第14話
*☆*☆*
「本当に、こっちなの?」
ルーヴィルに続いて地下街に踏み込んでから、さほど時間は過ぎていない。
ここは街外れの娼婦館と、城壁に挟まれた畜人たちの居住区だ。
はみ出し者、流れ者。
あらゆる意味で、クズの烙印を押された者たちが集ってくる場所だ。
崩れそうな日干煉瓦を積み上げた、あばら家が立ち並ぶ区域。
家畜以下のものを警護する必要はないと、アルラントの兵隊も近寄らない。
バラックとバラックの間に造られた地下への階段は、見過ごしてしまうほど狭かった。
無数に枝をのばす迷路の地下街は、暴力が正義の無法地帯だ。
ねっとりとわだかまった空気に吐き気をこらえ、カリはルーヴィルの後を行く。
何本かの通路が重なるあたりには井戸があり、筋肉質の傭兵が見張りをしていた。
岩肌からにじみ出し滴り落ちる水滴を、水瓶で受けている。
地上でも、ここでも、水は貴重品だ。
ちょっとでも不振なそぶりをすれば、ただではすまない。
腐りかけた空気に我慢できず、走り出しそうになるカリ。
慎重に足を運ぶルーヴィルにとって、冷や汗ものだ。
危険この上ない地下の住人と、命がけの狩遊(ゲーム)なんてしたくない。
ルーヴィルの目配せに、カリはやっとのことで思いとどまった。
「まだ先か?」
うんざりした問いを背中に聞いて、ルーヴィルは苦笑をもらした。
街の吹き溜まりで死にかけていた自分を、助けてくれたカリ。
疑うことを知らない、しあわせな奴だと思う。
ルーヴィルの正体を知ったとき、カリはどう変わるのだろう。
暗殺者に向ける憎悪の目に、変わるのだろうか。
その目に向き合って、『ちがう』と言いきれる自信はない。
いまさら言い訳などできる資格もないと、ルーヴィルは思う。
アラハートを出る時、過去も未来も終わったのだから。
自分は、正真正銘の、獣だ。
あの日、山から薬を持って帰った砦に、妹はいなかった。
砦から、消えていたマルカ。
少しでも早く、出来上がった薬を届けようと帰ったルーヴィルは、マルカが乳母もろともにいなくなったのを知らされた。
行き先も理由も、説明できる者はいなかった。が、何かを隠している。
ルーヴィルはあらゆる手段を使い、マルカの行方を迫った。そして、マルカがアルラントへ護送されたと知った。
あらゆる手段。
ぞっと慄く自分に、ルーヴィルは凄まじい嫌悪を感じる。
この手で、自分は。
弾けて血しぶく者たちの顔と悲鳴が、ルーヴィルを苛んでいた。
自らの手で虐待した感触に、その身が張り裂けそうになる。
無抵抗と言ってもいいほど、あの者たちはルーヴィルの拷問に耐えた。
「おれが長老の、ラドゥラ・アインの息子だからか!」
叫びながら、手をゆるめなかったルーヴィル。
『おぞましいっ!』
ルーヴィルは、己の内に修羅が蠢くのを感じた。
自分の存在が、罪業以外のなにものでもないと。 生きて在ることの罪深さを、思い知らされた。もう、後戻りはできない。人通りが絶えた地下通路に出て、もどかしく走り始めたルーヴィルは、やりきれない苦痛に息を乱した。
たとえ息子でも、ラドゥラ・アインは逃亡を許すまい。きっと、手練れの刺客を放ってくるだろう。
捕まれば、その場で自分は殺される。
カリの仲間。王制に反抗する地下組織シークラーの者に正体を知られても、結果は同じだ。どちらに転んでも死ぬしかない自分が、危険極まりない地下街にいるなんて、皮肉すぎて涙も出てこない。が、もし殺されるとしたら、他のだれでもない。カリにとどめを刺してもらいたいと、ルーヴィルは思った。それは、甘やかな感傷ではない。根深く、狂おしいほどの闇の思い。
同じ顔なのに、まったく正反対に育った二人。
カリが愛されて育ったことぐらい、誰にでもわかる。
『あぁ、嫉妬なんだ』
人の血で、手も心も汚れつくした苦痛を、カリに刻みたい。
ひとりでは耐え切れぬ苦しみを、カリの肩にも負わせたい。
自分と同じ、神を怖れる哀れな者の悔恨を、輝くばかりの存在であるカリにも、負わせたいと願っている。抱えきれない重さに負けて、ルーヴィルは立ち止まった。
『おれは、そこまで落ちたのか?』
このままマルカとも会えず、血に飢えた獣として、自分は死ぬのだろうか。ふっと、満天の星を背に、泣き出しそうな少女が浮かぶ。
降りしきる星の群れに乗って、舞い降りたルーヴィルの女神。
たとえどんな危険をおかそうと、もういちど会いたい。
『神よ』
聖祭の夜に、北の岩場で見つけた少女と、もういちど。
砂漠がさえぎる地平線まで、びっしりと輝きつくした星の天蓋。
その重たげな星の海をかきわけ、軽やかに降り来たったルーヴィルの女神。
無限の深さを弓なりに広げた天の海から、地上へとやってきた神の国の住人。
人の血と残虐な思いに染まった自分を、清めてくれる存在だ。
ルーヴィルの差し出した水袋と交換に、本物の金鎖を残して少女は行ってしまった。
『まったくの阿呆だ!』
呆然と見送った自分の馬鹿さかげんに、腹が立つ。なぜ、呼び止めなかったのだろう。
ふたたび走り出したルーヴィルの首筋で、少女の金鎖がせつなくうねる。
これ以上は耐えられぬほど、異臭が凝り固まってきた。
薄明かりのさす角で、ルーヴィルは立ち止まった。
「あした王国軍の兵隊が、地下ぜんぶに手を入れるそうだ。情報屋のギルドで、そう言っていた」
壁に背をつけ、角の向こうの気配をうかがいながらささやくルーヴィルに、カリは息をのんだ。
「ギルドに、忍びこんだな」
返事代わりに肩をすくめるルーヴィルに、カリは同じ仕草でやりかえした。
「明け方には、シークラーも動く。おれは、女神を助けたいんだ」
真剣そのもののルーヴィルに、やれやれとカリは苦笑した。
知り合ってから、そう長くはない。が、これほど生き生きとしたルーヴィルを見るのは初めてだ。
「確かに、ここにいるのか?」
カリの問いに、ルーヴィルはうなづいた。
「たぶん、いるはずだ」
言いながら角からのぞいたルーヴィルの耳元を、絞った閃光がかすめる。
とっさにのけぞった身体の下で、カリが悲鳴をあげた。
「いまのは何なんだっ? おい、ほんとに女神なのか?」
下敷きになって喚いているカリに、ルーヴィルは引きつった笑顔を向けた。
短剣を投げたのではない。
暗殺者の使う暗器とも違う。
しいていえば、魔道師の使う雷撃に似ている。
「こないでっ。ちょっとでも近づいたら、頭がなくなるわよっ!」
言葉は乱暴でも、あの少女の声だ。
こんな場所に迷い込んで、怯えきっているのだろう。
『やっと、見つけたっ』
あふれくる安堵感と見つけた喜びに、ルーヴィルは震えていた。
「金鎖のぶんだけ、水を持ってきた。 おれが、わかるか?」
情けないほど声がかすれている。もし、少女が覚えていなければ、確実に攻撃してくるだろう。さっきの雷撃を受けて命があったら、もうけものだ。
承知の上で、ルーヴィルは通路へ踏み出した。
追い詰められた少女のうめき声が、ルーヴィルの耳朶を打つ。
死期を悟った者が上げる、最後のため息だ。
無防備な胸をねらい、構えていた少女の肩から、ほんの少し力が抜けた。
ふたりが踏み込んだ浅い袋小路に、あの日のままの 少女が立っていた。
「ハイ、元気だった?」
何でもないように装ったルーヴィルの声が、裏返っている。
きつく唇をかんで、少女はうなづいた。
「おれ、ルーヴィル」
「あ、おれは カリ」
警戒してあとじさる様子に、ふたりは思わず足をとめた。
交互にふたりをねらって、少女の会わせた両手が振れた。
カリは両手を頭の上にあげ、壁に背中をつける。決して害意はないと、笑ってみせる。
両手を広げ、ルーヴィルも微笑んだ。
「ここを、出よう」
慄くような息遣いがとぎれ、少女の目が恐怖に見開かれてゆく。
「いっしょに 行こう。 おれを 信じて」
想いのすべてを込め、ルーヴィルは少女を見つめつづけた。
『おれを、信じて』そう、心の中でも叫びながら。
シンとした地下の袋小路に、少女の荒い呼吸音が響く。
いまにも破裂しそうな鼓動まで、聞こえてきそうだ。
じっと見つめ合い黙りこくったまま、どれほどの時間が過ぎたのだろう。やがて、痛々しいまでに歪んだ顔で、少女は笑おうとした。
「あぁ」
つぎの瞬間。ルーヴィルは、全身で少女を受け止めた。
強く抱きしめれば壊れてしまいそうな華奢な身体が、腕の中で震えている。
吐き出すようにむせび泣くほほを、ルーヴィルはそっと胸に押しつけた。
『きっと、守る。何があっても』
しゃくりあげる息がすこしづつ和らいで、少女はルーヴィルを見上げて微笑んだ。
「わたし、レイア 。レイアよ」
すがりつく眼差しをみおろして、ルーヴィルは涙をぬぐってやった。
「行こう」
ルーヴィルの上にしがみついて、レイアはうなづいた。
のぞきこんだレイアの瞳が心を貫くようで、なぜかしら泣きたくなる。
入ってきた時より用心して、ルーヴィルは外をめざした。
身体に染み込むほど、闇は黒々と三人を取り巻いている。 さっきより陰気に思うのは、レイアを見つけた安堵からくるのだろうか。
もどかしいほど時間が過ぎ、やっとルーヴィルたちは地上に出た。
地下街にもぐると、時間と方角の感覚が狂う。
ルーヴィルたちが出てきたのは、煮菜屋ムナトの裏庭にある枯れ井戸だ。
まだ人通りの少ない時間に、ここへ出て来れたのは幸運だった。
緊張が解けて、ルーヴィルは胸をなでおろした。
煮菜屋ムナトの朝は早い。
まだ真夜中とはいえない時間だが、熟睡しているところを起こしたために、ムナトからさんざん小言を食らった。
「あとは勝手にしておくれ」
ひとしきり喚きたててから、ムナトはおおっぴらにあくびした。
店の奥に置いたソファーを指さし、眠たげに身体を揺さぶって、寝室へ消えてゆく。「じゃあ、おれも帰る。ヴァンキーが、心配するから」
いたずらっぽく片眉をあげ、止める間もなくカリも出ていった。
ルーヴィルは暖炉の残り火でスープを温め、堅くなったパンをあぶる。
レイアが夢中で食べるのを見て、心の底からホッとなる。
守るべき者がいる。
その安らかさと喜びで、ルーヴィルは幸せだった。
たとえその思いが、守れなかったマルカに対する、言いわけだったとしても。
己の後悔をまぎらわせる、行為だとしても。
毛布にくるまり、古いソファーで丸くなったレイアは、幼いこどものようだ。
敷物を引き寄せ、ルーヴィルはソファーに背中をつけた。
「ここは安全だから、ゆっくりお休み」
すぐにレイアは、穏やかな寝息をたてた。
こんなに無防備な眠りは、久しぶりなのだろう。
いつしかルーヴィルも、心地よい眠りへ誘われていった。
ふたりが寝静まる頃、ひとつの影が戸口から中をうかがう。
夢に落ちる寸前、ルーヴィルはかすかな人の気配に気がついた。
殺気をもたない気配に、それでも用心して手首の暗器をまさぐり出す。
いつでもレイアを守れる体勢を取ろうと、穏やかな寝息が変わらぬように、そっと身体の位置をずらした。
『だれだ?』
シンと静まった店の隅で、それは動かない。
ルーヴィルの気配に気づいたのかどうか、影は現れたときと同様に、店の外へと忍び出ていった。
『追っ手じゃない? でも』
すべてが静まりかえるのを耳で確認し、ようやくルーヴィルも、心地よいまどろみに身をまかせた。
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