第7話 武士道
太刀河先生の住家であるアパート一階の一室に到着する。
二度目とはいえ、男の人の家に入るのは緊張する。ただし、太刀河先生を疑っているからではない。近所の人に疑われるのが怖いからだ。
教師である太刀河先生が女子高校生二人を部屋に連れ込むところを見られたらどう思われるか……。アパートの敷地に入ってから部屋のドアを閉めきるまでの間、どうか誰ともすれ違いませんようにと、つい祈ってしまった。
紗月もわたしと同じようにそわそわしていた。
そんなわたしたちと違い、太刀河先生は終始平然としていた。どちらかというと変に思われて困るのは先生の方なのに、すごい精神力だ。これも長年の修行の賜物だろうか。
先々週と同じく、わたしたちは六畳の和室に通される。部屋にあったちゃぶ台はすでに片付けてあった。
「それじゃあ、さっそく護身術のレクチャーを始めようか。新條さん、そこに仰向けで寝てくれるかな?」
「え、寝るんですか?」
「そう。今日は押し倒された時の対処法を教える」
そういうことか。
わたしは言われたとおり畳の上で仰向けになった。
こうして見下ろされるのはけっこう緊張する。理由はたぶん、この体勢が無防備だからだ。
目の前の二人が攻撃してこないと理性ではわかっていても、本能が危険を訴えている。
太刀河先生が紗月を見る。
「俺が新條さんの上に乗っかるわけにはいかないから、襲う役は玉野さんにやってもらおうか。マウントポジションってわかるかな? その体勢になってほしいんだが」
「はい。わかります」
返事をした紗月は、馬に跨がるような形でわたしの上に乗っかってきた。おへその辺りにずっしりと体重がかかる。四○キロくらいの紗月でもこれだけ重いのに、男の人が乗っかってきたらどうなるのか。想像するだけでも恐ろしい。
「さて、言うまでもなく、その体勢で有利なのは上に乗っかっている方だ。上の方が上半身を自由に動かせる分、力が出しやすい。反対に、下からでは力が出せないだろう?」
「そ、そうですね……」
床に組み敷かれたこの状態では肩が後ろに動かせない分、腕の可動域が狭い。腰が密着しているから股間は攻撃できないし、頭突きも当然届かない。今は相手が紗月だから必死で暴れれば何とかなりそうだが、もっと重たい男の人だとしたらここからの逆転は絶望的だ。
「それで、どうすればいいんですか?」
「どうすればいいと思う?」
わたしの質問に、太刀河先生はそっくり返してきた。
そうだった。まずは自分で考えるのだった。
「ええと……」
殴って怯ませるのは無理だ。試すまでもなく、下からと上からでは威力が違い過ぎる。力が出せないから腕をつかんでひっくり返すこともできない。
髪の毛を引っ張るか……。いや、短い髪はつかみにくいから、男の人相手では通じない可能性が高い。
わたしは何か方法はないものかと、紗月のあらゆる部位を観察する。
「あんまりじろじろ見ないでよ」
紗月は気まずそうに目を逸らした。
目を……目!
「もしかして目潰しですか?」
わたしは紗月の顔に向けてそっと人指し指を伸ばした。もちろん、間違っても当たらないよう遠くから。
股間同様、鍛えようのない人体の急所。眼球への攻撃なら、力が出せないこの状態からでも大ダメージを与えることができる。
「不正解だ」
ええー、けっこう自信あったのに。
「不満そうな顔だな。でもよく考えてみるといい。その体勢から目という小さな的に、正確に人指し指を当てられるかどうかを。外せば突き指、悪ければ骨折だ。しかも、目を狙われたとなれば、相手は怒り狂って攻撃が激化するだろう。眼鏡をかけていたら使えないという欠点もある」
一瞬にして問題点を四つも挙げられてしまった。まだまだ考えが浅かったようだ。
「だが着眼点は悪くない。体勢によっては目潰しが使えることもある。問題なのは使える使えないよりも、人の目に迷わず指を突っ込むことができるかどうかだ。一歩間違えば相手が失明するというプレッシャーは大きい。明らかに命の危険が迫っている場面ならまだしも、そこまでやっていいのか判断が難しい時もある。相手が知っている人間なら尚更やりにくいだろう」
確かに言ってはみたものの、ためらいなく人の目を潰す自信はない。
そして、実戦では一瞬のためらいが命取りになる。
「目潰しはリスクが高い上に状況判断が難しい。それはどうにもならない時の最終手段として、他の方法を考えてみなさい」
「はい」
しかし、一分近く考えても浮かんでこなかった。
「時間切れだな。じゃあ交代で、今度は玉野さんが下になってもらおうか」
残念。いい線いってたんだけどな。
紗月がわたしの上から降りる。
その後、仰向けで寝るはずが、なぜか太刀河先生を見上げたまま動かなかった。
「どうした?」
太刀河先生が尋ねる。
すると、紗月は少しだけ顔を赤らめながら言った。
「あ、あの、太刀河先生が上に乗ってください。その方が緊張感あると思うので」
な、なに言い出すの、この子は!
「それにわたしの方が、順番が後だから、そのくらいしないと不公平です」
「ふむ……」
太刀河先生はその場にしゃがみ、視線の高さを紗月に合わせた。
「まあ、君がそう言うならそうしようか」
いいの? それとも、わたしの考え過ぎかな?
「じゃあ、お願いします」
紗月が畳の上で仰向けになる。
その上にゆっくりと先生が跨がった。
少しの間、無言で見つめ合う二人。
もう見ているこっちが恥ずかしい。
太刀河先生は落ち着いた表情をしていた。特にやましい気持ちはないらしい。
紗月はというと、さすがに少し固い表情をしていた。
そんなに緊張するならやめておけばいいのに。いや、その方が練習になるのか。
「ええと、これなら……。なんとか届くかな?」
紗月は上体を起こしつつ、太刀河先生の耳元に手を伸ばした。
あ、そっか!
「耳を引っ張れば、男の人でもひっくり返せると思います」
わたしが気付くと同時に紗月は言った。
「正解だ。よくわかったね」
「目がダメなら耳しかありませんから」
上体を下ろしながら嬉しそうな顔をする紗月。
紗月の耳は髪で隠れていたから、わたしは気が付かなかった。ちょっとずるい。
太刀河先生が言う。
「せっかくだから軽く試してみるか?」
「え、いいんですか?」
「いいよ。でもそっとね」
「わかりました」
紗月は再び上体を起こし、先生の耳をつまむ。
次の瞬間、先生は大きく横に傾き、畳の上に手を付いた。
箱からティッシュを出すくらい軽く引っ張っただけで、本当にマウントポジションから脱出できてしまった。
これぞ護身術の真骨頂といった感じだ。
紗月が身体を起こした後、先生も起き上がる。
「今見たとおり、人間は耳を引っ張れば体重差に関係なく簡単にひっくり返すことができる。抵抗すれば耳がちぎれてしまうからね。股間、目潰し同様、どんな屈強な男でも耐えられない技の一つだ。最悪、耳ならちぎれても手術でつなげることができる。聴力も元に戻る。やる時は容赦なく思い切り引っ張るんだ」
こうして、またわたしたちの護身術に新しい技が加わった。
護身術の練習後、前回のように三人でちゃぶ台を囲み、温かいお茶をいただく。
たいした運動はしていないが、こういうホッと休まる時間があるのは嬉しい。
「そういえば、先生はどうして武道を始めたんですか?」
わたしは前々から気になっていたことを聞いてみた。
「最初に習ったのは小学生の時の剣道だけど、たいした理由じゃなかったよ。ただ、友達がやってたから自分もやってみようと思っただけだ。その頃は武道という言葉すら意識してなかった」
「でも、その後スポーツではない真の武道に目覚めるんですよね? きっかけは何だったんですか?」
「大会でことごとく優勝できなかったからかな。剣道も空手も、身体が小さいなりに努力して試合で勝ち進めるようにはなったんだけど、あと一歩のところで優勝を逃すことが多かった。それが悔しくて、いろいろ工夫したり調べたりしているうちに、だんだんわかってきたんだ。ルールに縛られた試合において、体格に勝る武器はないってことにね」
先生の表情が微かに陰る。
「思い起こせば、決勝や準決勝で俺を負かしたのは大抵身体の大きな相手だった。試合内容もひどいものだったよ。上手い下手の問題じゃない。ムチャクチャな力押しで負けたんだ。どれほどのテクニックも圧倒的な体格の前では無力でしかない。俺は八年かかってようやくそのことに気付いた。……ごめん、愚痴みたいになってるな」
「いえ、構いません。続けてください」
わたしは慌てて首を横に振った。
先生はお茶を一口含んだ後、話を続ける。
「とまあ、そんなことがあったおかげで、俺は現代武道に疑問を抱くようになった。ただ大きいというだけで、技術的には初心者みたいな奴が何倍も練習している経験者に勝ててしまう。これが本当に武道なのか、とね。とはいえ、まさか先生に『今やっていることは本当に武道ですか?』なんて聞くわけにはいかないから、本で調べることにした。そうしていろんな本を読んで知識を積み重ねることで、スポーツ武道と本来の武道の違いがわかるようになってきたんだ」
「誰も教えてくれないから、そんなに時間がかかったんですね……」
わたしは、つぶやくように言った。
「そうだな。武道の先生が武道の本質を知らない。悲しいが、それが現代武道の実情だ。壁に教訓の書かれた紙が貼ってあるだけで、それを理解し実践する者はほとんどいない。少なくとも俺が通っていた道場では、武道精神は完全に形骸化していたよ」
「うちの剣道部も同じですね」
紗月が静かに言う。
「武道場の壁に『心・技・体』と書かれた掛け軸があるんですが、ただあるだけで内容は教わりませんでした」
「そういえばそうだね。『技』は剣の技で『体』は体力ってことはわかるんだけど、『心』はどういう意味なんだろう?」
「どういう意味だと思う?」
太刀河先生がわたしたち二人に対して聞いてきた。
「う~ん、そうですね……」
まずはわたしが答える。
「いざという時も動じることのない精神力、ですか?」
「悪くない答えだ。玉野さんは?」
「ええと、厳しい練習を乗り切るための忍耐力でしょうか?」
「間違ってはいないが、いかにもスポーツマン的な解釈だな」
先生の物言いに、紗月は少しだけムッとする。
「じゃあ、なんですか?」
「人が人と生きていく上で最も大切な心だ」
ヒントはくれたが、それ以上は言ってくれなかった。
それが太刀河先生の指導方針だということは紗月にもわかっているみたいで、文句は言わない。まずは自分で考える。
人が人と――
スポーツではない――
最も大切な――
……そっか。
わたしは先生のすぐ隣まで移動して、紗月に聞こえないようそっと耳打ちした。
先生は無言で小さく頷いた。正解のようだ。
それから、先生が紗月に対して言う。
「焦らなくていい。競争じゃないんだから」
「はい」
と返事はするものの、紗月はそわそわする。
自分で考えてもらった方がいいと思って、あえて聞こえないようにしたけど、裏目に出ちゃったかな?
「小鞘、絶対言わないでね」
力強く言う紗月。
どうやら、心配無用だった。
しばらくして、紗月が「あ!」と声を上げた。
わたしと同じように先生のそばまで行き、そっと耳打ちする。
「正解だ」
そう聞いた瞬間、紗月の表情がパッと華やいだ。
「二人ともよくわかったな。武道家にとって最も大事な心、それは〝優しさ〟だ。いくら強くても人を思いやる心がなければ何の意味もない。むしろ強いだけの人間など恐ろしいだけだ」
先生は少し悲しそうな表情をする。
「本来なら、武道の指導者には技を悪用されないよう、人としての心の在り方を教える義務がある。だが、現代の日本には人の心を育てる指標となるものがない。それが武道精神の形骸化の原因だろう」
「現代のということは、昔はあったんですか?」と紗月。
「あった。『武士道』という日本人特有の道徳観がな」
剣道をやっているというのに、あまり馴染みのない言葉だ。歴史の教科書にも詳しくは載っていない。
「武士道というと、『武士の情け』とか『武士に二言はない』とかいうあれですか?」
わたしはパッと思い付いたことを口にした。
「そう。要するに武士道とは一種の哲学だ。かつて日本の支配階級だった武士は、民衆の模範となるべく自らを厳しく戒めていた。その教えがいつしか庶民にも浸透して、日本人の道徳観を形成していったんだ」
「じゃあ、武士道には『人に優しくしなさい』っていう教えがあるんですね?」
「ある」
わたしの質問に、太刀河先生は即座に答えた。
「武士道の七つの徳目の一つ『
武士道というと、勇ましいイメージが強くて自分には無縁なものだと思っていた。
でも、話を聞いてそうでもなくなってきた。
武士でなくとも武士道は学ぶ価値がある。
「先生、武士道には他にどんな教えがあるんですか?」
「まあ、待ちなさい」
わたしの質問を、先生が軽く手を上げて遮った。
「これ以上一気に話しても頭に入り切らないだろう? 武士道について詳しく書いてある本を貸すから、暇な時にでも読んでみるといい」
先生は押入れから同じ本を二冊出し、手渡してきた。
どちらも新品のようにきれいだ。
もしかして、これが噂に聞く保存用と布教用というものかな。
「とりあえず、わかりやすそうなのを選んだ。返すのはいつでもいいから、じっくり読んでみなさい」
夕食後、部屋に戻ったわたしは、太刀河先生に貸してもらった武士道の本を開いた。
まずは目次に目を通す。
第一章は武士道精神の根幹たる七つの徳目について、第二章は切腹や仇討ちなど武士道の作法について、三章以降には武士道に関する伝説や名言について書かれているようだ。
パラパラっとページをめくってみる。写真やイラストがふんだんに使われてはいるものの、内容は全体的にお堅そう。読書好きのわたしでも、これは読むには時間がかかりそうだ。
とりあえず、今日のところは第一章を読んでおこう。
武士道における七つの徳目。義、勇、信、礼、誠、名誉、忠義。
武士はこれら七つをすべて備えることではじめて武士たり得るらしい。
こういう教えって、なんだか渋くてかっこいいな。でも、どうせなら全部一文字にすればもっとよかったのに。
などと思いつつ、『義』について書かれているページを読み始める。
『義』は人としての正しい道、正義を指す。
『義』は身体に例えるなら骨である。
『義』は勇気をもってなされる決断力である。
抽象的で何が言いたいのかよくわからない文章の後、有名なエピソードが出てきた。
戦国時代、領土に海のない甲斐の武田信玄に、越後の上杉謙信が塩を送った話だ。たとえ敵であっても人の弱味につけ込むようなことはしない謙信の美学。現代で言うならフェアプレイ精神。これこそが『義』だという。もちろん、『敵に塩を送る』という諺はこの話が由来となっている。
渋い。上杉謙信は渋い。現代の政治家の皆さんにはぜひとも見習ってほしい。
次に、『勇』は勇気のことだ。わかりやすい。
ただし、勝算もなく無謀な突撃をするのは単なる『犬死』であって軽蔑の対象とされる。
『勇』については、
『生きるべき時に生き、死ぬべき時に死ぬ者こそ、真の勇者である』
黄門様も渋い。
ちなみに、どうして『犬死』なのだろうと思って調べてみたところ、『犬』という言葉には『似て非なるもの』『くだらないもの』『無駄なもの』という意味もあるらしい。
犬公方様の前で言ったら切腹ものだ。
次に、先ほど太刀河先生が言っていた『仁』について。
その意味は先生から聞いたとおり、優しさのことだ。いくら勉強ができようが、仕事ができようが、お金を持っていようが、人を思いやる心のない人間を立派とは言えない。
次に、『礼』は礼儀のこと。これもわかりやすい。
当然ながら、気持ちの籠っていない形だけの礼は『虚礼』であって礼ではない。
部活の時、特に何も考えずに礼してたな。あれでは虚礼なんだ。次からはちゃんと気持ちを込めよう。
次に、新撰組の旗印として有名な一字『誠』について。
『言』と『成』が組み合わさったこの字は、文字通り『言ったことを成す』、すなわち有言実行のことだ。『武士に二言はない』という言葉もここからきている。
口だけ達者な大人じゃダメってことだね。
次に、『名誉』とは、自分に恥じない高潔な生き方をすること、らしい。
これも抽象的でわかりづらいので、名誉という言葉を現代語辞典で調べてみると、『他者からの評価、体面』の意。要するに、武士にとって面子はお金や命より大事なのだ。
生き恥をさらすくらいなら潔く死を選ぶ。恥も外聞もなく地位や財産にしがみついたりしない。責任逃れの言い訳もしない。誠意は切腹を以て示す。
最後に、『忠義』とは主君や国家に対し真心を尽くして仕えること。大事なのは自主的に尽くすことであって、奴隷のように何でも言うことを聞くのが忠義ではない。主君が間違っている場合、武士たちは命を賭してこれを
第一章を読み終えたところで、わたしは本を閉じた。
そして思った。武士道はすごい、と。
もちろん、すべての武士がこの教えを忠実に守っていたとは思えない。中には、武士の風上にも置けぬ者だっていただろう。むしろ、七つの徳目すべてを兼ね備えた武士は少なかったかもしれない。理想論と言われてもおかしくないくらい厳しい内容だからだ。
それでも、立派な人格を育てようと努力する姿勢は正しい。
近代以降、日本人は目覚ましい発展と引き換えに、あまりに大事なものを失ってしまったのではないかと思うと、残念でならなかった。
それから数日間、わたしは一日に一章ずつ武士道の本を読み進めていった。
鎌倉時代から江戸末期まで、実に七百年もの間この国を治めてきた武士たちの作法、思想、そして数々の伝記。それは、単なる暗記科目と揶揄される学校の日本史と違い、わたしの心に深い感銘をもたらした。
中でも注目したのが、命に対する考え方だった。武士たちは生だけでなく死にも美意識を持っていた。桜の花が散るように、美しく潔く死ぬことを理想としていた。
現代人にとって死はひたすら忌避するものであり、寿命以外の死はすべて不幸と認識される。
だが、武士には死という選択肢があった。命を使うことによって悲願を果たすという選択肢が。
不謹慎、親不孝と言われるかもしれないが、わたしには武士たちの死生観がこの上なく尊いものに思えた。同時に、わたしの命は何に使えるだろうと考えるようになった。
それから、武士道は男性のものであって女性には関係がないのかといえば、決してそうではない。武家の女には、奥ゆかしく家庭を守る一方で、勇敢さもまた求められていた。
例えば、坂本龍馬の姉・お
身分もそう。武士道とは武士階級だけのものではない。
新選組局長・近藤勇と副長・土方歳三は、元は農家の生まれだったにも関わらず、最後まで己の武士道を貫き散っていった。
武士道は性別や身分を超えるのだ。
武士道の勉強をしたことで、わたしは自分の考えや行動に以前よりも自信が持てるようになった。信念や心の拠り所みたいなものがあると、少々のことでは気持ちがぶれなくなることを知った。
多くの国では宗教が人々の心の拠り所となっているが、日本にはそれがない。
ならば、武士道こそがそれにふさわしいと、『BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN』を著した
武士道は時代をも超える可能性を秘めているのだ。
次の練習日、わたしは太刀河先生に聞いた。
「武士道と武道は何が違うんですか?」
「主君に対する忠義以外は、だいたい同じようなものと思っていい。あえて言うなら武道の方が若干緩やかだな。さすがに切腹しろとは言わないしね」
「それは若干ではない気がするんですが……。でも、武士道はともかく武道は明治になっても存続してたんですよね。それなのに、どうして武道精神は廃れていったんでしょうか?」
「存続と言っても風前の灯火だったんだよ。もう剣術や柔術が
「それで試合に勝つことばかり考えるようになっちゃったんですね」
「残念ながらな。スポーツに限った話じゃないが、勝利至上主義では人の心を育てられないことに、そろそろ気付いてほしいものだ」
さらに次の練習日に聞いた。
「今日学校で、『戦争について考える』っていう講話みたいなものがあったんです。それで話をしに来た講師の人が『戦争は絶対してはいけない』って言ったんですけど、実際問題どうなんでしょう? そうは言っても、他国が攻めてきたら戦うしかないような気がするんですが」
「そうだな。戦争をしてはいけないのは確かだが、絶対は言い過ぎだな。防衛のために戦うのは仕方のないことだ。黙ってやられるわけにはいかない」
「じゃあやっぱり、戦力はあった方がいいってことですか?」
「良い悪いの問題ではなく、いざという時に自国を守る戦力がなければ他国に侮られてしまうんだ。国家でも個人でも人間の考えることは同じだ。狙うなら抵抗してこない相手の方がいいに決まっている。国が防衛のための戦力を持つということは、個人が自分を守るために護身術を身に付けるのと同じことなんだ」
「あくまでも自衛のために仕方なくってことですね」
「そのとおりだ。理想論を言えば、すべての兵器をなくしてしまうのが一番いい。だが、やるなら全世界で同時にやるべきだ。一国だけが戦力を放棄しても意味がない」
「確かに、周りの国は武装してるのに、自分の国だけ無防備というのは怖いですね」
「戦力はいらないという考え方が誰にとって都合がいいのか? それを理解することが国防の第一歩であり、国を守ることが個人を守ることにもつながる。それも護身術だ」
またある日、こんな話も聞いた。
「新條さんと玉野さんは、朝食はご飯かな? それともパン?」
まず、わたしが答える。
「うちは半々です。ご飯の日もあればパンの日もあります」
それから紗月。
「わたしはパンです。食欲がない時はヨーグルトなんかで済ませることもありますけどね」
「そうか」
「先生はどっちなんですか?」
「どっちだと思う?」
自分で聞いておいてなんだけど、これは簡単だ。
「ご飯ですね」
「正解」
「そうだと思いました。あ、先生のことだから主食だけじゃなく、おかずも日本食なんじゃないですか?」
「よくわかったな」
「それだけじゃないですよ。この次に先生が言いたいこともわかります」
「ほう。玉野さんは?」
「わたしも、だいたいわかりますよ」
わたしと紗月は、それぞれ先生に耳打ちした。
「二人とも正解だ。成長したな」
先生は穏やかな笑みを浮かべた。
「そう、いくら強くなっても体調が悪い時に襲われたらひとたまりもない。健康管理もまた護身術のうちだ。そして健康管理の基本といえば食事だ。それともう一つ、俺が和食を勧める理由がある。ヒントは経済的なことなんだけど、わかるかな?」
残念ながら、この質問にわたしたちは答えられなかった。
「さすがに難しかったか。まあ、これは食材に限った話ではないが、要するに我々消費者が国産品を買うことで国内産業が潤い、それが社会の安定につながり、最終的には個人の安全にもつながる。それも護身術だ。今後、買い物をする時は、なるべく日本製の物を選ぶよう心掛けてみるといい」
技の練習については、基本的な護身術をいくつか習った後、古流の剣術と柔術を中心とした技法を教わることになった。さすがにアパートの一室で練習はできないので、わたしたち三人でお金を出し合って公営の武道場を借りた。二週間に一回、それもわずか一時間程度の練習ということで、基本技の反復練習が中心だった。
単調な練習が続いたので、もっといろんな技を教えてほしいと頼むと、
「技の数はこれ以上増やさない方がいい。あまり多くの技を知っていると、いざという時かえって迷う。今は一つ一つの精度を上げることが大事だ」
そう返された。
竹刀の三倍近くも重量のある日本刀を自在に振る身体操作や、手首を捻るだけで相手を倒せる関節技など、スポーツ武道にはない技術を教わった。
同時に、これらの技術を悪用させないための心得も教わる。
「この先、君たちが武道を教える立場の人間になった時、すぐに技を教えてはダメだ。まずは相手の人格を見定め、悪しき心を持つ者に力が渡らないようにしなければならない。そのためには、技よりも先に心の指導することだ。それを真摯に受け止める者には技を教えていい。そうでなければ、どれほどお金を積まれようとも技を教えてはならない。それが武力を持つ者の務めだ」
そうして二年生になるまでの間、とても充実した日々が続いた。
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