第97話 暴走……街が血で……逃げ……

 マリーはその日最後の客を見送って部屋の扉を閉めた。


 月明かりが差し込む部屋の中、乱れたシーツを横目に脱ぎ散らかした下着を拾う。


 そのまま下着を身に着けて、彼女はベッドにダイブした。美しい横顔が枕に埋まった。


 今日は色々なことがあって疲れた。客の質もあまりよくなかった……もう寝よう。


「んー……」


 しかし、湿ったシーツと部屋の匂いが不快で、マリーは溜息を吐いて窓を開けた。


 むせ返るような匂いが薄らいで、かわりに外の喧騒が入ってくる。


「何かあったのかしら……」


 いつもなら空が明るくなってくる時間だ。色町も仕事を終えて眠りにつく頃。


 なのに今日は、夜が明けず町全体がどこか慌ただしい。


 そして、夜空にはまだ真っ赤な月が浮かんでいる。


 遠くの方を見ると、炎が建物を燃やしている。


 火事だ。


 風に乗って、煙の匂いを少しだけ感じる。


 だがそれ以上に、生臭く鉄臭いような匂いが鼻を刺激した。


 火事は遠く、ここまで火が届くことは無さそうだ。


 しかし、いつもとは何かが違う。慌ただしく通りを駆けていく住人たち。なぜそんなに慌てているのだろう。


 たかが、火事なのに。


 窓辺に佇むマリーを赤い月が艶やかに照らした。白い肌に黒の下着がよく映えた。赤紫の髪と瞳は、月明かりの下でも鮮やかだった。


 これほどの美女が下着姿で窓辺に立っていれば、いつもなら足を止める男がいるはずだ。


 なのに今日は誰もいない。


 どこか冷めた目で、彼女は遠くの火事と色町を見下ろす。


 13歳で売られて5年間この町で過ごした。無法都市に来たばかりの住人は誰もが外に戻ることを考える。だけど時間と共にその思いは薄れて、いつしか無法都市に染まっている。


 マリーはまだ諦めていなかった。


 でも、諦めてしまえば楽になるのかもしれない。最近そう思うようになっていた。


 マリーは色町でも有数の娼婦だが一番ではない。女将は彼女が本気になれば頂点を掴めると言っていた。


 きっと、そうやって生きるのも間違いではないのだろう。何もかもすべて忘れて一夜の愛と快楽に溺れてしまえば……。


「はぁ……」


 久しぶりに外のことを考えた。こうして皆この街に染まっていくのだろう。


 マリーは窓を閉じようとした、その瞬間。


「きゃあッ!」


 一匹の獣が窓から部屋に飛び込んできた。


 いや、それは獣ではなく、人型で獣のような身のこなしの――グールだ。


「あ、ぁぁ……」


 マリーは床を這って後退る。


 グールは鋭い牙を剥き出しに嗤って、下着姿のマリーに襲い掛かった。


 涙を流し、マリーは死を覚悟した。


「逃げろ、と……言ったはずだ」


 その声と同時に、グールが空中で細切れになった。


 肉塊が部屋に落ち、血が飛び散る。


「ぁ、あなたは……」


 漆黒の刀を携えた見覚えのある姿を見て、マリーの胸が高鳴った。


 そこにいたのは、漆黒のロングコートを身に纏った男――シャドウだった。


「暴走が始まった……見ろ、街が血で染まる……」


「街が……?」


 マリーはシーツで身体を隠して外を見た。


「そ、そんな……ひどい」


 いつの間にか、通りは血で染まっていた。


 無残な肉塊と、暴れるグールたち。逃げ遅れた娼婦たちが店から出てきて襲われる。


「ぁ、危ないッ……!」


 その中にはマリーの先輩もいて、思わず叫んだ。


 しかし次の瞬間、飛び掛かったグールが細切れにされる。


「暴走が始まった……血の嵐が吹き荒れる……」


 そこにいたのは、漆黒のロングコートの男。


「ぁぇ!?」


 マリーが隣を見ると、そこにはもう誰もいなかった。


「逃げろ、手遅れにならぬうちに……」


「アンタ、まさか……」


 その時、近くで悲鳴が聞こえた。


 マリーがそっちに気を取られたその瞬間、シャドウの姿は消えていた。


「暴走が……血……逃……」


 どこからか声だけが聞こえて、グールの死体が宙に舞う。


 よく見ると、通りの肉塊も血も全部グールのものだった。


 彼の姿は見えないが、飛び散るグールの肉塊が遠ざかっていくのは分かる。


 マリーは下着の上に服を着て、手早く荷物をまとめ二階から飛び降りた。


 マリーの勘は間違っていなかった。やはりシャドウはマリーを助けに来てくれた。


「ありがとう、シャドウさん……」


 そしてマリーはどさくさに紛れて逃げ出すことにした。いつの日か、シャドウに恩を返すことを心に決めて……。

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