。他のクラスの生徒たちは半日授業の後に帰宅。期末テストも延期になった。これから親御さんへ迎えに来てもらうように連絡をしなさい。そして帰るときは必ず僕に言うこと。誰も迎えに来れないようなら、僕が車で送る。必ずだ、必ず一人や自分たち生徒だけで帰ろうとは思わないこと。いいな?」
一年C組の生徒は全員、一人を除いて静かに頷く。その一人である園田咲良は、もはや頷けない身体になっている。
涙をぽろぽろとこぼしている小瀬の隣で、桜花は無言で、園田の死を悼んでいた。
悼みはやがて、踊る死の影への恐怖に移り変わっていった。以前よりもずっと人間の挙動をするようになったあの影への、言いようのない不安と不穏と、全身をゆっくり蝕まれていくかのような寒気へと……
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