第26話 祖母とへたれと立派なレディ。
ゴールデンウィーク以来、約二ヶ月ぶりに私は自宅に帰ってきた。
五月の頃のような押し潰されそうな不安や憂鬱さはない。
かといって嬉しいとかほっとするとかいったような感情も湧かない。
複雑である。
学校と自宅との間は一条家の車で送迎してもらった。
先日の誘拐騒ぎのせいで鉄壁の防御である。
そう言えばあの事件の犯人はまだ捕まっていないらしい。
一条家と東城家という財界の雄が手を出されたとあって、事件は大々的に報じられている。
冬馬や私の名前は伏せられたが、両家の知名度が高すぎるため、知っている者は知っているような公然の秘密であった。
犯人の手がかりはいっこうになく、捜査は行き詰まっているという。
日本の警察の誘拐事件に関する検挙率は九十%を超えるというから、今回の事件がいかに異常かお分かり頂けるだろう。
事件後、百合ケ丘は安全対策について保護者からの集中砲火にあった。
今度は自分の子が標的になるのでは、とみな気が気でないようだった。
当事者である一条家と東城家が仲裁に入ったことで、ようやく収集のめどが立ちつつあるが、今もなお不安の声は根強い。
学園も安全対策の改善を打ち出して、保護者の説得にあたっている。
冬馬が予想したとおり、一年時の遠足は来年度から無くなるらしい。
修学旅行はさすがに無くならないようだが、安全面の見直しは避けられないようで、これまで通例だった海外は治安的に問題有りとみなされ候補地から外れるとか。
他にも細々とした所で、事件の余波が学園全体に及んでいる。
そんな事情があるので、冬馬たちと(なし崩しに)約束した遠出も、祖父の許可が出るかどうか分からなかった。
佐脇さんは、私に対する祖父の姿勢について色々語ってくれたけど、それも佐脇さんの思い込みや願望が含まれていないとも限らない。
ともかく、会って話してみるしか無い。
強い日差しにさらされた我が屋敷は、むしろ影を深くして、幽霊屋敷の様相を増している。
たらり、と汗がひと雫頬を伝った。
冷房の効いた車内とは違って、外はやはり暑い。
門を潜って玄関の扉を開けると、佐脇さんと一緒に祖父母が出迎えてくれた。
二人に出迎えられるなど、初めてのことだった。
「帰ったか」
「おかえりなさい、和泉」
「ただいま帰りました、お祖父様、お祖母様」
言葉を発したのは祖父と祖母で、佐脇さんは荷物の運び入れの指示に向かった。
私は簡潔に挨拶をすると言葉に詰まってしまった。
それほどまでに、この二人とは距離があるのだ。
ある意味、他人よりも遠いところにいたのだから、仕方がないと思う。
「……」
「源一郎さん」
「うむ」
「?」
靴を脱いでいる間も背中に二人の視線を感じていたが、祖母が何やら祖父を急かしている。
「和泉」
「はい」
「話がある」
「何でしょう?」
「食事の時に話す」
「分かりました」
「……」
「?」
「下がれ」
「はい」
「もう……。源一郎さんったら……」
二人を残して自室へと向かう。
祖父は祖母に何ごとか言われていたようだが、小さな声だったので聞き取れなかった。
自室には部屋に戻すべき荷物が運び込まれていた。
荷解きをする前にシャワーを浴びて着替えたい。
ウォークインクローゼットでめぼしい服を手に取ると、バスルームへと駆け込んだ。
湯の温度は若干ぬるめ。
水にするほどではない。
頭からシャワーを浴びると、胸の奥に溜まっていたもやもやが少し晴れたような気がした。
汗を流せればいいので、簡単に済ます。
髪が長かった頃なら頭は濡らさなかったけれど、今はだいぶ短いので洗ってしまった。
乾かす時間もとても短い。
着替えを済ませて部屋に戻ると、やっと人心地ついた。
ベッドにごろんと横になる。
百合ケ丘の寮のベッドも決して安物ではないが、一条のそれと比べればやはり見劣りすると言わざるをえない。
体重を心地よく受け止めてくれるベッドに、しばし時を忘れる。
夕飯は十九時から。
まだまだ時間はある。
暇な時間はどうするか。
答えは決まっている。
「勉強よね」
◆◇◆◇◆
コンコンコン。
例によってカリカリ勉強に勤しんでいると、部屋の扉をノックされた。
「はい」
「お夕食の用意が整いました。食堂へおいで下さい」
「今行きます」
返事をしてから時計を見やれば、もう19時近かった。
集中して勉強していると、時間が経つのはとても速い。
姿見で身だしなみをチェックしてから食堂へ向かう。
祖父と祖母は既に席についていた。
伯父一家はいないようだ。
外食だろうか。
色々と不思議に思いながらも、おとなしく席につく。
祖父がお誕生日席、祖母と私が対面している配置だ。
給仕から今日はイタリア料理だということを聞く。
フランス料理よりはマナーが楽だとはいえ、気は抜けない。
何しろ祖父の前なのだ。
まずは食前酒、アペリティーヴォ。
私も祖父母もお酒は飲まないので、代わりにアズーラという炭酸水を頂く。
イタリア生まれのミネラルウォーターで、有名なペリエなどよりも炭酸が柔らかくて飲みやすい。
とはいえ、炭酸水は普通のお水よりもげっぷが出やすい。
気をつけなければ。
コースの最初の料理、アンティパスト。
今日はクロダイのカルパッチョだ。
食欲を駆り立てるための塩味と酸味が効いたソースが美味しい。
特に気をつけなくてもクリアできる。
コース一つ目のメイン料理、プリモ・ピアット。
今日はスパゲッティー・アラ・カプレーゼ。
モッツァレラチーズ、トマト、オリーブの風味が心地よい。
スプーンで受けたりはせず、フォークのみで頂く。
あれはあれで合理的だとは思うのだけれど、祖父の前ではフォーマルに徹する。
コース二つ目のメイン料理、セコンド・ピアット。
フランス料理で言うメインがこれ。
今日は神戸牛の炭火焼き。
シンプルな料理だが、本当にいい肉はそれで十分なのだ。
普段あまり意識しないことではあるけど、肉も魚も左から一口分ずつ切っていく。
右から切ると、一度フォークを刺したものに、何度もフォークを刺すことになるからだ。
見苦しいし、肉汁も逃げるので注意。
副菜にあたるコントルノ。
今日は夏野菜のサラダである。
ハウスものではない夏野菜に、さっぱりめのドレッシングが掛けてある。
お箸が恋しくなるが、フォークでちまちま頂く。
最後を締めくくるドルチェ。
今日はすっかり日本でもおなじみになったティラミス。
デザートスプーンで頂く。
食後はエスプレッソを飲む。
最初は熱いのですぐには口を付けないのが安全策。
ふーふー吹いたりすすったりは、フランス料理でもイタリア料理でもアウトである。
最後まで飲み干して、一応おしまい。
今日は祖父に何も注意されなかった。
恐る恐る祖父の方を見ると、目があってしまった。
そらすのも無礼なので、何となく見つめ合う。
「私の言った通りだったでしょう、源一郎さん?」
「うむ……」
「?」
祖母の言っていることの意味が分からない。
「和泉はもう立派なレディだって言ってあげたの」
「……
「もう意地悪おばあちゃんはいいのでしょう? 源一郎さんは言葉が上手じゃないのだから、私に喋らせて下さいよ」
「……」
「……あの?」
二人の様子がこれまでに見たこともないほど和気藹々としていたので、私は戸惑うばかりだ。
「源一郎さんね、嫌われたままは嫌だけど、甘やかすのは和泉のためにならないって言うのよ」
「それはごもっともだと思いますが」
「でもね、和泉はもう、マナーも立ち居振る舞いも一人前のレディでしょう?」
「……どうでしょうか」
「源一郎さん?」
祖母に水を向けられると、祖父は重々しく――。
「……問題なかった」
と呟いた。
それを聞いた祖母は満面の笑みを浮かべ、
「ほらね? 和泉はいつまでも子どもじゃないのだから、もうそれなりの扱いをして上げるべきなのよ」
「はぁ……」
相槌を打ちつつ、その実よく分からない。
「この間の事件の時から、源一郎さんったらもうすっかりへたれちゃって」
「伊代」
「カッコつけてもダメです。和泉に嫌われてる、どうしようって言ってたのは源一郎さんなんですからね」
「……」
厳格な祖父どこいった。
「もういいでしょう、厳格なお祖父様ごっこは。これからはお祖父ちゃんとして甘やかし倒せばいいのよ」
「そうはいかん」
「後悔、しているのでしょう?」
「……」
「ほら、言いたかったことがあるのでしょう?」
「……」
祖父はだいぶ悩んだようだが、やがてこちらに目を向けると、
「許して……くれるか?」
震える声で、そう言った。
「許すだなんて、そんな……」
「ダメか……」
「いえ、そうではなく!」
「……」
「そもそも許すべきことが見当たらないんです。私は何を許せばいいのですか?」
そう言うと、祖父は顔をしかめた。
「和泉は自分が何をされたのかも分からないほど――」
「はいはい。自虐は見苦しいですよ、源一郎さん。和泉もね、はいって頷いておけばいいのよ」
「はぁ……」
「……」
どうでもいいけど、祖母ってこんなおちゃめな人だったのか。
祖父がたじたじだ。
「はい。これでみんな仲直り。いいわね?」
「……うむ……」
「はい」
◆◇◆◇◆
風向きが変わったような気がしたので、思い切って夏休みの件を切り出してみた。
「冬馬君のところか……」
「あら素敵ね」
どうだろう?
「条件がある」
「またそんな言い方をして……」
「うかがいます」
無理難題でなければいいけど。
「学業を疎かにしないこと」
「はい」
これは最初からそのつもりである。
「一条家から護衛をつける」
「それは……ええと……」
SPに囲まれたバカンスというのはちょっとどうだろう。
「源一郎さんは心配なのよ。あんなことがあった後だから」
「無論、余暇の邪魔はさせないように目立たない者たちをつける」
祖父にとっても、それが譲れない線なのだろう。
「分かりました。それで冬馬くんに相談してみます」
そう言うと、祖父は深々と頷いた。
「ねえ、和泉。冬馬君とはその後どうなの?」
「伊代」
「いいじゃない。ねえ、どうなの?」
「どうもしませんが……」
え?
恋バナ?
「そうなの? 彼の方は和泉のこと結構気になっているみたいだけど」
「今まで近くにいた女性が少なかったせいでしょう」
「そんな訳ないわ。冬馬君、モテるもの」
「……それは、まぁ、否定できませんが……」
非常に、やりにくい。
何だろうこの感じ。
「あの子はいいわ。あの子なら和泉を上げても許してあげる」
「いえ、彼にもその内意中の人が――」
「そうなる前につばつけときなさい」
あぁ、そうか。
このぐいぐいくる感じ、いつねさんとか仁乃さんに似ているのだ。
その後も祖母とひとしきり恋バナで盛り上がってしまった。
主に祖母が、だが。
その間ずっと、祖父は気まずそうに沈黙していたことにも言及しておく。
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