第42話 友情と恋愛。
「やあ、皆さん。頑張ってますね。これ、差し入れです」
そう言って買い物袋いっぱいの飲み物を持ってきた柴田先生に、クラス一同から歓声が上がる。
「先生、わかってるー!」
「ありがとうございます」
まだまだ残暑の厳しいこの時期に冷たい飲み物は嬉しい。
例え冷暖房完備のこの百合ケ丘であっても、この人数が閉めきった教室で作業をしていれば、それなりに汗ばむものだ。
私も一本受け取って口をつける。
スポーツドリンクらしく、ほんのり甘くて癖のない味が喉を潤してくれる。
誠やナキとの練習だけではなく、クラスの企画もおろそかにするわけにはいかない。
図書館でまとめたクオリアに関する記事を、私はせっせと模造紙に書き写す。
「東城君、進捗はどうですか?」
「順調です。予定を前倒ししてもいいくらいですので、もう少し展示の仕方に工夫をこらそうかと相談していた所です」
「そうですか。頑張って下さい」
そう言って満足そうに笑うと、先生は立ち去ろうとしたのだが。
「先生、これ分かりづらくないですか?」
佳代さんがそんなことを言って呼び止めた。
「うん? どれどれ……」
佳代さんのまとめた模造紙の内容を吟味しだす先生。
佳代さんはいつものどこか不機嫌そうな顔を引っ込めて、期待に胸をときめかせるような顔をしている。
恋する乙女はかわいいね。
「うん。よくまとまっていると思いますよ。分かり易いですね。ただ――」
「ただ?」
「文字の色分けはもう少し気を付けた方がいいかもしれません。色覚異常という言葉を知っていますか?」
「色覚異常?」
「佳代ちゃん、色の判別に困難がある障害のことだよ」
首をひねった佳代さんに、実梨さんが言った。
色覚異常は、俗に色盲、色弱とも言われる。
これは、ヒトの色覚が先天的あるいは後天的な要因によって、正常色覚とされる範囲にない状態を言う。
色覚異常には様々な型があるけれど、一番多いのは先天赤緑色覚異常と呼ばれるものである。
先天色覚異常の中で最も多く存在し、赤系統や緑系統の色の弁別に困難が生じる人が多いといわれる。
例えば、紅葉と言われて葉の色が緑から赤に変わるものだということを知識として知っていても、それを実感できないのだ。
色の弁別に困難が生じるだけで、視力は正常である。
日本人では男性の4.50%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常(男性の約5%、女性の0.2%)で、日本全体では約290万人が存在する。
「未だ教師の中にも板書で重要な所を赤で書く者がいますが、これは色覚異常の学生にとっては非常に見づらいのです」
先生は続けた。
「黒板は暗い緑でしょう? そこに赤い字を書いてしまうと、判別が困難なのですね。ですから僕は重要な所は黄色のチョークを使うことにしています」
「そっか。赤い色が必ずしも目立つとは限らないんですね」
「はい。加藤さんの模造紙は白ですが、黒い文字列の中に紛れた赤い文字も見分けづらいそうです。白地に黄色も見づらいですから、黄色も使えません。青などはいいかもしれませんね。まだ時間があるのでしたら、直してみるといいでしょう」
「分かりました。ありがとうございます。先生」
佳代さんは嬉しそうに頷いた。
先生が好きだという佳代さんだけど、夢見がちな乙女のミーハーな想いって訳でもなさそうだ。
「……」
一方、そんな二人の様子を複雑そうな顔で見つめる実梨さん。
彼女は佳代さんのようにぐいぐい攻めにいけるタイプではない。
きっと自分が歯がゆいのだろう。
「先生、こっちも見て貰えますか?」
助け舟となったのは幸さんの一言。
彼女は実梨さんと二人で作業していたのだ。
幸さんの声に呼ばれて実梨さんたちの所にもやってきた先生。
実梨さん、固まってるよ。
「どれどれ……。うん。よく出来ています。色分けもこちらは問題ないようですね」
「みのりんが色覚異常なので、配色には気を使いました」
「そうだったのですか」
「は、はい」
日本では色覚異常者への偏見をなくそうという運動の結果、以前は行われていた色覚異常を調べるテストが廃止されることになったという経緯がある。
そのため、教師でも自分の受け持つ学生の誰が色覚異常なのか知らないのだ。
確かに「色覚異常者は色が白黒にしか見えない」とか、「日常生活や仕事に深刻な支障が出る」とか言った言説は偏見に過ぎない。
就学試験や就職試験で色覚異常を理由にふるいにかけるのは差別とさえ言えるだろう。
でも、色覚異常の人が色の判別で苦労する場面は確かに存在するのだ。
例えば東京の駅の案内表示。
難解な乗り換え案内を少しでも分かりやすくしようと努力した結果、カラフルな色分け表示がなされているけれど、色覚異常者にはほとんど意味がない。
判別がつかないのだ。
差別や偏見に繋がることがあってはならないけれど、現実に存在する色覚異常者の困難への理解やフォローはやはり必要だろう。
「普段、僕の板書で見づらかったりすることはありませんか?」
「え? あ、はい。大丈夫です。とっても見やすいです」
「それはよかった。もっと工夫した方がいいとか、気づいたことがあったら言って下さい」
「はい」
こちらも先生と話が出来て嬉しそうだ。
先生と実梨さんはそのまましばらく色覚異常に関して話を続けた。
「ちょっと、幸。余計なことしないでよ」
不満そうなのは佳代さん。
せっかく先生と話すきっかけを作ったのに、横からさらわれた形になってしまったからだ。
「まー、まー。柴田先生はみんなの癒やしなんだから、共有しないと」
「何よそれ。もう」
ぶーたれながらも、佳代さんは先生に指摘された所を直す作業に入った。
真面目なんだよね、佳代さん。
「……ふぅ。ま、私は両方の味方だからね。機会均等、機会均等」
え?
「幸さん、もしかして気づいてるんですか?」
私は藪蛇にならないようにわざとぼかした表現で幸さんに尋ねた。
「あれ? 和泉様、話したらいけないんじゃなかったっけ?」
「あ、そうでした。ごめんなさい」
私が自分の作業に戻ろうとすると、呼び止められた。
「いいじゃん、少しくらい。みのりんが先生を好きなこと? 当然わかってるよ。親友だもん」
夏休みのあの夜、実梨さんの誤魔化しは効かなかったということか。
「私だけじゃないよ。佳代ちゃんだって気づいてる」
「え」
それは……修羅場なんじゃないだろうか。
「和泉様が何を心配してるかは分かるよ。でも大丈夫だから」
心配が顔に現れていたのか、私の気持ちを察した幸さんが苦笑しながら言った。
「私たち、よくギクシャクするけれど、最後はちゃんと元通りになるから。女の友情は儚いってよく言われるけど、それにしては結構固い絆だと自負してる」
そういえば、今年度の始めの実力テストでも、トラブルになりそうな気配だったけれど結局きちんと仲直りしていたっけ。
そう考えるとあの時の私は余計なこと言ったなぁ。
「どっちの恋が実るかは運命のみぞ知るってね。まぁ、私はどっちも実らないに賭けているんだけど」
ひひひ、と人の悪い笑みを浮かべておどける幸さん。
仲良し三人組の中で一番大人なのは、きっと幸さんなのだろう。
あるいは一番現実的というか。
「他人の心配より、自分の心配をした方がいいよ、和泉様」
「? どういうことですか?」
何かあったっけ?
「冬馬様。最近、機嫌が悪いんだよね」
「どうしてですか?」
「和泉様がナキ君や誠君とばっかりいるからに決まってるじゃない」
それは冬馬も納得したはずじゃなかったのか。
「和泉様はまだ冬馬様のことを友達以上恋人未満くらいのつもりで思っているのかもしれないけれど、冬馬様は完全に恋人のつもりだからね。気を付けないと噴火しちゃうよ」
「……」
自分でも把握できていない冬馬への気持ちを、他人からそんな風に指摘されて私は動揺した。
私は冬馬のことをどう思っているのだろう。
好ましい男性だとは思う。
誘拐事件の時の恩もある。
正直……いや、どうだろう。
まだはっきりとは分からない。
私の気持ちがどうあれ、来年度入学してくる主人公のことがある。
冬馬のことは単純ではない。
私は今日三つ目のため息を付いて作業に戻った。
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