第20話 ママ、行ってらっしゃい
「すごく……、よかった」
将棋盤は横倒しになり、駒は星くずのように周囲に散らばっていた。
アンネは畳に仰向けになり、残り火のような疲労を味わっている。髪は汗に濡れ、浴衣の裾がまくれて白桃色のふくらはぎがあらわになっていた。
そのすぐ隣に、目を開けたままの雄三が寝そべっていた。暗い天井を見るともなく見ている。
「こういう仕事をしているとね、どうして戦争はなくならないんだろうって忌々しく思うの。そのくせ、自分も灰になるまで戦いたいって夢想してたりする。罪深いでしょう?」
雄三は自分が夢を見ていると思ってぼんやり聞いていた。美しい少女が自分の手を握り、霞のような言葉を囁いている状況はあまりに絵空事じみている。
雄三が黙っているとアンネの顔が肩にもたれてきた。静かな息づかいと熱気が意識を冴えさせた。
「俺は負けたんだな」
「久しぶりに燃えたわ。相性が良いのね、私たち」
実感を持って敗北の味をかみしめる。アンネは雄三を必要以上に慰めなかった。死力を尽くした相手に気遣いは不要だと判断したのだ。
「雄三、あなたに謝らなければならない事が二つあるわ」
アンネは慎重に話を切り出した。雄三は拾った駒をもてあそびながら聞いていた。
「私たち、財団の人間は別の世界線、つまり未来から来たって言ったわよね。それは未来の将棋を知っているという事なの」
雄三はアンネの強さの秘密を知り、納得した。どうりで差し回しが洗練されているはずだ。アンネの目には雄三の将棋は古いものに映ったに違いない。
「アンネがズルしたなんて思ってないよ。負けたのは俺が悪いんだ」
それを聞いたアンネは安堵したように身を寄せてきた。雄三は勝敗よりも興味のあることを訊ねた。
「未来の将棋はどういう感じなんだ」
「奇異に聞こえるかもしれないけれど、機械が将棋を指すわ」
雄三が思い浮かべたのは、超巨大な工業機械が将棋盤ごと対戦相手を押し踏みつぶす姿だった。
「私が何度やっても勝てないようなソフトがごろごろしてる。悔しいけど未来の将棋では人は王者になれない」
アンネですら手も足も出ない世界が広がっていると聞いても、いまいちピンとこない。自分の身に降りかかってみないと脅威はわからないものだ。
「でも将棋は残ってるんだよな」
「ええ、私たちみたいに燃え盛りたい人たちはいつでもいるのよ」
生き証人であるアンネの言うことは信用できる。雄三はひとまず安心して、別の話題に移る。
「もう一つは?」
「雄三は誤解しているようだけれど、私は一方面の指揮官に過ぎないの。かつては財団の代表だったこともあるけれど、今は大した権限を持っていない」
雄三はアンネの首筋に光る汗を見やった。年端もいかない少女が代表だったり、財団も適当な所があるものだと思っていた。
「そもそも基地建設は財団の方針であって、半ば隠居した私がどうこうできる話じゃないわ。もちろん日本からも立ち退かない」
「そうかー……、えっ!?」
雄三は素早く身を起こした。アンネはその視線を避けるように横を向いた。
「それって俺が勝っても負けても、意味なかったの?」
「そういうことね」
アンネの体を正面に引き戻すと舌を出していた。とんでもない魔性である。
「何で黙ってんだよ……」
「だって、必死に向かってくる雄三が可愛くて言いだせなかったんだもん」
雄三は肩を落とした。七盤勝負を挑んだのはメリッサのためでもあったが、日本国のためであるという意識も少しばかり持っていた。アンネが最高指揮官だとはやとちりしたのが間違いだった。これでアンネが法外な掛け金を求めなかったことも理屈に合う。
「誰か来る」
アンネが逼迫した声を出しつつ、雄三の胴に腕を回した。雄三は体を離そうと焦るが間に合わない。
布団部屋の戸を開けた明が目の当たりにしたのは、散乱した駒と絡み合う二人の男女。
アンネの上気した顔と、雄三の間抜けな顔のコントラストは明の思考を大幅に奪っていた。
「あ……、そろそろ行かないと。子供たちが起きちゃう」
取り繕うように言って部屋を出ようとするアンネを、明は黙って通した。逆に残った雄三には刺々しい視線を向けた。
冷や汗を流しながら雄三が釈明の弁を考えていると、アンネがまた戻ってきた。助けてくれるのかと思いきや、さらなる窮地に雄三を追い込んでくる。
「雄三、約束、覚えているわよね?」
アンネはからかうように念を押した。
注意深く明を伺うようにしてから雄三は首を傾げた。
「何のことか……」
「とぼけても無駄。私が勝ったら……、する約束でしょ」
あくまで雄三の口から言わせるつもりらしい。第三者を立ち会わせ、言い逃れできない状況にするのがアンネの狙いであった。
雄三は唾を飲み込み、無理に笑顔を作った。
「ママ、いってらっしゃい」
この時、雄三は人間として大切な何かをなくしたような気がした。
アンネは感極まったように口元を押さえ、それから親指を立てて雄三の健闘を称えたのだった。
「夕べはお楽しみだったみたいだねえ」
アンネが去った後、腕組みした明が雄三を見下ろす。軽蔑ような目つきに、顔を背けるが無駄だった。この宿に厄介になっている以上、明の方針には逆らえない。
「将棋を指してただけですよ」
「本当にそれだけかね。あんな若い子が一晩中将棋を教わってるなんて信じられないよ」
明はアンネの強さを知らないため、一般論で雄三を追いつめた。
「教わったのはこっちの方です。いやー、世界は広いなあ」
雄三が感嘆していると、突然、明に頬を張られた。
「この変態! な、なんだい! あんな小娘に教わったって。恥ずかしくないのか」
明は興奮して髪をかきむしっている。雄三は訳がわからず、痛む頬を押さえていた。
「アンネはすごいんですよ。想像もつかないような技を俺にかけてくるんです」
「あー、あー、もうそれ以上聞きたくない。メリッサに言いつけてやる」
急に現実に引き戻された雄三は口元を引き締めた。
「メリッサはまだ?」
「あんたが迎えに行って。朝ご飯用意して待っとく」
明はメリッサの居場所に心当たりがあるらしく、迷いなく送り出した。
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