彼女の意向で

 外の状況がどうなっているのかを確認しようと、表ベランダの窓を開けます。まだベランダ全体で見れば火は着いていましたが、その火の上に足を置かないよう慎重に、柵の方へと近寄りました。ふと気付いたんですが、濡れた靴下はしばらく炎に晒されていたからか、少しばかり温かくなっていました。もうちょっと歩くのが遅ければーー。考えただけでもゾッとしますね。

 そして周りの炎で熱を帯びた柵に、少し身を乗り出しながら私は、下の景色を見下ろしました。


 そこには大っきな布団のようなものが設置してあり、更には老若男女の野次馬達がこちらを見上げていました。人間とはつくづくおかしなものです。こんな火事なんて見て何が楽しいんでしょうか。中には銀色の被り物をした方々もチラホラと見えています。あれが消防士って人なのかな。ーーと言うかそれよりもまず目を向かせなきゃいけないのはあの布団ですよ。何なんですか、あの大っきな布団は。


 すると消防士らしき男性の一人が、何やら駐車場とかに置いてあるコーンの裏っ側みたいなものを片手に、こちらを向いて言いました。


「カエデちゃん! ここに空気のクッションが敷いてある! 少し怖いかも知れないけど、そこから飛び降りられるかな!?」


 ようやく加胡川さんが言っていた事の意味がわかりました。人間は人間で助ける力があるーー。それはつまり、ここまで来れば妖怪が手を貸さずとも、人間達が力を合わせてカエデちゃんを救い出せる事を意味していたんですね。


「カエデェ! お父さんはここだぞぉ!」


 カエデちゃんのお父さんも、この子の帰りを待っているみたいです。ここは早いところ、感動の再会と言うものをさせてあげようじゃありませんか。


 普段のこの子であれば、ここから飛び降りる事は難しかったと思います。勿論それは、普段のこの子であればの話ですけどね。何せ今のこの子には私が取り憑います。故にそんな事、造作も無い事なんですよ。それに飛び降りる事への恐怖心なんて、弔いの祠で加胡川さんにされた事のせいで薄れてますし。ーー無論、これが無責任な心境なのは自負していますが。


 私は、迷わず体を柵に乗り出して足を掛けました。ここで、カエデちゃんに降りかかった火の粉を振り払うーー。その一心で。

 ですが飛び降りようとした途端に、私の脳内でとある考えが過ってしまいました。


 もしこのままこの子の体に憑依してると、私は人間として生きていけるのかなーー。


 とうに捨てたと思い込んでいた、人間としての生への執着。しかしこうしてカエデちゃんの体を動かしていく内に、その意識は次第に形を持ち始めていた事を、私は心の中で気付いていました。


 確かに私は、カエデちゃんの体でもうしばらく、身長の高い世界を過ごしてみたいのは紛れも無い事実です。そりゃあだって、平然と人間社会に飛び込み、ごくごく自然に生活へと溶け込んでみたいですからね。


 でもそれじゃあいけないーー。私の中の彼女は、その願望を律しました。

 わかってるよ、過去の私ーー。私もそれに受け答えします。


 カエデちゃんの人生は、カエデちゃん一人の人生です。なので部外者である私が操作して、彼女のゲームにちょっかいを出すのは、良くないですよね。

 あなたの言う通りだよ、過去の私ーー。少しでもそんな事思っちゃった私が悪かった。


 私は柵から足を離しました。そしてまだ馴染んでいない少女の肉体から、市松人形の時と全く同じ要領で、私は体と魂とを分離させます。途端に、とてつもない脱力感が襲い掛かってきました。


 これでよかったんだよねーー。


 落下していく意識の無いカエデちゃんの体を見ながら、私は宙に上がっていきました。それから訪れたのは、まるで走馬灯のようにゆっくりとした時の流れでした。


 次に憑依する肉体が無い以上、私には浮遊霊になる以外の道は残されていません。それに、今の私の魂が二回の幽体離脱で摩耗してきている事も、薄々感じ取っていました。おそらく私が浮遊霊として漂っていられる時間は、ほんのわずかしか残されていないでしょう。

 でもこれってある意味、成仏と言っても過言じゃない状態じゃないのかなーー。全てをやり終えた達成感から、私はそんな心情すら湧いてきていました。

 だって何も出来なかった私が、こうして一人の女の子の命を助ける事が出来たんですよ。過去の私の無念、晴らせたも同然です。


 けれどふと地上で彼らの姿を見た時、その考えにも若干陰りが見えました。

 地上で私の事を見つけたのか、轆轤首さん、天狐さん、加胡川さんが目を大きくして私の方を見ていたのです。まぁ彼らは妖怪ですので、浮遊霊である私を目視するのは造作も無い事なのかも知れません。

 出来るのであれば、私をあなた達の元へ連れ戻して欲しいなーー。密かな願望が、私の精神を揺さぶりました。


 よくよく思い返してみると、彼らにお別れの挨拶をするのを忘れていましたね。こうなるのであれば、初めから加胡川さんに遺言でも頼んでおくべきでしたよ。

 私の体は既にコントロールが利かず、フワフワと宙に浮かび始めていました。これじゃあ下にいる彼らに会いに行く事は困難です。ーーせめて私の為に命まで張ってくれた天狐さんには、ちゃんと面を向かってお礼が言いたかったなぁ。


 天狐さん、加胡川さん、轆轤首さん、今までありがとうございました。ーーそして轆轤首さん、勝手な事してごめんなさい。


「さようなら……」


 彼らの耳に届いてはいないだろうけど、私はポツリと呟きました。そして彼らの顔をこれ以上見ないように、そっと瞼を閉じました。


 *


「カッカッカッ! もうこんなところまで漂って来たのかい」


 独特な笑い声のおかげで、ふと私は我に返りました。今は霊体なので少しおかしな言い方かも知れませんが、心身共に異常とかはありません。どうやら私の体は、まだ霊としての実態を保っているようです。

 目の前には大きな黒いトランクを隣に置いたぬらりひょんさんが、何やら背の高い建物の屋上に腰掛けていました。下に視線を落としてみると仰天! 私達が住んでいた建物よりもかなり高い場所に私は浮いていたんです。


「……ッ!?」

「おやツクモノちゃん、ようやくお目覚めか。ここは雛形区の街中、県営住宅地より少し離れた場所さ」


 辺りを見回すと、街の灯りが夜の闇を和らげている、何とも幻想的な世界がそこに広がっていました。今と言う今まで、私は雛形区の事はGoogleのストリートビューで調べ尽くしていたと思っていました。けれどこうしてみるとそんな見栄も、ちっぽけなものだと痛感してしまいます。都会故に少ないと思い込んでいた自然も、高い場所から見てみれば結構見受けられるのが良い例です。私って雛形区の事、何もわかってなかったんだなぁ。


「ぬらりひょんさんはどうしてここに」瞬間、私はある違和感を覚えました。「……ってあれ?」


 これは自分の声じゃないーー。私の声はこれまで市松人形に取り憑いていた時とも違う、知らない女性の声になっていたのです。


「どうしたんだい、ツクモノちゃん」不思議そうに私の顔を見てくるぬらりひょんさん。

 私は変な心配を仰がないように、首を左右に振りました。「いえ、何でもありません」


 しかし全く聞いた事の無いと言えば、少し意味合いが違います。何故ならそれは、何処かで聞いた事のある声だったからです。そしてその声の主を記憶の中から探して、ハッとしました。

 そうだーー。私をカエデちゃんの居る場所まで導いてくれたあの、謎の声と同じ声なんです。そう考えると、色々な謎の答えが、未解明と言う鎖が外れて飛び出してきました。


 多分今のこの声、そして姿は、過去の私である光江花子のものなんだと思います。

 彼女は自分と同じ境遇に陥ってしまったカエデちゃんを、助けようと言う一心から私の記憶の奥底から這い上がって来た。そしてカエデちゃんが自分と同じ運命を辿らないようにと、光江花子は私に助言してくれたんです。


 すると疑問に思ってくるのはやはり、私がカエデちゃんの体に憑依して以降、光江花子の声は聴こえてこなくなったのは何故かと言う事でしょう。

 私が思うにそれは、おそらく魂の摩耗。魂の劣化が一番の原因だと思います。火事の時に培った記憶が幽体離脱の際、魂そのものの摩耗により消滅してしまった。そう考えるのが、今の私の想像力では限界でした。

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