3.1931夏 王者不在の夏

 29夏・30夏・31春と優勝し、前人未到の夏3連覇、夏春夏の大会3連続優勝が懸かっていた広島商だが、31夏は予選1回戦で山口中に6対8であっさり破れてしまった。灰山他レギュラー陣には選抜主催の毎日新聞より優勝祝いとしてアメリカ旅行を用意されていて、夏予選の際はアメリカ遠征中で試合に出ていないからである。これは27春より実施されており、これにより毎年春優勝校は夏に出場していない(27春優勝した和歌山中のみ、レギュラー外で編成したチームで紀和予選(奈良・和歌山予選)を勝ち抜き夏にも出場している)。広島商の選手たちも3連覇よりも滅多にいけないアメリカ遠征を選び存分に楽しんだ。遊撃手の鶴岡は春の優勝の瞬間を「最後の遊ゴロをとり、保田さん(二塁手)にトスしたとき、これでアメリカへ行けるんだと心の中で叫んだ。」と振り返っている。また、「十五歳の中学生だったから竜宮城へ行った浦島太郎さながら、夢のような遠征だった。」とアメリカ遠征について述べている。鶴岡らはこのアメリカ遠征に備えて、練習の傍ら、英会話とテーブルマナーについての勉強にも励んだとか。アメリカ遠征はハイスクール、ノンプロと計13試合行い、11勝2敗だった。


 絶対王者不在の31夏の大会の予選には前年に比べ93校増と一気に参加校が増加し634校が参加。以後戦前の参加校は600台を推移する。

 そんな31夏の大会には中京商と松山商が出場。明石中は兵庫予選3回戦で、岸本の第一神港商に2対8で再び破れてしまい出場はできなかった。明石中に勝った第一神港商はそのまま兵庫予選を勝ち抜き大会出場を決めた。2年連続アメリカ遠征へ行っていた岸本にとってはこれが初めての夏の甲子園であり最後の夏の甲子園である。

 優勝候補に挙げられたのが春準優勝の中京商、30春から4季連続出場となる松山商、それに第一神港商や広陵中、平安中、小倉工、台湾の嘉義農林などであった。

 この大会は初出場校が多く、中京商や嘉義農林のほか、選抜には何度か出場している八尾中や和歌山中に阻まれ続けた和歌山商など8校が初陣であった。甲子園のアルプススタンドには屋根ができ、大会二日目に外野席の一部にわずかの隙間があっただけで、他は連日満員。無料のアルプス席や外野席に入ろうと思えば、早朝に甲子園に行かねばならないほどであった。


 松山商は初戦でいきなり第一神港商と対戦することとなった。試合は岸本の速球に慣れてきた4回、尾崎晴男(4年生)が中越え三塁打を打ち、中継が乱れている間にホームイン。その後も追加点を挙げ、エース三森秀夫が第一神港商打線を3安打に抑え勝利。30春決勝の雪辱を果たした。岸本の最後の夏は8安打3失点で終わり、第一神港商の黄金時代は幕を閉じた。


 中京商は選抜の準優勝で「中京強し」と全国に名がとどろき、エースの吉田も「選抜の決勝進出が大きな自信となった。あれがわれわれの躍進の土台となった。」と後年振り返っている。その自信もあり、前年9月の新チーム結成から夏の大会前までの通算勝敗は76勝9敗と好調で、地区予選も、全6試合完封。おまけに東海予選決勝の対県岐阜商戦はノーヒットノーランと吉田のコントロールが冴えわたっていた。


 中京商の初戦の相手は早稲田実。3年ぶりの出場だが、第1回大会から定期的に出場している常連校である。試合は4回に吉田が3安打を浴びて3失点。中京商打線は甲子園の異様な雰囲気に委縮して、早稲田実島津の軟投を攻略できないでいたが、7・8回に1点ずつ返し、9回裏。一死満塁と島津を追い詰めて打者は選抜決勝で最後になった後藤龍一。二塁手の恒川が「竜ちゃん頼む。」と叫び、監督の山岡はくちびるを真一文字に結んで必死の構え。島津が投じたストレートを後藤が打ち返し、ボールは左右間を破った。

 この時の心情を後藤は後年「その年の春の選抜、広島商との決勝戦でも同じ場面で私が登場した。2点をリードされた9回の二死満塁で遊ゴロに終わり、ゲームセット。悔しい思いをしました。だから早実戦では春の”悪夢”を思い出すまいと、無心で打席に立った。打った球はストレート。一塁ベースを回ったとき、ヒットだなあと思いました。試合が終わって感激が込み上げてきた。」と振り返っている。逆転サヨナラヒットで中京商は一回戦を勝ち抜いた。


 中京商は続く秋田中戦は19対1と完勝。準々決勝の広陵中戦は3回までリードされたが、4回に追いつき、6回に逆転。準決勝に駒を進めた。準決勝の相手は準々決勝で桐生中を3対0で破った松山商。当時の評では「いずれ劣らぬ鉄壁の守り、長打巨砲を誇るわが球界の双璧、技量まさに伯仲。」優勝候補同士、事実上の決勝戦である。観客は午前七時には内外野グラウンドを埋め尽くした。


 試合は3回裏に中京商が二死一塁から桜井のエンドランで中堅手尾茂田叶(5年生・後にプロ)の悪送球も重なって先制。しかし松山商も5回表に景浦の右翼線安打と古泉達雄(5年生)のバントに悪送球などが絡み同点に追いつく。しかしこの回以外は吉田・三森両投手がよく投げ、緊迫した試合となった。

 しかし回が進むにつれて吉田の調子はしり上がりに良くなるのに対して、三森は疲れが見え始め、得意のカーブに甘さが出てきた。そして7回裏、一死一二塁。中京商吉岡正雄(4年生)が打った遊ゴロを名手高須がトンネルし痛恨の1点。そのまま中京商が逃げ切った。

 当時の評論家、飛田穂洲の試合評によると、松山商の敗因は桐生戦における三森の疲労、そして失点に絡む失策が中京商の1回に対して、松山商は2回あったということであった。

 

 8月21日。31夏の決勝戦は春の選抜に続く決勝進出の中京商と、初出場の台湾代表、嘉義農林の組み合わせとなった。松山商の監督だった近藤兵太郎率いる嘉義農林は当時内地と言われていた日本本土出身者、台湾本島人、高砂族の三種族の選手でチームが作られ、台北一中や台北工などの台北勢を破っての初出場であった。

 とくに高砂族の選手の健脚は評判で内野ゴロはほとんど安打、盗塁は全部成功するとファンの間では言われていて、さらに台湾では裸足で走り回っていたという噂までたっていた。その評判通り、一回戦の神奈川商工戦では5盗塁、二回戦の札幌商戦では20安打8盗塁と大暴れ。一番の平野保郎の足、中堅手蘇正生の強肩、二塁手川原信男の守備、そしてエースで四番の呉明捷の長打力が売りで。特に呉の長打力は大会ナンバーワンと評されるほどで、後に早大に進学した呉は戦前の六大学記録の7本のホームランを打っている。


 しかし試合は中京商が主導権を握った。エース吉田の投球は決勝でも衰えを見せず、嘉義農林打線を6安打完封に抑え、評判の健脚は捕手の桜井が完全に封じて盗塁成功は0であった。打線も連戦の疲れが見え、球威・コントロールともぱっとしない呉に対し、待球作戦にでて8四死球と11安打で計4点を奪った。4対0。初出場同士の決勝戦は中京商が勝利し、初出場初優勝を達成した。


 優勝の夜、選手は梅村校長の計らいで宝塚の見物をした。そして翌日、名古屋へ凱旋。名古屋駅に近づくに連れて選手たちは車中でユニフォームに着替え始める。列車が駅に到着するや監修は駅の構内外を埋め尽くし、旗やのぼりをお仕立て熱狂的に歓迎をした。自動車で広小路通りをパレードし、熱田神宮に優勝報告をして、学校へ戻る頃にはちりぢりばらばらな状態であったという。

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