第18話 七番勝負(前編)
「賭け……、ですって?」
アンネは崩していた足を正座にし、警戒したように口を開いた。
「俺は賭け将棋を生業とする真剣師をやっていたんだ」
雄三が詳しい説明をするまでもなく、アンネはその意味を察したようである。口の端を歪めた。
「なんだ、賭博師みたいなものね。まだ若いんだし、無軌道な人生を改めることを勧めるわ」
アンネは母親めいた助言を差し挟んで、雄三を一蹴する。ここで退いては何にもならない。
「俺だっていつまでこのままでいいと思ってるわけじゃないさ。ここでこうしてるのだって将棋に負けたせいだし」
「弱いのね。それなのに私に喧嘩を売るんだ。今謝るなら許してあげなくもないけど」
アンネは雄三を見ようともせず、小さな声でぶつぶつ呟いた。相当お冠らしいが、少女がいじけているようにしか見えず、愛らしかった。
「許しは請わないさ。賭け将棋をしようって言ってるんだ」
アンネは将棋盤をちらっとだけ見た。
「私が将棋を知らないって言ったらどうするつもり?」
「あんたはそうは言わない。たとえ知らなくても、何でも知っている母親の振りをしたいあんたは俺の勝負を断らない。どうだ?」
観念したように膝をすすめ、アンネは盤の前に座った。
「反抗期の息子を躾るのも、母親の務めよね。で、賭けの対象は?」
「下田の基地建設を撤回し、日本から出ていけ」
「ずいぶん大きく出たわね。愛国心でも芽生えた? 一時の感情に振り回されて、やっぱり子供ね」
雄三はアンネの見当はずれの邪推を鼻で笑った。
「そんなもん、知ったこっちゃこえよ。勝手に戦争始めて、勝手に終わりやがって。俺より才能のある兄弟子が何人も戦争に取られた。ふざけんじゃねえって話だ」
雄三が無謀な勝負をふっかけたのは、兄弟子のためでも国のためでもない。メリッサの行動をくだらないと吐き捨てたアンネに対する怒りである。やっと手に入れた絆は、かつてないほど彼を奮い立たせていた。
「私が賭けるのはそれでいいとして、あなたが賭けるものは何? 言っておくけど生半可なものじゃ釣りあわないわよ」
雄三にとってもそれは悩みどころだった。直前までこうなる展開を予想していなかったので、何の用意もない。最悪勝負が流れることも考えられた。
アンネが啓示を得たように手を叩いた。
「じゃあこうしましょう。雄三が負けたら、私をママって呼ぶの」
「は?」
「ママって呼んでくれたら、お膝の上でよしよしって慰めてあげる。これならあなたが負けても辛くないわ」
「俺が負けること前提かよ」
想像しただけで鳥肌が立つ。甘美な誘惑をはねのけ、勝負に集中することにした。
振り駒(歩の駒を振って、裏表の数で先後を決めるやり方)の結果、アンネの先手となった。駒を触る手つきは慣れており、メリッサと違い経験者であることを匂わせた。
「何してるの」
雄三が角のある方の香車を外して始めようとした時、アンネが強ばった声を出した。
「駒落ちでいいだろ」
「何言ってるの? 平手。七番勝負。それ以外は認めないわ」
七番勝負とは、プロのタイトル戦で行われる番勝負の事である。先に四勝した方がタイトル保持者となる。通常数日にわたって行われる長丁場だが、アンネではそこまで体力がもたないだろう。
負けず嫌いとプライドの高さが災いしそのようなことを口走ったのかもしれない。
メリッサを相手にした後だったので、雄三はアンネの実力を甘く見積もっていた。
澄んだ駒音が高らかに響く。
先手、アンネ、7六歩。斜めに大きく伸びる角の通り道を作る自然な一手だ。
後手、雄三、8四歩。直進する飛車先を伸ばす大きな一歩。
迷いなく繰り出されたアンネの次の一手に雄三は釘付けになった。先の一歩をさらに中段まで伸ばす、7五歩だった。
(これは……、石田流か)
将棋の戦法は、大まかに分けて居飛車と振り飛車に分けられる。居飛車は飛車を初期配置のままで使う戦法。振り飛車はその名の通り飛車を横に大きく移動させて使う戦法だ。
アンネの飛車はまだ定位置だが、七筋に振る予定だろう。7五歩はその前準備で、飛、角、桂、を好位置に配置する石田流序盤の駒組みであった。
雄三が驚いたのは、石田流がプロ間でそれほど評価されていないマイナーな戦法だったためだ。が、アマ間なら指されていてもおかしくない。目新しさで手が止まったに過ぎなかった。
余談だが、これより数十年後、とある棋士がこの戦法を名人戦で用い、旋風を巻き起こすのだが今の雄三には関係ない。
石田流は振り飛車の理想形の一つとされる。後手の雄三がそれを嫌えば、序盤で乱戦に持ち込みそれを外すこともできる。
(いいぜ、乗ってやる。来やがれ)
雄三はそれをよしとせず、おとなしく玉を移動させて守りを優先させた。
アンネが7五歩を適当に指した可能性もあったが、予想通り飛車を振ってきた。これで雄三の居飛車、アンネの振り飛車石田流という戦型が確定した。
この戦いは、アンネがいかに駒をさばき、雄三がそれを押さえ込めるかにかかっている。
雄三は序盤の駒組が終わった時点で、戦況を悲観していない。石田流は軽い動きが特徴だが、押さえ込まれると手も足も出なくなるというのがプロ間の常識であった。
雄三の師匠などは、「振り飛車など邪道。女の腐ったような奴がやるような戦法だ」とおおっぴらに見下していた。その影響もあって、雄三も兄弟子たちも振り飛車の使い手はいなかった。
しかし内心、雄三は振り飛車が苦手であった。手数をかけずに玉を守ることができる美濃囲いは終盤戦で大きな武器となるし、攻めをいなすような強烈なカウンターも見逃せない。
居飛車が振り飛車より早く動く場合、玉が薄い分、居飛車が不利ではないか。という考えもプロ間で増えており、雄三もその考えに傾きつつあった。
雄三の対策はいくつかあり、相手の玉の上に向けて歩を進ませ圧迫する。自玉を固め、持久戦に持ち込むなど。
前者はすぐに効果がでなくとも、終盤で威力を発揮する。端攻めを絡めたり、玉のコビン(斜めのライン)を狙った攻めは決まれば強烈だ。難点としては、圧迫するつもりが、相手の飛車や銀に好き勝手に動き回られ、守勢にされる事だ。そうなればこれまでかけた手数が無駄になりかねない。
後者は相手以上に堅い囲い、穴熊を目指す。穴熊は玉を一番端に運び、銀で蓋をする囲いである。最大の特徴は王手がかかりづらいことで、やはり終盤戦で有利。
しかし、アンネの攻撃態勢が整っているので、今から穴熊に囲おうとすると一方的に攻められて攻めるどころではなくなるかもしれない。
どの方針にも一長一短があり、絶対的な正解はない。大事なのは一貫した方針を持つことで、仮に攻めると決めたら断固としてそれをやりとげる覚悟が必要なのだ。
雄三が選んだのは第三の方針。相手の飛車を押さえ込む事だった。
金を前線に送り出し、相手の飛車の進路を阻む。棒金と呼ばれる古くからある石田流対策だ。
アンネはそれでも攻めを敢行した。駒と駒がぶつかり合う中盤戦の入り口にさしかかってすぐの事だった。
数手の応酬の後、雄三の手が止まった。飛車を手持ちにし、模様は悪くないが、アンネの攻めが切れない。受けきりに持ち込みたいが、雄三の守りは元々薄く苦戦を感じた。
(何てしつこさだ……)
アンネを見上げると、顎に手を当て薄く笑みを浮かべているではないか。優勢を確信している顔だった。
通常、飛車、角などの強力な駒を渡すのは不利とされる。それも時と場合による。アンネは大駒を惜しげもなく渡し、その代わりに雄三の守備をそいだ。
このまま守っていても、押し切られる。雄三は相手の弱点である、端を攻め始めた。
一カ所で競り負ければ別の場所で勝負するのも有効な戦術だ。それはつまり不利を認めていることに繋がるのだが、簡単には土俵を割りたくない。
焦りを見切ったかのようにアンネは巧みに端攻めをかわし、雄三を投了に追い込んだ。
「負け……、ました」
将棋は負けた方が対局を終わらせる。雄三はうなだれ、なかなか顔を上げられなかった。敗北による屈辱と、自分に対するふがいなさに耐える時間は何度味わっても慣れることはない。
「あなた、けっこう強いわね。驚いちゃった」
雄三が顔を上げると、アンネは汗を拭っている所だった。疲れたのか、足を崩して布団にもたれている。
「でも油断したでしょ。ここは手抜いていい所ではなかったわ」
アンネは中盤から終盤の局面を盤に並べて再現した。
「一手勝ちできると思ったんだよ」
「思ったんじゃなくて、きちんと読みなさいよ。ほら、どうするつもりだったの?」
雄三は兄弟子との修業時代を思い出していた。夜中までしごかれた時もこんな感じで検討したものだ。
一局目の検討が終わっても、二人は虚脱状態で口を開く所ではなかった。勝ったアンネですらそうなのだから、将棋の過酷さは尋常ではない。
「七番勝負、後悔してないか」
「全然。言ったでしょ、夜型だって。次行くわよ」
先は長い。雄三は勝負の前に水を取りに炊事場に向かった。メリッサはまだ戻ってきていない。勝負が終われば堂々と迎えに行ける気がした。この勝負は一種の禊ぎである。雄三がメリッサを真に認め許しを得るための戦いだ。そのためにはなんとしてもアンネに勝たなければならない。
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