第26話 なりぞこない
市内にある闇市の屋台に雄三はいた。目の前には湯気の立つラーメンが置いてある。麺の上に申し訳程度に載ったネギが香る。
「食べないのか? 伸びるぞ」
雄三の隣でお節介を焼くのは、ハンチング帽を被った壮年の男だ。陰気な声音がこの騒がしい環境にそぐわない。
親戚の叔父のように振る舞うこの男に、雄三は戸惑っていた。
「そんなに俺が心配だったんですか。こんな所まで追ってくるなんて」
男はラーメンを上手そうにすする。雄三は食べないと決めていたのに箸を手に取ろうとしていた。
「勘違いするな。撒き餌に獲物がかかったから、確認しに来ただけだ」
男は東京で雄三と将棋を指した軍人だった。
東京で会った時は、将校らしい格好をしていたので最初は誰かわからなかった。今はさっぱりしたポロシャツに、ベージュのズボンを履いている。休日を満喫している一般男性にしか見えない。と、言いたい所だが、鷹のような目つきの鋭さは隠しようがない。他のお客は彼が来るなり退散してしまった。
「お前を伊豆にやったのは海明亭が魔族の協力者だったからだ。我々は全国に諜報員を配置し情報収集に努めている」
身の程をわきまえろという侮蔑に聞こえた。
雄三は知らず知らずのうちに諜報戦に巻き込まれている。雄三が特別なのではなく、職にありつけない者や身よりのない者が利用されているのだろう。軍人の目的が判明したのは良かったが、雄三は既に財団の事情を知りすぎている。言葉を選ぶ必要があった。
「引き続き、女を引き留め情報を引き出せ。以上だ」
男は雄三の肩を叩き、二人分の代金を払って席を立とうとした。
「財団は、日本から離れるらしいですよ」
雄三が情報を小出しにすると、男は興味をそそられたらしい。席に座り直した。
「財団の事も知っているのか。合格だ」
何の合格だ。雄三は不審がりながらも座っていた。一つはメリッサに対する誤解を解こうという腹づもり。二つ目は自分の尊厳を少しでも回復したいという目論見。賭けに負けたとはいえ、小間使いをこれまでさせられたことに不満がたまっていた。
「それでは時期を早める必要があるな。協力してくれ、増田」
「え……!?」
雄三は財団の誤解を解こうとタイミングを計るが、暇がない。それどころか何か厄介な仕事を押しつけられそうである。下心が完全に裏目に出た。
「下田にある財団の艦を乗っ取る」
男は堂々と財団とやり合うと宣言した。雄三にはまるで冗談のようにしか聞こえなかった。
「ちょ、待って下さい。どうしてそうなるんですか。あいつらは未来人みたいなものだって知ってるでしょ!? 武器だって頭だって俺たちとは全然違う。勝てるわけが……」
「それがどうした!」
男は屋台のテーブルを叩いた。それもすさまじい勢いで。男の指に裂傷ができていた。血が滴るのにも関わらず、男は声高に叫ぶ。
「貴様! それでも帝国軍人か! 戦には不退転の覚悟で望み、乾坤一擲、身命をとして敵に万死を与えると心得よ!」
根拠のない精神論が日本を敗戦に追いこんだ一因だったのを、男は知ろうとしない。狂気に満ちた目がその証だ。
雄三はそれを伝えたかったが、あまりに高圧的な態度に当てられ口が利けない。
「軟弱者め。所詮貴様はなりぞこない。プロ棋士にもなれず、軍人にもなれない。帰る場所は果たしてあるのか」
「な、てめえ! それとこれとは関係ねえだろッ!」
過去のかさぶたを無理にはがされた雄三は激高し、男につかみかかる。が、逆に腕をひねられ地面に倒された。椅子が倒れ、屋台の主は悲鳴を上げて逃げ出した。
「おおかた女に情でも移ったのだろう。そいつはこう言わなかったか。日本は戦争から解放される。ふん、そんな事あるものか。奴らの計画では日本はこれから起こる朝鮮戦争に派兵を余儀なくされる。断ればアメリカに日本を引き渡すつもりだ。いずれにしろ、財団の狙いはアジア圏の統一。皮肉なものだ、日本が待ち望んでいた大東亜共栄圏構想を我々が拒まねばならんとは」
男は感傷的になったのか、力を緩め雄三の腕を放した。
「メリッサは……、そんなことしねえ」
「根拠はどこにある。日本が消滅の危機にあるというのに、女に惑わされるとは。いい加減目を覚ませ!」
肩を揺さぶられても雄三がメリッサを信じる心は変わらなかった。おかしいのは自分に都合よくしか考えられない軍人の方なのだ。
「財団の艦を奪えば、沖縄に依然として駐屯するアメリカと樺太のソ連を追い出せる。主権を取り戻せるんだぞ」
アメリカとソ連が財団の勧告を無視し、日本の領土に留まっているのははっきり言って不快だ。雄三にもそれくらいの愛国心はある。
「俺に何をさせようって言うんだ」
「メリッサとかいう女を引き渡せ」
雄三はすぐに断ろうとしたが、何故か言い出せなかった。命令に従う必要はない。話を全て聞いてから断ればいいと自分に言い聞かせた。
「心配するな、念のための保険だ。手荒には扱わない。約束する」
男は急に柔らかな物腰になって雄三を説き始めた。ひょっとしたらこの男は憂国の士で、本気でこの国を守りたいと思っているのではないかと、雄三は錯覚した。
「信じて……、いいんですか」
「ああ。時間がない。今夜、外に連れ出せるか。後はこちらでやる。それから」
男が新聞紙でくるまれた小包らしきものを雄三に託した。すぐに中身がわかった。
「弾は込めてある。使い方はわかるな」
「……、こんなもの必要ない。メリッサは丸腰なんですよ」
「相手は妖夷だ。油断するな。それに日華事変を忘れたか? あれも一発の銃声から始まった」
男は凄みのある笑みを見せると人混みに紛れ、姿を消した。
雄三の手には、無視できない重さだけが残った。
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