ボトル・メール

ABE

第1話ボトル・メール

 ボトル・メール。

 進学と就職。その選択は「優と劣」や「上と下」ではなく、単純な「右と左」の違いだった。そう、右に行くか、左に行くか。立ち止まるのも悪くはない。けれど、引き返すことは出来ず、期日はいずれやってくる。そのことは僕もわかっていた。

 そして担任から選択を急かされた僕は、その分岐点に僕は座って、それぞれの方向に流れていく人波を見ていた。気が付くと、日が傾いて、潮風も止まっている。

 白紙の進路希望調査書を紙飛行機にして、海に向けて投げた。

 海は出口だ。例えば、海に向かって石を投げる…………ポチャン………………。波紋と小さな水飛沫が起こり石は無くなる。厳密には海底に有るはずだけれど、そこには無い。海に物を投げるとこういうことが起きる。進路希望調査書も僕の手を離れ、海に落ちた。そして、戻っても来ない。

 海面にまだ浮いているけれど、調査書はもう無い。僕は考えるのをやめた。


 二年半、長い時間だ。僕はその二年半で多くの事を学び、育み、ほぼ同じくらいの事物を忘れ去った。そのうえ、一部の都合の良い事だけを見聞きし、多くの現実から目を背け続けた。そうして、僕は今その代償を支払わなければならない。楽をしたければ苦悩を支払い、楽をしたならば苦悩を支払う。自動販売でコーヒーを飲みたいときには代金を支払い、喫茶店でコーヒーを飲んだなら代金を支払う。先払いか、後払いかという話だ。そして僕は無意識に後者を選択していた。


 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16、17……18。

 意味のない数字の羅列。それが僕だ。もっと言うと、僕の生きてきた十八年間だ。事実、僕は十八歳になったけれど、ジュウハチという数字は何の意味もなかった。選挙権を得ても、結婚できる歳になっても、僕の世界が大きく変わることは無かったし、まして、ありえないことだけれど、父親の工場の経営が上向くこともなく、我が家の家計が良くなることもなかった。つまりはいつも通り。何一つ変わらない。


 批判ばかりで実際性の無い野党、一面的なテレビジョン、顔のない批判者。

 ……無意味だ。ムイミ。


 夢を見たことがある。父の工場で、父と一緒に車の部品を作っている夢だ。


 中学時代、三年間で僕は貪るように127冊の本を読んだが、対照的に高校では全く本を読まなかった。この間、ふと、自室の本棚を見ると、そこに今の僕はいなく、数ページ目に栞を挟んだままの『人間失格』が埃を被って隅に置いてあるだけだった。つまり、僕は変わってしまった。僕だけが世界から変わってしまったのか、世界が僕を残して変わってしまったのか、それは不明だけれど。確かなのは、僕がもう太宰治を好きではないということだ。


 夢を見たことがある。ある会社で仲間たちと飛行機の翼を作っている夢だ


 帰り道、斜陽が反射した細波の煌めきの中に、僕は透明な瓶を見つけた。小さなガラス瓶。コルクで密閉されたその中には紐で結われた紙が入っていた。僕はそれを濡れた砂浜から取り上げると、空に瓶をかざし、そうしてやっとボトル・メールであることを理解した。僕はその瓶を大切に鞄に入れて、家へ持ち帰る。帰路に就いた僕を不思議な気持ちが包んでいた。久しく忘れていた、未知への興奮や好奇心。それは幼少の頃のときめきだったのかもしれない。失くして久しく、元の形も覚えていないけれど、この感覚は覚えている。砂場の楼閣、カブトムシを捕まえて、ジャングルジムに登ったあの頃の僕はヒーローだった。


 ボトル・メールも海に投げてしまうとここには無く、ほかの人間の手に渡る。そしてそこには存在する。ボトル・メール上を投げた海は出口で、受け取った砂浜が入り口になる。海を挟んで考えれば投げる行為が入り口になり、受け取る行為が出口になる。

 つまり、こういうことだ。→(人)Out||In→(海)→Out||In(僕)→

 入り口と出口は対であるから、一方があればもう一方は必然的に存在する。これは一般論だ。


 ボトル・メールは手紙と似ているが、根本的な部分で異なる。送り手と受け手に面識はなく、無差別的で幾通りもの受け手が仮定されること、そして、両者の間には時間的感覚が無いこと。海を漂っている時間はボトル・メールの中では消失し、たとえ何年前の文章だろうと、送り主と受け取り手がいる。それだけ。

 まるで、星の光みたいだ。


 自宅に帰ると、僕はドアの鍵閉めて、白色電灯の光の下で錆びついた瓶の蓋を開けた。



“YES”



 紙には“YES”とだけ書いてあった。


 ジェームズ、トーマス、エマ、オリビア、ロマニ、チン、サイトー、レヴィ、マイク、タイソン、ニック、ジェシカ、アキバ、チャオ、ハオ、メルロ……ミサ。ビンに彫られていた名前だ。最後はミサで終わっている。つまりこの『メッセージ』はミサからの僕への贈り物だ。だが、ジェームズからミサまで、なぜ“YES”に至ったのかは分からない、この“YES”が本来、誰に宛てられたものなのかさえも。けれど僕は気分が良かった。


 その晩、僕は僕が思う中での上質な紙に、父親の万年筆をこっそり借りて、一言綴った。巻いて紐で結う。そして瓶の蓋を閉めた。僕は、いつもよりも一時間早く布団に入り、翌日、一時間早く起床した。

 僕がこの瓶を手にしたということは、僕にも誰かに回す義務が生じて、僕はその通りにビンをもって海岸へやって来た。落ちていた釘で僕の名前を瓶に彫ると、蓋を一度強く締めて、海へ投げた…………ポチャン………………。波紋と小さな水飛沫が起こり僕のボトル・メールが海に浮かんだ。


 YESだ。何だってYESだ。

 何が解決するわけでなく、世界が変わることもないが、その一言で僕は救われ、少しでも物事に対し前向きになれる気がした。とりあえず僕は今日、担任に進路希望調査書をもう一枚、貰いに行かなくちゃならない。

 二つは「右と左」で、どちらも「入り口と出口」の両方だ。どちらを選択するのも間違いでは無い、僕は今度こそ、しっかりと自分を見つめてみよう。


 ハシゴを登った先に肯定があることで、人はどれほどの幸福を思えるのだろうか。


 僕は鼻歌で『“YES”TERDAY』を歌った。

 今だけは、ジョン・レノンよりもうまく歌える気さえした。

 僕は昨日ボトル・メールを受け取る運命にあって、僕は現実に向き合わなくてはならない。つまり、前進だ。

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