第2話 雨の金魚
昔、金魚を飼っていたことがある。
縁日の金魚すくいで掬ったものだ。
突然の夕立には気をつけるようにと言われていたが、ついつい縁側に鉢を出しっぱなしにしたままで、逃がしてしまった。
誰でも子供の頃に一度や二度は経験する苦い思い出だ。
といっても、最近ではゲリラ豪雨なる風情もへったくれもない名前の雨のおかげで、縁側でなくとも金魚が逃げ出すことも多くなっていた。
私の近所でも時折、野良金魚が地面に落ちて死んでいることがある。
雨がやまないうちに川にでも飛び込めた個体はいいが、それ以外は野良猫たちの格好の餌となる。
一番いいのは逃がさないことで、逃げても飼い主が捕まえればいいのだろうが、空の上へとのぼっていったり、マンション住まいだとそれもなかなか難しい。
テレビでは一度特集が組まれ、注意を促していた。
「マンションのベランダなどで金魚を飼っている方も、ご注意ください。近年のゲリラ豪雨ではベランダに雨が侵入し、そのまま金魚が逃げてしまう事故が多発しております」
子供の頃はそんなこといちいち言うこともなかったはずだが。
時代が変わってそれだけ気にされるようになったということか。
今の私はマンションで一人暮らしである。金魚を飼う余裕くらいはあるが、生き物に対する責任が取れない。
せいぜい水族館でゆらゆら泳ぐクラゲで癒やされる程度だ。
ベランダの窓を見ると、どんよりと暗い。一雨きそうだ。部屋の中はクーラーを効かせているからいいけれど、外には出たくない。どうせ雨の前の湿気ですごいことになっているに違いない。
私は立ち上がると、何か飲もうとキッチンに向かった。
グラスに氷と麦茶を入れて、部屋に戻る。
窓の外へと視線を向けるように、顔をあげる。
「あっ」
という間の出来事だった。
ぽつぽつと降り出した雨の中を、ふわりと金魚が泳いでいった。
巨大な水槽と化した窓の向こう側で、金魚はゆらゆらと雨の中を泳いでいた。それも一匹や二匹ではない。どこからかやってきた金魚たちが、お互いにぶつからないように遊泳している。
赤と白と黒の、ひらひらとした着物のような尾びれが雨の中を泳ぐ。
舞踊に響くのは雨のさあさあいう音。
建造物の建て並ぶ中を優雅に舞うさまは、幻想的ですらある。
私はグラスを持ったまま立ち尽くした。
からんと小さな音がした。
今頃どこかの家々では、悲鳴や落胆が虚しく響いているに違いない。
だが、雨を泳ぐ金魚たちもまた、夏の風物詩のような気がして。
――もう少しだけ。
この贅沢を楽しんでもいいだろうと、思ってしまうのだ。
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