第2話 知恵の妙味なる甘美さ

 二人は空いた十分間を思い思いに過ごした。諫早はコーヒーを二人分入れ、

「新訳・アヴェスター」を読む江の横に置いた。諫早は椅子に座って一息つき、自分も何か新しい知識を入れようかと思いパソコンを立ち上げた。

 ちょうどその時、デスクに置かれていた小型の黒いスピーカーから繰り返し電子音が鳴った。


「二人とも、今日も元気に登庁して素晴らしいことです。」

穏やかなニーベン係長の声だ。まるで敬虔な神父が朝の祈りをささげるかのように、真理を極めたヨーガの達人が道を歩く野良猫に声をかけるときのようにゆったりとした声だった。

「はい。今日も無事登庁いたしました。係長もお元気でしたか。」

「そういえば二週間ぶりですね、二人とも。私も元気にしていましたよ。」

スピーカーから聞こえているとは思えない優しい声にしばし二人は聞き入った。親が子供に昔話を語る時のように穏やかで神聖な声。AIだろうが構わない、この素晴らしい上司の役に立ちこの人の笑顔を守りたい、と強く感じた二人はスピーカーに敬愛の目を向けた。


「さて、今日は二人にお願いしたいことがあって連絡しました。つい先日の話ですが、一人の若い方が青梅市の交番に駆け込んできて、『自分はある宗教団体から命からがら逃げだしてきた、どうか助けてほしい』と訴えたそうです。その方はひどくやせ細っていて血色も悪く、かなりの時間その団体に生活を制限されていたようなのです。その団体は『心鋼大岳会』と言うそうで、多摩地区を中心に活動している団体だそうです。」

 

係長がそこまで言うと江が目を輝かせ、喜々として喋りだした。


「心鋼大岳会、通称大岳会は十年ほど前にできた新興の宗教団体ですね。大岳は多摩百名山の一つ、大岳山の名を借りているようです。心鋼、とは心を強く持つこと、外部世界に頼らず自分の心と向き合い、心の中に確固たる宇宙空間を持つことだそうです。仏教、ジャイナ教に近い教えを持ち、山での過酷な修行を行っていると聞きます。一般の信者もその厳しい教義を守り、肉を一切口にしないのだとか。 しかし私が作成しているデータベースによると、大岳会が成立して政府に認められる特定独立宗教法人になってから一度も悪い噂が出ていませんし、信者の脱退もほとんど見られません。もちろん教義が厳しいのでそれを理由に他の宗教信者と対立することもあるのですが、それだけだと聞きます。さらに教祖は大変な人格者で、教祖様に出会った人はみな信者になるなどと言われていますね。最近出されたプレスリリースによると信者数は順調に増えて現在1000人を超え、webメディア『プレイスタイル』の『今注目すべき宗教百選』にも入っています。」

 

 ここまでを勢い良くしゃべり終えると江は一息ついた。相変わらずの宗教オタクぶりに諫早は少し引き気味だが、ニーベン係長は全く意に介していないようだ。


「さすがは江君。素晴らしい知識です。その大岳会なのですが、一通り調査したところ江君の言う通り悪い話が全く出てこなかったのです。どちらかというと閉鎖的なタイプの宗教ですので、情報がつかみづらいという点もあるのですが…。表面的な捜査ではお手上げですので、お二人により詳しい調査をしていただきたいと思っています。」


 そこの言葉が発されてすぐにスピーカーからパソコンのタイプ音がした。

「今、一通り資料をお送りしましたので、目を通しておいてくださいね。結果はどうあれ、よりよい真実を見つけ出せるよう期待しています。」

スピーカーはピーッという電子音を出して停止した。係長は優しいが、いつも要件だけ言ってすぐにスピーカーを切ってしまう。そのことに二人はどこか寂しさを感じていたが、係長と仕事以外に話すことが思い当たらないのでいつもそれについては黙っていた。


「新興宗教の調査か…。この課にとっては王道の仕事だな。」

江がそう言って今までの仕事の記憶をたどるように天井を向いた。

「それよりも保護された方は大丈夫だったのでしょうか。かなり痩せているといっていましたが…。」


諫早はそう言って不安そうに斜め下を見つめた。人というものにとって宗教や祈りというものは必要だと考えているが、このように傷つく人がいるのは諫早にとって納得しがたいことだった。祈りは人が幸せになるためにあるはずなのに、どうして全員が幸せにならないのだろう。今この世に存在している教えはすべて偽物で、だれもこの世界の一番正しい真理を知らないのではないか…


 そうやって考えにふけっていると、突然諫早の目の前が真っ暗になった。何事かと思って後ろに飛びすさると、その拍子に椅子から転げ落ちてしまった。再び明るくなった視界の中で江がけらけらと笑っている。どうやら江の長い黒髪で視界を遮られたらしい。もう三十三歳だというのに、こういった子供っぽいいたずらをするところが憎たらしい。

「なんなんですか。」

「いや、考え事をしている顔が面白かった。」

と、悪びれもせずいう。自分が嫌われるはずがないと思っている人間の言動だ。幼い頃から周りの大人たちの顔色ばかり気にしていた諫早は少し劣等感のようなものを感じた。


「そんなことしている暇があったら、係長に貰った資料でも読んでくださいよ。」

諫早は不満そうに言う。

「私が持っている知識と同じだった。唯一新しいことと言えば、その保護された元信者の情報くらいだ。」

江はそう言って諫早の目をまっすぐに、でも少し甘えるような目で見つめた。

「ぜひ一緒に資料の続きを見てくれ。」

資料はそれぞれのパソコンに同じものが送られてきているから一緒に見る必要などないのだが、どうせ最近デートに誘った子に振られたとかで寂しいだけだろう。好みにぴったりの細身の美人だと言っていた。おそらく私の登庁が遅れたのにも不満を持っているに違いない。本当にこういう子供っぽいところがあるから困る。私はあなたの親でも恋人でもないと言ってしまおうか。

「いいですよ。仕方ないですね。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る