第4話 裏工作

 俺は三辻さんを連れて、すぐ隣の自室に移動した。

 夜の十一時を過ぎてしまっているが、まだ「おやすみ」というわけにはいかない。明日からのことを話し合わなくてはならない。

「すみません、椅子がなくて。床でいいですか?」

「はい。うちも床ですから大丈夫です」

 ベッドを椅子代わりにする選択肢もあったが、女性を夜中に連れ込んでベッドに座らせるというのは問題ある気がするのでやめておいた。あの色ボケ老人と違って俺に下心などない。これから真面目な話をするのだ。愛を起こしてしまわないよう、こちらに移動しただけだ。

 雑念を振り払い、座蒲団を用意する。

 それから、隣の部屋に置いてあるものと同じちゃぶ台を挟み、向かい合った。

「三辻さん、いや、真里さん。たった今から、俺のことは名字ではなく名前で呼んでください」

「え……あ、はい。でも、どうして急に?」

「あなたの安全のためです。名前で呼び合うようになれば、今回の出来事がきっかけで俺たちが親密になったと金満氏は勘違いするでしょう。そうすれば、あなたには手が出しづらくなります」

「えっと、要は恋仲になった振りをするということですか?」

「そうです」

 真里さんは薄らと頬を染めた。さすがに意識するなという方が無理か。だが、今はこれが最善の策だ。恥ずかしがっている場合ではない。

 それは彼女にもわかっているようで、小さいながらもコクリと頷いてくれた。

「わかりました。しんさん……でいいですか?」

「はい。ついでに敬語を使うのもやめましょう。呼び名だけでは、すぐに気付いてもらえないかもしれませんしね。なるべく自然な演技ができるよう――今から始めよう。いいかな?」

「あ、いえ、自然というなら、わたしは敬語で話した方がいいんじゃないでしょうか? 信さんの方が年上ですよね?」

「俺は二十七だけど、真里さんは……聞いていいのかな?」

 女性に年齢を聞くのは失礼かと思い、ためらいがちになってしまったが、彼女は「二つ下です」と快く答えてくれた。つまり二十五歳だ。学生ならともかく、社会人にとって大した差ではない。

「そのくらいなら俺は気にしないけど」

「わたしが気にします。ちょっと難しいです」

「そっか。無理してボロが出てもまずいしな。じゃあ、俺だけ敬語なしってことでいいかな?」

「はい。たぶん、そっちの方が自然です」

 俺からすると、子育てをしている真里さんの方がずっと大人っぽく感じる。感覚は人それぞれということか。

「じゃあ、それでいこう。機会があれば、ちょっとした小芝居をしてもいいかもしれない。『夕飯は何時にする?』とかいう会話をするとかね。とにかく、金満氏に対して『お前が入り込む余地はない』とアピールするんだ」

「はい」

 真里さんは少しだけ表情を明るくしてくれた。

 と思いきや、またすぐに雲ってしまう。

「でもそれだと、信さんが旦那様に嫌われてしまいますね。

「そうだな。横取りしたみたいな形になるから内心おもしろくはないだろう。でもボディガードの代わりはそうそう見つからないはずだから、その程度でクビにはならないよ。無理矢理クビにすれば秘書や会社の人たちに不審がられるしね。それより、真里さんに簡単な護身術を覚えてもらおうと思うんだけど、どうかな?」

「護身術、ですか?」

 真里さんは難しそうな表情をした。だいたいみんなこういう反応だ。

「護身術は決して難しいものではないよ。注意事項をいくつか覚えておけば、それだけで何もしないより遥かに安全になる」

「そうなんですか。護身術っていうと、つかまれた時はこうやって脱出する、みたいな技を覚えるものだと思ってました」

「そういうのもあるけど、一番大事なのは危険に遭ってからのことより、そもそも危険に遭わないようにすることだよ。真里さんの場合、金満氏とは極力二人きりにならないようにすることだ。それから、どうしても二人になってしまう時は絶対に背中を見せないことかな」

「それは、後ろから襲われないようにですか?」

「そう、こちらが隙を見せないようにすれば、大抵の人間は襲おうとするのをためらう。だから、どんなに不自然でも絶対だ」

 本来なら仕事を辞めて金満氏とは二度と関わらないことが最善の選択だが、現状ではそれができない故に次善策を講じる。

「それから、たとえ昼間でも雰囲気が怪しくなってきたら迷わず逃げること。襲われたらじゃない。少しでも危険を感じたらだ。近くに誰かいそうなら叫んでもいい」

 どちらかというと細身で運動はあまり得意ではなさそうな真里さんだが、それでも七十歳の肥満老人に追い付かれることはあるまい。靴もヒールではなく走るのに支障のないものを履いている。逃げ道さえあれば、まず逃げ切れる。

 これで残る問題は一つ。

「最後に、万が一逃げられない場合の保険として簡単な護身技を覚えておこう」

 真里さんは、また不安そうな顔をした。

「わたしに覚えられるでしょうか?」

「難しくないから安心して。練習しなくても、すぐに使える技だから」

 そう、何年も練習しなければ使えない技では話にならない。敵はこちらが強くなるのを待ってはくれない。体力の劣る女性でも、すぐに使えてこそ護身術だ。

「狙う部位は二ヶ所、耳と股間だ。それ以外は考えなくていい」

「は、はい」

 女性に対し股間などという言葉は使いたくないが、男子最大の急所なのだから仕方がない。

 繰り返しになるが、恥ずかしがっている場合ではない。

 俺は続ける。

「まず、腕が自由に動かせる状態なら、真っ先に耳を引っ張るんだ。それで相手が怯んだらすぐに逃げる」

「耳、ですね」

 言いながら、真里さんは自分の耳を軽く引っ張る。

 そんなに力は入れていないはずだが、少し痛そうに片目を瞑った。耳は非常にデリケートな部位なのだ。

「ただし、中途半端が一番危険だから、やる時は容赦なく思いきり引っ張ること。最悪、ちぎれても死ぬことはない。手術すればつながるし、聴力も戻る」

 こう言っておかないと、実際ちぎれてしまった時に気が動転して動けなくなる恐れがある。冷酷な物言いになってしまったことを許して欲しい。

「次に、両腕が封じられてしまった場合は股間を蹴る。膝でもつま先でもどこでもいい。思い切り蹴り上げるんだ。もちろん、相手が怯んだらすぐに逃げる」

 スポーツの試合ではないので最後まで戦う必要はない。勝つ必要もない。護身術は無事逃げ切ればそれでいいのだ。

「わかりました。思い切りですね!」

 真里さんは胸の前でグッと拳を握り、力強く返事をした。決して黙ってやられるだけではない、戦う覚悟を持った人間の目だ。さすが、母は強しといったところか。

「いざという時すぐに身体を動かせるよう、イメージトレーニングをしておくといい。相手が襲いかかってくるところを想像しながら手足を動かしてみる。それを数回繰り返すだけで、ずいぶん違うはずだよ」

「はい。練習しておきます」

あまり多くのことを一度に教えると混乱してしまうので、レクチャーはここまでにする。

金満氏相手なら、これでほぼ確実に逃げ切れるはずだ。

 最後に念を押す。

「いいか、相手は君のことを憂さ晴らしの道具としか思っていない卑劣漢だ。容赦はいらない。遠慮もいらない。自分の安全を最優先で考えるんだ」



 壁の時計を見ると、夜十一時半を回っていた。

 普段ならもう布団に入っている時間だが、今日はまだ眠れそうもない。さっきの騒ぎのせいで脳が興奮状態だからだ。おそらく真里さんも同じだと思うが、一応確認する。

「真里さん、眠たくない?」

「はい。いつも十時前には眠たくなるんですけど、今日はまだ眠れそうもありません」

「じゃあ、眠たくなるまで話に付き合ってくれるかな?」

「わたしで良ければ」

「少し待ってて」

 俺は立ち上がって、押入れを探りに行く。

 確かこの箱に……あった。

 携帯型の防犯ブザーだ。こんなこともあろうかと持ってきておいた。

「愛ちゃんに護身術はまだ無理だろうから、これを持たせておくといい。尊(たける)のような気の弱い奴にはそれで充分だろう」

「ありがとうございます。このストラップを引き抜くだけでいいんですよね?」

「そう。あとは、とにかく逃げることを教えてやってほしい。じっとうずくまっていては相手がつけ上がる一方だから」

「わかりました」

 広い屋敷とはいえ、大音量の防犯ブザーを鳴らして走り回れば誰かは気付くだろう。もちろん、二度とあんなふざけたことをしないよう尊には再度にらみを効かせておく。これで愛に関しても、ほぼ大丈夫だ。

 俺は真里さんの正面に座り、話を続ける。

「それから、金満氏について知っている限りのことを教えてほしい。まずは何か弱点、あるいは弱味のようなものはないかな?」

「弱味ですか……。ごめんなさい、特には思い当たりません。お酒をたくさん飲まれるので、肝臓が悪いことくらいでしょうか」

 肝臓か。レバーブローが効きそうだが、あまり意味のない情報だ。

「他に、どこか悪いところは?」

「細かく言えば、血糖値とか血圧とかいろいろありますけど、特にこれというのはありません。あの歳であんなに太ってるのに、驚くほど健康なんです」

 金と権力を持っている上、身体も壮健か。つくづく人間とは不平等なものだ。

「じゃあ、趣味とか性癖とか、何か特殊なものはないかな?」

「趣味はお仕事じゃないでしょうか? 家で見かける時はだいたい、電話でお仕事の話をしているか、秘書さんとお話をしているか、パソコンで何か調べています。ゴルフも半分仕事のようなものですよね。それ以外はテレビを見ているか、新聞を読んでいるところしか見かけたことがありません」

「典型的な仕事人間か」

 あの世代は仕事が趣味だなんて特殊でもなんでもない。定時に帰ってもやることがないから無駄に残業したがるくらいだ。一線を退いても、そこは変わらないらしい。

「性癖もわかりませんね。わたしがお仕事で着る服が少々コスプレっぽいと言えなくもないですけど、たぶんそういうのじゃないと思います」

「まあ、そうだろうな」

 あの服は普通に家事をするための服だ。一昔前に流行ったアニメ風の派手なメイド服とは違う。和風建築なのに西洋の仕事着というのが妙なところではあるが。

 つまらない人間というのは存外隙がないものだな。

「あとは美食家ってところでしょうか。わたしを雇ったのも、そのためみたいですし」

 これも金持ちには珍しくない。金があるから高価ものを食べる。それだけのことだ。

 金満氏の好きな食べ物、嫌いな食べ物など聞いても意味はないし、残念だが真里さんから有用な情報は引き出せそうもないな。

 ――それより、真里さんのことが知りたい。ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 ここへ来る前どんな生活をしていたのか。元夫は生きているのか亡くなったのか。再婚は考えているのか。俺のことをどう思っているのか。

 この三日間、まるで家族のように接してくれたこの女性のことを知りたい。そんな想いが突然、胸に膨らんできた。

 当たり障りのない範囲で聞いてみようか。いや、つらい過去を思い出させてしまうだけかもしれない。会って間もない俺が無遠慮に踏み入るのは……。

「信さん?」

 ずいぶん長いこと黙り込んでしまった。

「もしかして、眠たくなってきました?」

 真里さんが心配そうな顔で聞いてきた。

「そうですね。話しているうちに、いつの間にか」

「信さん、敬語に戻ってます」

「ああ、そっか」

 いかん、まるで頭が働いていない。俺の方から話を聞いてほしいと頼んだのに、この体たらく。

 だというのに、真里さんは柔らかい笑みを向けてくれる。

「実は、わたしも眠たくなってきました。明日も仕事がありますし、今日はここまでにしませんか?」

「うん、そうしようか。あ、それと、今日教えた護身術のこと、眠ってる間に忘れるといけないから、朝一番で確認しよう。俺も早く起きるから」

「わたし起きるの朝の五時ですけど、いいんですか?」

「大丈夫。早起きは得意だから。真里さんほどじゃないけど」

 真里さんはクスッと笑い、立ち上がる。

「じゃあ、お願いしますね」

 俺も立ち上がり、まっすぐ向き合った。

「おやすみ、真里さん」

「おやすみなさい、信さん」

 間違ってもすっぽかさないよう、アラームを二つセットしておこう。



「太刀河君、今日の会合は予定通り正午から行う。ただし、場所は例の料亭に変更だ。よろしく頼むぞ」

 翌日、予想通り金満氏は昨晩のことなどなかったかのように接してきた。

 真里さんも同じらしい。顔色も口調も何一つ変化がなく、まるで昨日のことが夢みたいだと言っていた。

 事なかれ主義もここまで徹底できれば芸術の域だ。さすが、魑魅ちみ魍魎もうりょう跋扈ばっこする財界の上層部に名を連ねるだけのことはある。この社会でのし上がるには、都合の悪いことをさらりと流す能力が重要なのだと思い知らされる。

 まあ、そっちがすっとぼけるつもりなら、こっちもそれなりの対応をさせてもらうだけのことだ。

「信さん、いってらっしゃい」

「タッチー、おしごとがんばってね!」

 真里さんと愛の二人が、本当の家族のように見送ってくれる。ただし、愛はともかく真里さんの笑顔は芝居だ。

 金満氏が母屋から出てくるタイミングを見計らって、しっかりと目撃させてやった。これで昨晩、俺と真里さんの仲が一気に進展したと思い込むだろう。

 しかし、秘書も運転手もいるこの場で嫌な顔はできない。

 お前は心の中で歯噛みしながら身の程をわきまえるしかないのだよ。

 無論、俺も表には一切出さない。昨日までと同じように何食わぬ顔で仕事を開始させていただく。俺の二つの仕事、金満氏のボディガードと、この暴動騒ぎを穏便に収めるための裏工作を。

 例の如く、運転手の自家用コンパクトカーに乗り、会合を行う料亭へと向かう。俺がボディガードに就任した初日に行った店だ。少々嫌な思い出はあるものの、あの地区は比較的治安が良いので助かる。

 料亭の大広間には二十人近い業界の重鎮たちが集まっていた。以前のようなお忍びとは違うようだ。

 ボディガードは俺の他に八人。彼らと連携し、料亭の付近と内部の両方を固める。

 俺は大広間周辺の護衛を志願した。理由はもちろん、広間での話を聞くためだ。敵を攻略するには、まず敵のことを知らなければならない。資本主義社会における勝ち組が何を考えているのか。現状にどう対処するつもりなのか。それを知ることが変革の第一歩だ。

 襖越しに、部屋の中の声に耳を傾ける。若干聞き取りづらくはあるが、暴動の対策を話し合おうとしていることはわかった。さすがに金儲けの話を真っ先にするほど能天気ではないらしい。

 だが、話の内容は能天気どころではなかった。

「政府に移民者をもっと増やすよう要請しよう。それで労働者不足を補う」

「では、暴動に参加している者は全員クビか?」

「構わんだろう。あいつらは犯罪者みたいなものだ。ブラックリストを作って、二度とこの業界で働けないようにしてやればいい」

「やり過ぎじゃないか?」

「そう脅せば何割かは正気に戻る」

「なるほど。だが、それでは焼け石に水という感じもしなくはないな」

「そうだ。暴動を何とかする方が先だ」

「いっそ自衛隊に鎮圧してもらうか?」

「そんなことをすれば世界中から非難されるぞ」

「警察にもっと厳しく当たるよう圧力を掛けておけばいい。とにかく、これ以上あいつらを調子付かせてはダメだ」

「各界に、暴動に荷担した者を一斉にクビにするよう要請してもらおうか。そうすれば、失業率が一瞬にして数倍に跳ね上がるから、到底失業保険は下りないと脅せ」

「それで暴動は止まるのか?」

「非正規には大した貯えなどないからな。クビにすればすぐに生活に困るようになる。そうなれば自然と止まるよ」

「我慢比べか。こちらの損害額も無視できないな」

「後で取り返せばいい。こちらが主導権さえ握っていれば、いくらでも搾り取れる」

 こんな話が延々と続いた。

 こいつら正気か? 労働者がなぜ暴動を起こしたかはわかっているはずなのに、労働条件を改めるという最も合理的な意見がなぜ出てこない? 

 脅し? 鎮圧?

 それで暴動が止まったとして、この国に明るい未来はあるのか?

「これ以上、彼らを刺激するのは危険ではありませんか? 労働者たちの代表と交渉の席を設けるべきです」

 ようやく、まともな声が聞こえてきた。と思ったら、次々と反論の声が上がる。

 その中には金満氏の声もあった。

「譲歩すれば連中がつけ上がるだけだ。こちらの優位を崩してはならん」

 仮にも自分の主である人間が、このような発言しかできないのが悔しくてたまらない。

 主があれでは、俺の立場は悪の組織の戦闘員みたいなものではないか。

「えらく熱心に聞き入ってるな。そんなに中の話が気になるか?」

 不意に、近くにいたボディガードが声を話かけてきた。年齢は三十代後半くらい、背が高く筋肉質で短髪の、いかにも武道家といった勇ましい風貌の男だ。

「すみません、仕事に集中します」

 謝ると、男はさりげなく俺の横に並び、小声で返してきた。

「あー、咎めてるわけじゃないから気にするな。それより、もしかして俺と同じ目的で動いてる人間がいるんじゃないかと思って声をかけてみたんだが、どうだい?」

 この男……。

 その気のない者には意味不明な質問だが、俺にはわかった。

「もしかして、あなたもボディガードの立場から?」

 他の人間に聞かれてもわからないよう、最低限の言葉だけを返す。

 すると、案の定。

「嬉しいねえ、こんなところで同志に会えるとは。俺は柔術家の鬼嶋きじまってんだ。よろしくな」

「太刀河と言います。こちらこそよろしく」

 俺たちは目立たぬよう、小さくあいさつを交わした。

 間違いない。この男もまた、ボディガードという立場を利用して暴動騒ぎを収めようとしている武道家だ。向こうから声をかけてくれるとは運がいい。

 鬼嶋が少しだけこちらを見て、提案してくる。

「あまり長く話し込むと怪しまれるからな。ここは手短に情報交換といこうか」

「はい」

「名刺は持ってるか?」

「いえ」

「じゃあ、俺のを渡しておくから、後で連絡してくれ」

 受け取った名刺には、ボディガードではなく武道家としての肩書きが記されていた。


『鬼嶋流柔術 師範 鬼嶋きじまごう

 

 聞いたことのない流派だ。名字と同じということは一子相伝かそれに近い流派なのだろう。

 柔術とは柔道の祖であり、武士の剣術が明治時代にスポーツ化して剣道になったように柔術は柔道になった。その際、日本人の魂である武士道精神の大部分が失われてしまったわけだが、少数ながらそれを受け継ぐ者もいた。この鬼嶋という男もその一人なのだ。

「住んでるところはここから近いのかい?」

「車で三十分ほどです」

「俺んとこもそんなもんだ。機会があったら今度飯でも食いに行こうや」

 せっかくのお誘い、断る理由はない。こちらも情報交換は望むところだ。

「ええ、喜んで」



 その日の夜。

 お互い時間が空いているということで、さっそく鬼嶋と食事に出掛ける。

 真里さんの料理が食べられないのは残念だが、ある意味ボディガードの仕事以上に重要なことだ。武道家同士のコネクション。もしかしたら、それが不可能を可能にするかもしれない。

 鬼嶋が連れてきてくれたのは、古い和風建築の蕎麦屋だった。もちろん、富裕層の人間が足を踏み入れることのない大衆の店だ。

「いらっしゃい! 二名様だね! どうぞ奥の席へ」

 威勢のいい中年女性店員が案内してくれる。

 暴動騒ぎのため店を営業するのが困難な中、ここには活気があった。従業員の声や表情が明るい。料理の価格帯も暴動前から変わっていない。

 そのせいか、午後六時を回ったばかりだというのに席はほとんど埋まっていた。

「どうだい、いい店だろう?」

「そうですね」

 奥の座敷の席で、俺は鬼嶋と向かい合う。

「こんなご時世に値段も変えず営業するなんざ並大抵じゃあねえ。こりゃあ、自分たちの仕事に誇りを持ってる証拠だ」

「誇り、ですか……」

「金持ち連中には理解できんことさ。コストカットのために人間をカットするような連中にはな」

 確かに、損得勘定ばかりする経営者が仕事に誇りを持っているとは思えない。無論、商売であるからには収益が一番だろうが、それ以外にも大事なことがあるのを忘れてしまっては、ただの『お金コレクター』であって『職人』『仕事人』ではない。

「もっとも、俺も今の仕事には誇りなんざ持っちゃいねえから人のことは言えねえがな」

 鬼嶋は皮肉めいた笑みを浮かべた。

 俺も同じように小さく笑う。

「それは私も同じです。何も好きであんな老人たちを守ってるわけじゃありません。あくまでも次へつなげるための布石です」

「それだよ」

 鬼嶋が返してきたところで、店員がお茶とおしぼりを持ってきた。

 ひとまず話を中断し、食事の注文をする。

 それから注文が届くまでの間、話を続ける。

「聞かせてくれ。あんたは、どんな方法でこの状況を変えようとしている?」

「護身術のレクチャーを通して、さりげなく武道精神を伝えようと思っています。武の本質は慈悲の心です。それを理解させればあるいは、と」

「俺と同じか。となると、なんにも伝わってねえところも同じかな?」

「そうですね、残念ながら」

 俺はお茶を一口すする。

 まだボディガードになって五日しか経っていないとはいえ、金満氏の変化のなさは絶望的だった。長い年月をかければ変えられるかもしれないが、そんな猶予はない。

「かといって、厳しく当たりゃあすぐ怒るしな」

「厳しくしたんですか?」

「ちょっとだよ。試しにな。そしたらいきなり、茹で蛸みたいに顔が真っ赤になっちまってさ。ありゃあ普段から相当ちやほやされてるな。雇われ者が経営者様に口答えするなんざあり得ねえと思ってやがる。そっちのじいさんはどうなんだい?」

「似たようなものです。一応納得したような返事はするんですが、全部耳を素通りしてました」

「ハハッ、まあそんなもんか」

 鬼嶋は笑いながら視線を落とした。

 俺から少しでもヒントが得られればと期待していたのだろう。その期待に答えられないのがなんとも悔しい。

 元々成功の見込みがあるかどうかもわからない杜撰ずさんな計画だったのだ。人と意見を交わすことで、それを改めて思い知った。

「けどよ」

 鬼嶋が顔を上げる。

「こうして、あんたと会えただけでもよかったよ。今はダメでも、これから妙案が浮かぶかもしれねえしな。仲間がいるに越したことはない。俺は今後も武道家っぽい奴を見かけたら声かけてくつもりだから、あんたも仲間見つけたら紹介してくれよな」

「もちろんです」

 また一つ仕事が増えたな。同じ目的を持つ武道家の仲間探し。テレビやネットなど表には出てこない人物が多いだけに、本物を探すのは難しそうだ。

 手当たり次第声をかけるわけにもいかない。スポーツマンボディガードならともかく、職務に忠実な本職のボディガードに知られれば、主たちに告発されて計画が潰されかねない。事は慎重に進めなければ。

 鬼嶋が話題を変えてくる。

「そういえば、あんたの武術は? 体格からすると、打撃を駆使するタイプに見えるが。拳法か、古流の空手ってとこか?」

 拳法とは、日本の古武術に中国武術の要素を加味したもので、少林寺拳法や日本拳法が有名だ。

 古流空手はスポーツ化する以前の空手のことで、発祥の地である沖縄では唐手トゥーデまたはティと呼ばれた武術だ。

 外見だけでそこまで特定するとは見事だが、この質問に対し俺は素直に首肯することができない。

「スポーツとしての空手は学びましたが、古流の技は独学です。正式には習っていません。あとは剣道と合気道、それから居合道を少しやっていただけです」

 そう、俺は鬼嶋のように流派の伝統を受け継いだ純然たる武道家ではない。過去の文献や画像等、あらゆる資料を参考にして、独学で可能な限り日本武道の深奥を再現しただけの自称武道家だ。

 彼のような本物からすれば、俺ですら偽物なのかもしれない。だが、鬼嶋は決して俺を見下すようなことはせず、陽気に返してきた。

「ほう、いろいろやってたんだな。ま、機会があったら技の交換でもしようや。伝統を守るのは大事だが、時代に合わせて技も進化させないとな」

 やはり本物は違う。本当に、この人に会えてよかった。

 その後も俺たちは食事をしながら、武道のこと、互いのことを語り合った。歳が十歳も離れているというのに、鬼嶋剛とはたちまち親友になることができた。

 


 それから数日間、俺はボディガードの仕事と平行しつつ、金満氏の調査と武道家の仲間探しを行った。

 まずは『会長』と呼ばれる金満氏の立場と仕事内容について。

 金満氏は大手建設会社の元社長であり、引退した今は会長職に就いている。この会長というのが何なのかというと、半分は社の経営アドバイザー、もう半分は日本経済の発展のために活動する財界人だ。

 財界とは日本中のあらゆる企業のトップが集まる経済団体のことで、そこでもまた団体会員としての役職が割り当てられる。金満氏は委員長というヒラ会員よりずっと上の立場にいるようだが、さらに上の役職もあり、いわば会長の中の会長になるための出世争いが繰り広げられていた。

 財界活動の主な目的は、勉強会や交流会を通して様々な業界の知識を集め、経済界の意思を政治に反映させることだ。もっとも、その実態は勝ち組が勝ち組であり続けるための政策を提言する圧力団体であり、下請け会社など末端のことは眼中になかった。

 次に、金満氏個人の活動や生活について。

 金満氏は自社の他にも複数の株を持っており、自宅でも外出先でも常にインターネットで株式の動向をチェックしていた。

 株のことはよくわからないが、暴動が相次ぐこの状況でも取り乱していないところを見ると、こういう事態には慣れているのか。あるいは何か秘策でもあるのか。

 何にしても、自社以外の株はなくても生活に困るわけではない。資産運用と言えば聞こえは良いが、要はマネーゲーム、もっと言えばギャンブルだ。

 では、元々たくさんある資産を増やしてどうするのかといえば、そこからさらに資産を増やすための事業を始めるのだそうだ。そしてその事業が成功したら、またさらに資産を増やすための事業に乗り出す。その繰り返し。ただ資産を増やすことが目的であって、その先には何もないのだ。

 それ以外にはゴルフ好きということと美食家ということくらいか。どちらも金持ち定番の趣味だ。実に面白みがない。

 年甲斐もなく女癖の悪いところはあるが、妻がすでに他界しているのでそれも弱点にはならない。

 ハッキリ言って、仕事面からも個人面からも解決の糸口は見つからなかった。

 唯一の弱点は暴力に対する警戒が手薄なことだが、暴動によって潰されるのを傍観するわけにもいかない。曲がりなりにも日本経済を支える彼らがいなくなってしまえば、日本市場は海外の資本家たちに食い荒らされることになる。

 そうなれば富裕層も庶民も共倒れ、国そのものが衰退してしまう。単純に悪を滅ぼせば良いというものではないのだ。

 だからこそ、その傲慢な態度を改めてもらおうと護身術のレクチャーに交えて武道精神を説いているのだが、やはり理解してもらえない。

 護身の心得についての説明は一通り終わった。心悪しき者に武道の技は教えたくないので、次あたりで打ち切りだ。他の手立ても思い付かない。

 一方で、武道家同士のコネクション作りは順調だった。ここ数日で三人の武道家が仲間に加わった。仲間になった三人もそれぞれ仲間を増やしてくれれば、コネクションはさらに広がっていくだろう。

 そして、日曜日の夜。

 五人全員が一ヶ所に集まるのは難しいので、俺たちはビデオチャットを通して今後の活動について話し合う。

『そんじゃあ各自報告が済んだところで、何か役に立ちそうな案がある者は遠慮なく言ってくれ』

 司会を務めるのは、早くも俺たちのリーダー的存在になりつつある鬼嶋だ。

 画面上で一人が挙手し、口を開く。

『連中の危機感を煽るために、自作自演の事件を起こしてみてはどうだろう? なんなら多少の怪我くらいは負わせてもいい。口で言ってわからん連中には実際に体験させるしかない』

 合理的ではある。すでに手段を選べる段階ではなくなってきているのもわかる。

 それでも即賛成できないのは俺の甘さだろうか。

 そんな俺の気持ちを、鬼嶋が代弁してくれる。

『悪くはないな。だが、そういう過激な手段はできれば最後の方にとっておきたいな』

 俺を含む残り三人が首肯する。

 意見した男は別段苦い顔をするでもなく、

『俺もだよ。少しでも穏便な方法があるならその方がいい』

 と受け止めてくれた。

 別の男が言う。

『子供を手懐けるというのはどうだろう? 部下や下請けには冷酷な金持ち連中も、自分の子や孫には甘いはずだ。六十代から七十過ぎあたりの老人なら、小学生か中学生くらいの孫がいる可能性が高い。実は昨日、うちの会長から孫に武道を教えてやってほしいと頼まれてな。これはもしやチャンスではないかと思ってたところなんだ』

 その意見に、皆が声を出し関心を示す。

『ほう!』『その手があったか』『いいかもしれんな』

 確かに、小中学生なら短期間で見違えるように成長する可能性はある。その成長ぶりを見れば、頭の固い老人とて武道の素晴らしさを認めざるを得まい。決定的な打開策ではないが、やってみる価値はある。

 というわけで明くる日、金満氏にそのことを申し出てみた。

「ふむ。孫たちも、ろくに外に出られずストレスが溜まっておるだろうし、毎日キャッチボールばかりではな。君がそう言うのなら、お願いしようか」

 武道を体育の授業代わりと勘違いしているようだが、まあいい。

「では、さっそく今日の夕方から稽古を行いますので、二人に伝えておきます」

「任せる」

 さて、今までまともな教育を受けてこなかった二人を短期間で変貌させる高難易度ミッションのスタートだ。武道家として、教師として、貴様らのその歪んだ精神を修正してくれる。

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