1-3 わたくし結婚いたしますわ~後編~

『でぇと』の翌日、アリツェは机上にまたも山積みにされた書類の束に、深いため息をついた。


 今まさに発展途上の領地なので、決裁書類が多くなるのは理解できる。だが、こうも毎日毎日、よくもまぁこれだけの書類を寄こすものだと、アリツェは感心しつつも呆れた。アリツェはうなだれながらも執務机に座り、優先度の高い書類から目をとおしていく。


 しばらく書類とにらめっこをし、目が疲れてきた頃合いで、ドミニクが紅茶をもって傍にやって来た。気分転換にと、わざわざ淹れてくれたようだ。心づかいがありがたい。アリツェは礼を述べて受け取り、ひとくち口に含んだ。


 すっと鼻に抜ける清涼感に、アリツェは目を見開いてドミニクに視線を遣った。ドミニクは笑いながら、「ミントをブレンドしてみたんだ」と口にする。


 アリツェはなるほどとうなずき、もう一口飲んだ。……確かにこの爽快感が、疲労で重くなった気分を、幾分か和らげてくれた。


 一息ついたところで、アリツェは一枚の書類を手に取り、ドミニクに示した。


「これ、どう思いますか、ドミニク」


 ドミニクは中腰になり、アリツェの手元を覗き込んだ。そのまま、じっくりと文面を読み込んでいる。示した書類は、直近の領政の財務状況をまとめたものだ。


「うーん、微妙だねぇ……。商業面はだいぶ活発になったから、税収は増えている」


 ドミニクは顎に手を当て、唸り声を上げた。


「でも、それ以上に支出がなぁ……」


 ドミニクは頭を振り、書類の赤字で示された数字を指さした。


「お養父様の時代に放置されていたインフラの更新作業、思いのほか量が多かったのが、完全に想定外でしたわ」


 アリツェも指示された赤字に視線をくれ、ため息をついた。


 アリツェが領の実権を奪った頃には、領政は資金不足で完全に行き詰っていた。通行量の多い道や橋など、細やかなメンテナンスの必要なインフラは多いのだが、二年近くの完全放置で、荒れ放題に荒れていた。


 まだ精霊教が禁教化されるまでは、ヤゲルとの交易やらで領政府の資金は十分にあったし、窮乏を訴えるマルツェルからの私邸費増額の要請も、官僚たちはうまくはぐらかしていた。


 だが、禁教化以後、世界再生教の後ろ盾を得たマルツェルの強引な要求に、領政府側も対抗しきれなくなっていたようだ。マルツェルの私的な支出に使われる領政府の資金は一気に増え、それと反比例するかのように、禁教化ですっかり交易が落ち込み、税収は激減していた。


 結果、維持すべき重要インフラの整備すらままならなくなっていた。主要街道すらボコボコで、馬車の通行が困難になっており、一部の橋に至っては、橋脚にひびが入り、通行不能になっていた始末だった。


 それらを早急にどうにかしなければ、商人の往来が滞る。商人が経済を回さねば、領内の復興、発展はどんどん遅れていく。赤字には目をつむってでも、どうにかしなければいけない緊急案件ばかりだった。


 当座を王室や辺境伯家からの借り入れでしのぎはしたものの、いつまでも借金生活はまずい。いずれは立ち行かなくなる。できるだけ早く赤字体質から脱し、好循環を作り出さなければならなかった。


「領民の生活の基盤をしっかり整えないと、未来はないからねぇ。こればっかりは、致し方がないけれど」


 ドミニクもため息交じりにつぶやいた。


「まもなく加わる王国直轄領に回す予算、本当にどういたしましょうか」


 現状の子爵領内ですでにいっぱいいっぱいだった。余剰資金がまったく無く、今領地が増えても、なかなか手を出せない状況だ。だが、加増予定の王国直轄領は、今の子爵領の村々のインフラ整備状況よりも、さらに悪いと聞いていた。こちらも早急に手を打たなければいけないのは間違いない。


「王国直轄領の整備が遅れているのは、完全に王家側の怠慢だよ。父上に進言して、どうにか援助を引き出したほうがいいかな」


 王都から遠く離れた辺境の飛び地ゆえに、予算分配が後回しにされていたのだと、ドミニクは憤っている。そう考えれば、確かに王家の落ち度と言える。ここでうまく王家側から無償の援助を引き出せれば、領の財政にとってどれほどありがたいことか。だが――。


「でもドミニク、あなたおっしゃっていたではないですか。独立して公爵家を立ち上げる以上は、王家からの過剰な資金援助は受けたくないって」


 アリツェは両手をぎゅっとつかみながら、ドミニクの顔を覗き込んだ。


 元王族として王家からの特別待遇を受けることを、ドミニクは良しとしていなかった。臣籍降下する以上は、あくまで他の貴族同様に、一臣下として平等に扱ってほしいと願っていた。アリツェも、そんなドミニクの心意気は理解ができる。


「うーん……、でもなぁ。ボクの安っぽいプライドと、領民の生活の安定を天秤に掛けたら、おのずと答えは決まってくるような気がするんだよねぇ」


 腕を組み、ドミニクは首をひねった。


「それに、さっきも言ったけれど、現状のインフラの整備不足は、王家のせいでもある。資金援助が過剰とは、言えないんじゃないかな?」


 ドミニクはこわばっていた表情を僅かに崩した。


「ドミニクが納得されるのであれば、わたくしからとやかくは言いませんが……。それに、王家の援助が得られるのであれば、わたくしとしても願ったりかなったりですし」


 アリツェはドミニクから贈られたモルダバイトの指輪を撫でつけながら、ドミニクに微笑んだ。


 領主としては、償還の負担のない資金が増えるのは、正直言ってありがたい。ドミニク自身が納得しているのであれば、ぜひともお願いしたい案件だった。


「伝書鳩を飛ばして、父上に進言してみるよ。……ただ、うまくいかなかったからって、ボクを恨まないでくれよ?」


 ドミニクはニヤリと笑った。


「まさかっ! 感謝こそすれ、恨みなどしませんわ!」


 アリツェは目を見開きながら、両手をブンブンと振った。


 ドミニクの提案は、むしろアリツェから是非にとお願いしたいくらいのものだ。うまくいかなかったからといって、どうしてドミニクを恨もうか。


「まぁ、予算に関しては、その方向で進めてみようか」


 ドミニクは苦笑を浮かべつつ、うなずいた。


「はぁ……。それにしても、なかなか足元が定まりませんわね」


 アリツェはこの日何度目かわからないため息をついた。


「仕方がない。統治は地道に、一歩一歩着実に進めていかなければいけないんだ。早急に結果を求めすぎるのも、ダメだと思うよ」


 ドミニクはアリツェの肩を、軽くポンポンっと叩いた。


「頭ではわかっているのです、頭では。ですが、この胸が、早く大司教を探し出したいと訴え、しきりにうずくのです」


 アリツェはくしゃっと髪を掻き毟り、唇を噛んだ。


「気持ちはわかる。気持ちは、よくわかるよアリツェ」


 ドミニクは労わるように口にし、アリツェを背後から抱き締めた。


「でもね、領内の統治をしっかりと安定させないと、第二第三の大司教が現れ、領民の不安な心をついて、また不埒な真似をしでかす可能性も、無きにしも非ずだよ。今はぐっと我慢だ」


 ドミニクはアリツェの耳元に口を寄せ、優しく諭した。


「……はい。ドミニクのおっしゃるとおりです」


 アリツェは小さな声で答え、うなずいた。そのまま、耳元にドミニクの温かい吐息を感じつつ、ほうっと吐息を漏らした。


「わたくしはこの子爵領の領主。まずは何より、民のことを考えなければいけませんわよね」


 アリツェは後ろに立つドミニクに顔を向けた。アリツェの目線に、ドミニクは微笑みを返す。


「そういうこと」


 ドミニクに頭を撫でられながら、アリツェはうっとりと目を閉じた――。







 結婚式――婚礼の儀の開催が目前に迫ってきた。


 グリューンの街は今、多くの王族貴族が来訪しており、物々しい警備がとられている。グリューンでは一度、クリスティーナとアレシュの婚約の儀を開催したこともあり、領兵たちも要人警護については、ある程度経験値があった。だが、今回は正式な王族の婚礼の儀になる。前回の比ではないほどの数の要人が集結していた。


 婚礼の儀が終わるまでは、領政府庁舎内の官僚の執務室の一部も、来客用に開放していた。期間中、領政が一時滞るのは、少々頭の痛いところだった。ただ、婚礼の儀については、基本的に王宮の役人たちが取り仕切るので、その点の準備が不要なのは助かっていた。


 一方、子爵邸では、新郎新婦と関係の深い者たちが滞在をしていた。具体的には、フェルディナントをはじめとしたプリンツ辺境伯家、クリスティーナを筆頭にしたヤゲル王国の外交使節、そして、フェイシアの国王一家だ。


 アリツェは久しぶりの語らいをしようと、フェルディナントを応接室へと誘っていた。


「叔父様、お久しぶりです」


 アリツェは応接室に入るや、来客用ソファーに深々と腰を下ろしているフェルディナントの姿を確認し、スカートの裾をつまみながらちょこんと一礼をした。


「あぁ、アリツェ。こうして直接見えるのは、戦争終結以来かな? 元気にしていたかい?」


 フェルディナントはソファーから立ち上がり、両手を広げながらにこやかに微笑んだ。


「はい! それと、この素敵な衣装、ありがとうございました」


 アリツェも微笑み返し、自らのドレスを誇示するようにくるりとその場で一回転した。スカートの裾がふわりと舞い、同時に、アリツェの長く伸ばしたつやのある金髪も、流れるようにさっと舞った。


「気に入ってくれたようで嬉しいよ。母上も喜んでいるだろうな」


 フェルディナントは何度かうなずきながら、アリツェに優し気な視線を送ってきた。


「この衣装、おばあさまが使っていらしたものなんですの?」


 アリツェは改めて、自分の身につけたドレスに目を遣った。


 祖母が独身時代に身につけていたとなれば、結構な年代物だ。だが、そうは感じさせないほど、このドレスの生地は染み一つなく、手触りも滑らかだった。


「そうさ。父と結婚するまで、正式な場に出る際は、必ずそのドレスを着ていたそうだよ」


 フェルディナントは何かを思い出すかのように、顔をわずかに上向かせ、目を閉じた。


「そうですか……」


 アリツェはぎゅっと胸元を抱き締め、見知らぬ祖母の姿を脳裏に思い描いた。どのような人物だったのだろうか。……このフェルディナントの様子を見れば、きっと優しく素敵な女性だったに違いないと、アリツェは想像する。


「ドミニク様は……、陛下と打ち合わせかな?」


 フェルディナントは目を開くと、あたりをキョロキョロと見まわした。


「ええ、そうですわ。陛下も昨夜、グリューンに到着なさったばかりですの」


 アリツェはうなずいた。


「なら、今が都合がいいかな」


 一転、フェルディナントは表情を硬くし、ぼそりとつぶやいた。


「アリツェ……。悪いが、ユリナ義姉様に会ってはもらえないか?」


 フェルディナントは真剣な眼差しをアリツェに向けてきた。


「え? はい、それはもちろん。わたくしとしても、婚礼の儀の前に一度、お母さまとは直接お会いしたいと思っておりましたし」


 フェルディナントの態度の変化に、アリツェは戸惑った。背筋にじわりと嫌な汗が染み出る。


「今、義姉様は、私たちに与えられている客間にいる。……二人きりで話したほうがいいだろう? 行ってきてはくれまいか」


 申し訳なさげに口にするフェルディナントの表情は、少し苦しそうだった。


「……承知、いたしましたわ」


 アリツェは首肯した。


 フェルディナントの態度から、母ユリナとの面会が一筋縄ではいかなそうだと、アリツェは覚悟をした。辺境伯家で静養をしていたはずだが、どうやらまだ、アリツェに良い感情を抱けていないのだろうと、容易に想像がつく。


 これからの直接の対面を思うと、胃が重い。口の中も、何やらからからに乾き始めた。……胸が、ぎゅっと締め付けられる――。

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