第73話~境門界通~

~新宿・歌舞伎町~

~居酒屋「陽羽南ひばな」 歌舞伎町店~



 午前0時、閉店作業と片付けを終えた後。着替えも終えたサレオスが、心配そうな表情で僕達を見ていた。

 僕達はこれから、世界の狭間で秘術の行使に入る。あと地球基準で、一時間くらいは帰れないのだ。


「本当にいいんですか? 帰っちゃって……」

「はい。また明日、よろしくお願いします」


 こちらも普段着に着替えて、サレオスを見送る僕だ。にっこり笑って彼を帰らせる僕へと、不安そうな目を向けてくるサレオス。しかしここで留まっていても仕方がない、彼も彼で家に帰らなければならない。


「分かりました……じゃあその、お先に、失礼します」

「はい」


 ぺこりと頭を下げて、サレオスがこちらに背を向ける。それに僕達が揃って頷き、見送ろう、というところで。

 サレオスが振り返ってこちらに駆け寄ってきた。


「あ、あの……マウロさん?」

「ん、どうしましたか?」


 何かまだあっただろうか、と僕が首を傾げると。その僕の額に向かって、彼が目一杯右手を伸ばして言った。


「……その、えっと。明日またここで会いましょう、ね?」

「……? はい、ありがとうございます」


 その、あまりにも普通な、なんでもないような言葉。今更改めて言うほどのことでもないだろうに。

 そう言い残すと、サレオスは改めて踵を返してエレベーターに乗り込んでいく。僕が首を傾げたまま目を白黒させていると、話を聞いていたゴフィムが満足そうに笑った。


「……なるほど」

「どうしたんですか?」


 意味がわからないままに納得されて、さっぱり訳がわからない僕がサレオスに目を向ける。すると彼は僕の目を見つめ返しながら、指を立てつつ口を開いた。


「マウロさんに加護を与えたんですよ。あの短いやり取りの間で、結構強固な加護が付与されています。さすがは大悪魔ですね」

「そうなんですか? 特に何も感じませんけれど……」


 その言葉に、見つめられた目を見開く僕だ。加護だなんて、いつの間に。確かに彼は世界に名だたる大悪魔だし、この店で働いて一ヶ月以上になるから、魔力が回復してそういう事が出来ても不思議ではないが。しかし、悪魔から加護を貰うというのも冒険者としては複雑な気分である。

 全く実感を得られていない僕に、ゴフィムは目を細めながら返す。


「それもそうです、危機に陥った時に初めて効力を発揮する類の加護ですから。何か彼にも、察するところがあったのでしょう。前回の転移を見ていますからね」


 その言葉に僕は、なんとも言えない思いになる。

 確かにこの後、僕は危険に晒されるだろう。間違いなく。それに前回のチェルパへの一時帰還にあたって、サレオスには留守番を頼んでいた。その時同様ゴフィムがここにいるわけで、なにか察せられてもおかしい話ではない。

 でも、まだ言うわけにはいかないし、巻き込むわけにもいかないのだ。

 話が落ち着いたのを見計らって、ゴフィムがさっと手を空中に掲げる。音も立てずに開かれる、ノーティスへのホール


「さて、行きましょう。既に場はこちらで整えておきました」

「……はい」


 笑みを見せながらゴフィムがホールをくぐるのに続けて、僕達五人もその後に続き、異世界への扉に踏み込んだ。



~ワールドコード0「ノーティス」~



 ワールドコード0、世界の狭間の空間であるノーティスは、相変わらず暗闇と静寂に満ちていた。本当ならいろんな世界が星々のように見えるのだろうけれど、内なるホールを持たない僕達の目には映らない。

 ゴフィムが周囲を見回しながら口を開いた。


「ここは、いつ来ても音が無くて静かですね」

「そうですね……それで、場は整えてある、とのことですけれど」


 彼の頭を見下ろしながらそれとなく問いかける僕だ。果たして、ゴフィムの手が右方向にすっと伸ばされる。


「はい。あちらになります」


 彼が手で指し示した方向、空間のある一点に、光の円が何重にも刻まれて球を作っていた。

 結界だ。だがただの結界ではない。結界の内部が全く見えず、おまけに一つ一つの円である魔法の術式がとんでもなく濃い。

 アンバスとシフェールが、結界を見るや驚きの声を上げた。


「すげえ……なんて密度の結界だ」

「あんな……信じられない、何層張られているんだ?」


 信じられないと言いたげな二人に対し、ゴフィムはにこにこと笑いながら告げる。


「はい、X座標平面、Y座標平面、Z座標平面、T座標平面に、それぞれ五層ずつ。計二十層の結界が、ほぼ同一座標上に重なり合うようにして構築されています」


 彼の発した言葉に、魔法にあまり明るくないパスティータ以外の三人がひゅっと息を呑んだ。僕も同様だ。喉から引き攣った音が漏れるのを抑えられない。

 五層の結界が、あれだけの狭い範囲に重なるように。しかもそれを四軸に対してだから、物理的には同じ結界が四枚ずつ重なっているに等しい。なんて高度な。


「そんな、ハイレベルなことが……」

「信じられない……」


 僕の言葉に続いてエティが驚嘆の声を漏らす。唯一話についていけていないパスティータが、くいくいと僕のシャツの袖を引いた。


「マウロ、それってそこまですごいの?」


 彼女の問いかけに、僕は手で円を描きながら説明する。この状況を説明するのはなかなか、いや、かなり難しい。


「結界っていうのは、空間に理論的な断絶を引き起こすから、術にある程度の厚みが生じるんだ……ほぼ同一座標上に五層もの結界を張るなんて、術を極限まで薄くするか、それぞれの結界の性質を大きく変えるかして共存できるようにするしかしないと、あり得ない」


 なるべく伝わるように説明をすれば、パスティータの目が真ん丸に見開かれた。よかった、伝わった。

 そして僕の話を聞いていたゴフィムが大きく頷きながら、右手の手のひらを上に向ける。その手の上で光の柱が五本立ち上り、それが重なって、また離れる。


「そうですね。今回の結界はそれぞれ物質、霊魂、運動、位置、認識をそれぞれ遮断する形で結界を構築しております。T座標にも結界を構築していますし、運動を遮断する結界が張られておりますため、内部の様子は見えません。光も分子運動の一つですからね」


 彼の説明を耳にした僕達は、揃って息を呑みこんだ。

 厳重だ。厳重に過ぎる。触れることも見ることも、ましてや感じることも出来ない状況だなんて。

 僕達が驚愕に目を開く中、ゴフィムが笑みを消しながら僕を見た。その表情は真剣そのものだ。


「もう一度お伝えします。結界の中の様子は見えず、声も聞こえず、中にマウロさんがいるかどうかも分からなくなります。マウロさんから結界の外に対しても同様です。体感時間およそ三時間、肉体を苛む激痛と、たった一人で戦わなくてはなりません。失敗したら存在ごと、結界を圧縮して世界から抹消されます」


 ゴフィムは改めて僕に問うた。その覚悟があるのか、と。

 僕の答えはもう決まっている。ずっと前から決まっているのだ。すぐにこくりと頷きを返す。


「……分かっています」

「マウロ……」


 僕の袖を、エティが掴んだ。心配そうな目で僕を見上げてくる。

 ああ、僕は彼女に心配されている。隣を見ればパスティータも、後ろを見ればアンバスもシフェールも、同じように心配そうな目で僕を見ている。彼らにも、僕は心配されているのだ。

 彼ら彼女らだけではない。サレオスにも心配されている。だからああして僕に加護を授けたのだ。

 有り難いことだと思う。だからこそ、失敗する可能性は最初から考えていない。


「僕の決意は揺るぎません。僕が、まずやります。成功もさせてみせます。絶対に」


 僕は宣言した。しっかりと、はっきりと。その言葉を聞いたゴフィムが、満足したように頷く。


「いい決意です。それでは、結界の中へ」


 そのまま彼が僕へと手を差し出した。その手を取り、彼の後についていく。ゴフィムが結界に触れると、結界の一部に穴が空くように入口が開いた。中は、当然真っ暗だ。


「マウロ……!」

「マウロ!」


 後方から、エティとパスティータの、僕を呼ぶ声がする。振り返れば、彼女たちは目に涙をためながらこちらをじっと見つめていた。

 彼女たちも分かっているのだ。助けに入ることは出来ない、それは僕が許しはしないだろう、と。元よりそのつもりだ。まずは僕が先陣を切る。それがリーダーの役目だ。


「皆……」


 だから、僕は自身に満ちた笑顔を彼女たちに返して、手を握った。そのまま親指を立ててみせる。地球に来てから覚えた、サムズアップというやつだ。


「大丈夫だ。必ず戻る」


 そうして僕は結界の中に踏み入った。後方でシュッと音を立て、結界が閉じるのを感じる。これでもう、後戻りは出来ない。結界の中は真っ暗かと思っていたが、結界自体に明るさがあるためか、薄ぼんやりと明るかった。


「では、このリングを両手首と両足首にはめてください。これを起点に拘束を行います」

「はい……こうでいいですか」


 ゴフィムが差し出してきたのは、銀色に輝く四つのリングだ。手に取るとひんやりと冷たい。これを、両手首、そして靴を脱いで両足首に通す。それを確認したゴフィムが、結界の中の地面を指差した。


「よろしい。そのまま地面に横たわるようにして……そうです。では、拘束します」

「……はい」


 言われるがままに地面に横たわると、両手両足のリングが肌に密着するように締まった。その状態で僕の両腕はバンザイするように引っ張られ、両足もゆるく開いた状態で引っ張られる。拘束とはこういうことか。まるで馬引きの刑罰のようだが、その刑のように引きちぎられるほど引かれるわけではない。

 と、僕の身体が徐々に地面から浮かび始めた。ゴフィムの胸の高さほどまで浮かび上がって静止する。目の前にはゴフィムの、いつも以上に真剣な表情があった。


「それでは只今より、導師ゴフィムの名において、秘術『境門界通キョウモンカイツウ』執行を開始いたします。あなたに界王カイオウのお導きがあらんことを」


 そう告げて、ゴフィムの手が僕の身体に触れる。いよいよ、秘術の執行が開始された。



~第74話へ~

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