回想-1
彼こと
小学六年生であった彼が、夜道を歩くというと少しばかり危険な気もするけれど、これには少しばかり事情があった。のちのちそれは明らかにされるので、今は省かせてもらおう。
しかし、あのことがなければ彼は平和に生きていたのかも知れない、と思えてならない。というのも、ここで生じたロスタイムが結果的には彼女と出会う――出遭ってしまう大きな要因になったのだから。とはいえ、この遅れがなかったとしても彼が平々凡々の人生を送って果てたということはなかっただろう。どこかで何かに遭遇して、大きく日常を逸脱することになったに違いない。
彼とはそういう人間なのだ。ゆえにこれはただ遅いか速いかの違いである。
彼は夜道の街灯に照らされている何かを見た。数十メートル離れたところであるから、その姿は詳細ではない。彼にはただ黒い塊にしか見えなかった。
流石に、彼も
まさか誰かが倒れているんじゃないだろうな?
空木はそう思った瞬間、
はたして、そこには彼が思った通り人が倒れていた。
黒い塊だと彼が誤解したのは、その人の髪があまりにも長いためであった。光沢をもつそれが、人の全身を隠すようにして覆っていたのである。
そして、それは今もなお動いていた。少しずつであるが、しかし確かに。まるで何かから逃げるようであった。
街灯の外へ抜けると、その黒髪は夜の闇の中に溶け込んでしまって、目視で見つけることは叶わないように思えた。
空木はそれを見失わないうちに、声をかけた。
「大丈夫ですかっ!?」
しかし、彼の声に反応することなくそれは進んだ。まるで声が聞えていないかのような態度に、彼は腹を立てることなく根気強く声をかけ続けた。
しばらく――具体的には三回――声をかけると、流石に黒いそれも自分が声をかけられていることに気づいたのだろう。
「……なん、なの?」
振り返ってそう訊いてきた。
君の体調が優れてなさそうだったので。という事前に用意していた言葉は、喉の奥に吸い込まれていって、代わりに声にならない悲鳴が漏れた。
どうして彼がそのような反応を返したのか。――それは
胸から上はあるのだが、その下、お腹から足にかけては何もないのである。ただ、赤い液体が流れているだけであった。彼女が振り返ったことで分かったのだ。
鮮血――命の象徴。それが身体の外へ流れ出ている光景は、否応なく彼に死を連想させた。
実は、彼にはこの事態に気づくだけのヒントが容易されていた。と言うのも、街灯の方を見れば地面が赤く染まって、ぬめぬめと光っているのだ。いくら視界のきかないところであっても、注意深くそこを見れば異変に気づけたはずなのである。
とはいえ、小学六年生に対して、冷静に周りを見ろというのは少々無理な注文のような気もする。この場合は、おかしな人影を追っているという緊張感と正義感、それとわずかばかりの興奮があったのだから、なおさらである。
氷の入ったコップを揺すった時の音のように綺麗で、しかし、どこか冷ややかさを覚える声。それから、目鼻の整った美しい顔。それから髪の長さも考慮して、彼はその人が女であると判断した。
「きゅ、救急車……!」
パニックになりながら、救急車を呼ぼうとしたが、彼はスマートフォンはおろかガラケーすら所持していない。
なにぶん、六年以上前の話である。携帯電話を持っている小学生というのは田舎であるここにでは非常に珍しかったのだ。
混乱しながら、元来た道を引き返そうと思った少年の動きを、彼女は一言、
「……そんなこと、しなくていい」
とピシャリと断った。
「……私には、そんなことしても、無意味。だから、助けなくても、いい」
そう言って、再び向こうを見て歩き始める彼女。
その声に、冷や水をかけられたかのごとく頭を冷まされた彼は、ようやく彼女の異常さに気がついた。
人間が下半身を失った状態で、ああも動けるのだろうか。手の力だけで動き続けることができるのだろうか? 小学生である彼にもそれに答えるのは容易であった。断じて否なのである。
自分は、何かしらの怪異に遭った。とまで直接的な答をここで得たわけではなかったが、相手が人外であることは誰の目で見ても明らかであった。
いくら怪異が信じられない現代においても、このような現場を見てしまって、逃げない人はかなり少数であろう。無論、恐怖で身動きができないという状況はこの際考慮しないでおくが。
逃げないとすれば、好奇心が以上に強く、この原因を暴こうと考える愚者だけである。しかし、空木少年は、そのような理由で彼女に再び声をかけたのではなかった。
「あの……ボクにできることは、ありませんか?」
それは、恐怖心を
「……無駄。しなくていい」
彼の申し出を再び一蹴する彼女。だが、彼はその後も食い下がり続けた。
おそらく、彼女の立場からすればどうしてああも彼がしつこかったのか理解できなかっただろう。とはいえ、彼もまたどうして彼女が救いの手を突っぱね続けるのか理解できなかったはずだ。
暗闇の中、街灯の光が二人の間を別つようにして存在した。彼女の燃えるように赤い瞳が彼をキツく睨みつけた。でも、空木は動じなかった。戸惑いこそあったものの、困っている人を助けようとしている自分は正しいのだという思いが、彼を支えていたのだ。
結局、折れたのは彼女であった。
「……少し、あなたのことを食べさせて」
これを言えば、流石の彼でも逃げ出すだろう。と彼女は思ったに相違ない。でも、結論から言えば彼はこの言葉で逃げることはなかった。一瞬だけ、彼の心に
彼の中に巣くう正義感とは、それ程までに大きいのであった。
「分かりました」
彼は言った。それが当たり前な行動のように、手を差し出した。
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