1-14『生きるためには理由がいるか1』

 一夜が明けた。

 微睡みから覚醒した代介は、無言のまま自分の様子を確認する。

 周囲に誰もいない目覚めは久し振りな気がした。

 じっと右の手のひらを眺めてみる。


 ――日下代介は一度、命を落とした。


 それについて考えることを代介はどこかで放棄していた。

 腹に傷はなく、不調を感じるようなこともない。死にかけたことを証明するものは血で汚れたあの日の衣服くらいで、それさえもう着ないからと《法の雫》のアジトで捨ててきてしまった。

 何かが変わったという自覚に欠けている。

 あのときの痛みを、熱を、もう忘れそうになってしまっていた。



「――いくら魔術でも、死んだという事実を改変することはほとんど不可能なんだ」



 あの日、白の魔術書の管制人格――ケテルに言われたことを思い出す。


 彼女もまた、しるしと同じ命の恩人だ。

 もっとも、ケテルはあくまで人間ではなく、人の手で生み出された疑似人格――AIのようなものだと聞いているが。あそこまで感情豊かなら、そこに差異を見出せない。


「あのね。言ってみれば、わたしとマスターは融合しているみたいなものなの」


 ケテルは代介を死から救った方法を、そのように語った。

 しるしたち魔術師の驚きの表情からして、これはあり得ざる奇跡のようなものらしい。


「わたしの体でマスターの身体機能を補ってるの。わたしの体そのものを今、マスターの体として使ってる、って言ったほうがわかりやすいかな? もちろんわたしは、厳密には肉体を持っていないんだけど、だからこそこういう裏技が使えたわけ。いろんな条件が、奇跡的に重なったからこそだよね……もう少し、早く契約できてればよかったけど」


 代介を主人と仰ぎ、その下僕、道具、仕える存在であることを自らに課しているケテルは、そのことに負い目を感じているらしい。

 代介にしてみれば、感謝以外ないのだが。


「つまりね。――現状、わけ。自覚はないだろうけど、肉体はほとんど回復できていない。わたしの力でなんとか生命活動を継続して、魂の結合を保全しているから、ギリギリ生き残ったって感じ。まあでも、こうなっちゃえばあとは時間をかけて肉体を回復させるだけなんだ! マスターが死ぬことはありませんっ!」


 幸運だ。これ以上ない、というくらい。

 様々な要因が日下代介を死の瀬戸際で踏み止まらせた。


 だから代介も、その恩を返すことを考えると同時、死なないことを目的に置いている。

 助けられた以上、死ぬわけにはいかない。

 護衛を名目とした同居を断らなかったのも、結局のところ死にたくないから。それが最も大きな理由だ。


「ただ、ね。わたしの力は、これでほとんど使い果たしちゃってるの。だからマスターが完全に回復するまで、魔術の行使は厳禁なのです。わたしの残存魔力は空だし、マスター自身の魔力も回復以外には使えない。これを破ったら、その瞬間にお腹がパーンだよ!」


 この説明を最後にケテルは力を使い果たし、休眠状態に入った。

 ス魔術師デビューはお預けとなったが、その程度が命の対価ならばタダも同然。文句のつけどころがない。


 スマホを開いて時刻を確認する。

 午前八時を回っていた。学校は二日続けてサボることになる。


 しかし、これはいったいどうなっているのだろうか。

 電話料金は、もともと払っていたメーカーにそのまま払い続けるべきなのか。とりあえず充電ケーブルはこれまでの端子でそのまま使えたけれど、それ以前、これまでと同じ通信をしている気がしなかった。

 そもそも使っていないのだが。


「……なぜだろう。直感だけど解約してもこれまで通り使えそうな気が」


 いや、でもそれどうなんだろう? 法律的にいいんだろうか。

 そんなことを考えて、結局のところ今は放っておこうがとりあえずの結論だ。

 さすがにずっと休み続けているわけにもいかないのだから、今日は方針をしるしに確認したい。


 ――魔術書の所有者に協力してもらいたいこととは何か。


 魔術を使えないとなった以上、前提が変わってきそうな気もするけれど。

 ていうか役に立てるのだろうか。だって何もできないのに。


 ……雫は、今もまだ怒っているだろうか。


 着替えて、代介は自室から出る。洗面所で顔を洗った。

 しるしはまだ起きてこない。

 寝かせておいてあげるべきか、それとも起こすべきか。

 以前、同じことで迷ったときは起こしたけど。


「……とりあえず行くか」


 しるしには二階のいちばん奥の部屋を貸してある。

 昨夜は零時を過ぎるくらいまで、家中のあちこちに魔術の防護を施していた。具体的に何をしているのか、代介にもいまいちわからなかったけれど。

 見た限り、古代中国より伝わる《禁術》だったり、ヨーロッパ系の儀式場の構築などをアレンジした魔術であるように思う。

 なにぶん、準備を整えるなりスマホでぱっと行ってしまうため、代介の知識でも見抜くのはなかなか難しかった。

 黒狗の襲撃を防ぐことができたこと自体、本当に奇跡だったらしい。


 しるしの部屋の前に立ち、扉を数回、ノックしようとする――その寸前で止まった。

 耳を澄ますと、わずかだが聞こえてくる声があったのだ。


『――は、――よ。本当に――、だね、君は――』


 音が小さすぎていまいち聞き取りづらい。外から届く小鳥の囀りや、自動車の駆動音に負ける程度の音量だ。


 だが、――それが女性しるしの声でないことだけは間違いない。


 音楽を流している、わけでもない。明らかに歌ではなく言葉を喋っているし、そもそも声だけで楽器の音はしていない。

 誰かが小声で喋っているのだ。


「……、っ」


 誰かが、いるらしい。


 今の状況で、楽観的に構える気にはなれなかった。代介は息を呑む。

 自分が襲撃される可能性があることは知ってあるのだ。

 そう簡単に代介の存在に気づく者はいないとも聞いていたが、相手は魔術師、どんな裏技を使うか知れたものじゃない。

 ノックをする前に気がつけてよかった。

 向こうは、おそらくまだ代介が来ていると気づいていない。


「……」


 代介は音を立てず、息を吸い――それから吐いた。深呼吸で心を落ち着ける。

 自分がスマホを持っていることも再確認。使うことはできないが、持っているだけでも牽制にはなるし、万が一の場合にはケテルを無理やり呼び寄せることも考えている。


 三秒。代介は頭の中で数えた。

 声はまだ届いている。およそ魔術師は話したがりが多いらしい。

 やるなら、気づかれないうちに先制だ。


 扉を押し開き――代介は一気に部屋の中へ飛び込んだ。


 誰もいなかった。


「――っ!」


 油断なく構える代介。相手は魔術師だ、透明になるくらいやってのけるだろう。魔術の存在だけなら代介だって知っていた。

 わずかでも気配を感じたら動こうと、油断なく辺りを見回す代介。

 その耳に再び――端正な男の声が響いてきた。


 敷かれた布団のすぐ脇に置かれているCDコンポからだ。




『仔猫ちゃん。ほぅら、俺様の胸でゆっくり休みな? 大丈夫、お前のがんばりは俺様がしっかり見てたからよ……今だけは、俺様の腕で癒されてくれていいぜぇ?』




「――――――――――――――――――――――――――――――――――えっ」


 代介は言葉をなくした。

 代わりにCDが言葉を流している。



『おぉっと、おいおい。そんなに勢いよく飛び込んでくるなよ。俺様じゃなかったら受け止めきれなかったかもしれねぇぜ? 何? 俺様以外にこんなことしない? はっ、当然だろ? お前を受け止めてやれんのは俺様だけ――もう、どこにも行くんじゃねえぞ?』



 ――――――――――――――――やっべえ。

 以外に感想などないし持ちたくないし今すぐ見なかったことにしてしまいたい。


 え、そうなの? 意外と小糸さん、俺様系が好みだったりするの?

 いつも胃が痛いと言っている割には結構、振り回されたかったりするの?

 そういうものなの女子って?

 混乱する代介。

 今、少年は生涯で最も狼狽えていると言っていい。


 一方――小糸しるしはものすごく癒された表情でとても幸せそうに眠っていた。

 自己承認欲求がイケメンのボイスによって最高に満たされていらっしゃるようだった。



『俺様とずっといっしょにいろよ……これは命令だぜ? はっ、逆らうなんて許さねえ。お前が俺様をこんな風にしたんだ、責任は取ってもらうからな――俺様はもう、お前なしじゃ生きていけなくなっちまったんだよ……愛してるぜ。お前の、全てをな――』



 悪かった。

 俺が悪かったから。

 許してくれ。

 そこまで追い詰める気はなかったんだ。

 え、わかんない。どうなんだろう? こういう強気な男が弱みを見せるところになんだそのこうキュンってするとかってことなんだろうかわっかんねえなどうしよう本当に何もわからない特に今この場をどうやり過ごしてこれからどう接すべきなのかがわかんない。


 代介は動けなくなっていた。

 それでも、CDから響く耽美な男性の声は続いていた。



『――おーい、せーんぱい。せーん、ぱいっ! あっれれえー? まったく先輩ったら、部室で寝るなんて無防備だなあ。でも、ぼくは先輩のそういうところが好きなんだけど! 先輩、いつもがんばってるから疲れちゃったんですよね! まっかせて! 僕がちゃーんと、先輩が起きるまで、こうして見守ってますからね! いつもお疲れ様、――先輩』



 声が変わったー!

 別の男に切り替わったあ――!

 俺様系からなんか小動物系の後輩男子にシチュエーションが変更されている――っ!?


 その衝撃が代介の意識を現実に連れ戻した。


「……はっ、言ってる場合じゃない。部屋を出ねえと……」

『あははっ! いったいどんな夢見てるんですかー、せーんぱいっ?』


 うるせえよ。知らねえよ。

 夢ならよかったと今ものすごい思ってるよ。

 心の中で突っ込みながら、音を立てないようゆっくり部屋を出ようとする代介。


 だが。

 その瞳に、映ってはならないあるものが映ってしまった。

 それが運命の分かれ目だったのだ。


 このとき彼が見つけたもの。

 それは、おそらくあの大量の荷物の中に紛れていたのだろう、この謎のCDのケースである。

 その表面を、代介は不覚にも見てしまったのだ。――すなわち、



『満たされないわたしを認めてくれる癒やしのイケメンボイス集(手書き)』、と。



「――じ、じさ、自作ぅ……っ!!」


 噴き出してしまう寸前でギリギリ堪えた。

 代介の窮地における冷静かつ強靭な精神制御、魔術師の才が為し得た奇跡と言えよう。


 どうしよう、この子、お気に入りの声を収録した自分だけのボイス集を自ら編集して、しかもこの家まで持ち込んでいらっしゃる。よく考えたらコンポごと持ってきてる。

 これで笑わなかったことが代介の起こした奇跡だった。

 よく耐えた、と。そう褒められていい。

 まさしくこれは偉業だった。



「――なんで日下さんが、ここに、いるんですか……?」



 まあ、しるしが自力で目覚めていなければの話なのだが。

 いくら代介が耐えようと、本人がとっくに起きているのだから無駄な努力だ。


「な、なんで、わたしの……どう、して」


 顔を真っ赤にして涙目になって震えながら状況を考えるしるし。


「――え。いや、……その」


 どう説明したものかと必死で考える代介。


『あっ、起きましたか、先輩っ! へっへへ、寝ている先輩、かわいかったですよ?』


 そして信じがたいほど絶妙のタイミングで余計なことを抜かす後輩(CD)。

 トドメだった。


「あ、あっ――あ、いや、これはそのっ、日下さ、違、う――あっ、ああっ――」




 この直後。

 しるしの絶叫が、朝の日下邸に轟いたことは言うまでもないだろう。

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