一宿の女

垂平 直行

ある男の話

 これまで何の変哲も無い、つまらない人生を送ってきてはいましたがね、こんな私でも一つだけで先生にお話できる、身の毛もよだつ、って言うんですかね。つまり、怪談じみた体験をしたことがあるんですよ。

 それは、私がまだガキの時分、たしか十にもなっていない頃でしたな。食事を終えてしばらくした頃に、家の戸を叩く者がおります。こんな時間に誰だと、父も母も訝しがっておりましたが、そのままにしておくわけにもいきませんで、母が見に行きました。

 すぐに母は戻ってまいりまして、不思議そうな顔をしながら、親戚を名乗る女が来ていると父に告げます。

 父もまた首を傾げつつ玄関に向かいますので、好奇心の強い盛り、私も後ろからこっそりと父の後をつけて覗き見ました。

 玄関にいたのは二十歳くらいの娘で、都の女にしては垢抜けない、野暮ったい雰囲気の女でしたが、目鼻立ちには可愛げがあります。子供だった私にとっては若い綺麗な女というだけで憧れの対象となりました。

 娘は、田舎に帰る旅路の途中で、宿が無くてほとほと困っていたところ、親類である父の家が近くにあったことを思い出してここまで来た。一晩だけでもいいから泊めてくれないか、というようなことを話しておりました。私としては願ったり叶ったりですが、まさか父に対してそのようなことは言えません。

 傍らに控える母は見るからに迷惑そうな顔をしています。連絡なしにいきなり来て部屋を貸せというのだから、当然といえば当然です。父もまた、最初に女へかけた言葉に冷たい響きが伴っていましたから、私は内心、これは追い返されてしまうな、と諦めておりました。

 ところが、父は女の申し出をあっさりと引き受けました。こうなってしまえば、家長に逆らうことなどできない時代ですから、母も従わざるを得ません。

 こうして女は居間に通され、父は母に簡単な食事を用意するように命じました。女はいらないとは言いつつも、食事はとっていないとのことなので、結局母は嫌々ながら台所へと向かいました。

 食事しているさなか、私は女に話しかけたい気持ちでいっぱいでしたが、父と母の視線がそうさせません。母は仕事を増やされたうえ、得体の知れない女を一晩泊めなくてはならなくなったのですから不満なのは当然でしたが、女の申し出を受けた父ですら、女のことをあまりよく思っていない様子で、歓迎していたのは私だけだったのです。

 そのうち夜も遅くなり、私は母に床につくよう命じられました。まだ女とは一言も話しておりませんでしたので、非常に心残りではあったのですが、駄々をこねて叱られるのも馬鹿らしいと思い、しぶしぶながら従いました。

 真夜中、すでに父も母も寝静まった時間です。私は尿意を催して布団を抜け出しました。厠で小便を済まし、部屋に戻ろうかというとき、ふとよこしまな心が芽生えました。

 私は女に貸し与えられた部屋へと向かいました。夜這いをかけようなどという一丁前の下心があったわけではございません。ただ女の寝ている姿を覗きたいという好奇心と、もし女が起きていればこっそりお喋りができるかもしれないという淡い期待が、足を運ばせました。

 女の眠るはずの部屋の前に着くと、私は生唾を一度飲み込んでから、そっと襖に耳をつけました。

 意外なことに、女は起きているようでした。部屋の中からはごそごそと人が動く物音がします。そのほかにも、赤ん坊や子供がする口遊びのような音が聞こえるので、奇妙に思いました。

 私は襖に手をかけ、音を立てぬように慎重に開き、隙間から中を覗きました。

 あのときの光景は今でも忘れられやしません。

 女は着物を脱いでおりました。下はどうか見えませんでしたが、少なくとも上は丸裸で、乳房がむき出しになっていました。

 そんな姿で女が何をしていたと思いますか? ……吸っていたのです。自分の体を。自分の腕や乳房、体を曲げて口が届くところならどこまでも、女は吸っておりました。

 これだけの説明ならエロティックな光景のようにも思えるでしょう。違うのです。恐ろしかったのは自分の身体を吸う女の表情でした。

 言うなれば、鬼の形相、とでも言えばよいのでしょうか。可愛らしげだった顔が醜く歪み、瞳を血走らせながら一心に自分の身体を貪る姿は、鬼女かケダモノの如く感じられました。

 女が口を離した場所からは血が滲んでおりました。そのとき、私は直感しました。この女は自分の血を吸っているのだ、と。自分の血を吸い、飢えを凌いでいるのだ、と。

 途端に、恐怖が私を襲いました。叫びださなかったのが今でも不思議です。きっと、幼いなりにここで声を上げれば目の前の鬼女に食われてしまうと理性が働いたのでしょう。

 ですが、身体を押さえつけることまではできません。震えた拍子に、私は襖を鳴らしてしまいました。

「誰!?」女の恐ろしい目がこちらへと向けられます。私は慌てて駆け出し、自室へと逃げ帰りました。布団に包まり、女が自分を追ってこないかが不安で不安で、そのまま眠ることもできずに朝を迎えました。

 布団を抜け出し、朝食の準備をしていた母に女のことを訊くと、女は早朝のうちに出て行ったとのことで、不思議そうな顔をしていました。父にも特に心当たりはないという様子です。私は女の行動を疑問に思うよりも、とにかく女がいなくなったことに安心し、ほっと胸を撫で下ろしたのでした。

 それ以降、女がどこへ行ったかも知れません。父は女の行方について話しませんし、私の方もついぞ聞き出せませんでしたから。本当に実家へと帰ったかもしれませんし、もしかしたらウチと同じようなことを言って他の家で狂態を演じているのかもしれません。

 以上が私の身に降りかかった奇妙な体験でございます。このようなつまらぬオチではありますが、いくらかでも先生のお話作りの参考にでもなれば良いのですが。

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