真剣師に涙は似合わない
濱野乱
第1話 その男、真剣師
路地の一画に、蝋燭の明かりがゆらめく。
汗が目にしみるらしく、男は何度も手のひらで目をこすり、盤面をにらんだ。
八十一マスの戦場は方々火の手が上がり、逃げ場はない。竜が飛び交い、金銀に守られた絢爛な城が落ちる様は悪夢としか言いようがない。対局の苦しみとそれを乗り越えた先にある境地は、指しているものにしかわからぬ。一度味わってしまえば、戻れない。将棋の天国と地獄である。
駒の活路を探るうち、諦めがついたのだろう。男はうなだれた。
「……、負けました」
盤を挟んで座る軍服の男は空き缶に入っていた紙幣を掴んで懐に入れた。
「真剣師、増田雄三。討ち取ったり」
軍服の男は嘲るように勝ち名乗りを上げた。
雄三は膝の上で拳を握る。敗者になった以上何も言うことはない。
将棋指しには三通りのタイプがいる。
一つは、狭き門を潜り、古来より受け継がれし名人の器に至る道を探る者。
二つ目は、将棋を遊戯として捉え、日々の慰めとしてこれを楽しむ者。
そして、この男、増田雄三は三つ目タイプに該当する。
真剣師とは、金銭と”命”を賭け、勝負に臨む者である。
「しかし足りん。この埋め合わせはどうするつもりかね」
無論、雄三の腕が不足していることは言うまでもないが、軍服の男の不満は雄三の掛け金の不足にあった。
「勘弁してくだせえ、旦那。これでも再来月の家賃までぶっこんだんすよ」
雄三は、勝負の前は威勢良く啖呵を切って相手を威圧するくせに、負けると平身低頭、地べたをはいつくばっても構わんというある意味ずぶとい気性である。
軍服の男は無言で雄三を蹴るわ蹴るわ。その癖、息を乱さず姿勢を崩さず、まるで機械の如しである。
「払えんなら仕方ない。働き口を紹介しようか」
瀕死の雄三はそれを聞いた瞬間、つばでも吐きそうな顔つきをした。元より怠惰な口で、師匠に破門されたのもそれが原因だ。例え死ぬことになっても肉体労働などするものか。
雄三が渋っていると、金属が擦れ合う音がした。リボルバー式拳銃の劇鉄が上がる音だった。軍服の男は銃口を躊躇なく雄三の額に突きつけた。
「真剣師は命をかけるのだろう?」
「ひ、ひゃい!」
その日の夜のうちに、雄三は切符をもらい列車に乗せられた。
これは魔王統治下の日本において、単独で講和条約を結んだ、ある真剣師の物語である。
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