第4話 むこうでのはなし

 わたしは、だれ?


 …………レミ?


 いいえ。



 わたしは……ワタシは……私は……。



 …………リズ?


 ……………………シロイシ、リズ?


 

****************************




「……で、申し送りは、以上です」

「はい。……申し送り受けました」

 日勤リーダーが申し送り事項を書き留めて頷く姿を見て、私はホッと気が抜ける。

 勤務が終わった安心感で、急激に気だるさが襲いかかってくる。


 夜勤明けは病棟勤務で一番疲れるけれど、どこか満ち足りた心地よさがある。


「今朝は大変でしたね。ホントお疲れ様でした」

「ありがとね。でも、早番さんが来てくれた後だったから。昨日のうちにご家族も面会してくれていたし、朝も何とか最期に間に合ったし」


 昨日の日中からバイタルサインが低下しはじめた高齢の患者さんで、主だった家族は昨夜までに面会し、早朝呼吸状態が悪化したあとも、電話呼び出しですぐ娘さん夫婦が駆けつけてくれた。

 今夜が峠、とこまめに訪室して観察し、早めに対応できたおかげで、夜勤帯の手薄な時間ではあったものの、それなりに落ち着いて対応できた。


「白石、明け?」

 勤務を終え、あくびをかみ殺しながらロッカー室に向かうと、入り口で同期の町田に会った。

「そう。お町は、あ……遅出?」

 一瞬夜勤明けかと思い、ふと気付いて言い直す。

「そ、1時間でも遅く入れて助かるよ」

 一緒にロッカー室に入り、手前にある町田のロッカー前で立ち止まる。ロッカーの表示は「富岡」だ。

 「町田」は旧姓で、結婚して「富岡」になってる。

「でも短時間勤務だとお給料減るでしょ?」

「まあ、それは仕方ないね。院内保育所とはいえ、早朝保育使えば延長料金取られるし。余所よりは安いけどね。でも、朝少しゆっくりできるのは、マジ助かる。体温高い時に病児保育に切り替えるにも、準備する余裕あるし」

 院内保育所に病児保育所も併設しているので、うちの病院はかなり離職率が低い。

 しかも小学校低学年までは、時間差出勤や夜勤免除、短時間勤務も希望すれば組んでもらえるので、結婚出産後も働きやすいと評判がよい。


「白石も早く誰か見つけて、また結婚しちゃえば?」

「いや、もうしばらくいいかな……」

 夜勤明けの半分眠った頭では、上手い返しが見つからない。そもそも話題をふったのが間違いだったのだが。

「まあ他業種は、なかなか難しいかもね。今度は同業にしなよ。旦那の友達紹介しようか?」

「あーたの旦那の友達だと、下手したらアラフィフじゃん。いくらドクターでもなあ」

「しかたないじゃん。同年代の医師は私らみたいな30過ぎのおばさんは相手にしないわよ。新人の20代の子がいいんだから。ナース歴10年超えのベテランに尻に敷かれて喜ぶタイプなら別だけど。うちだって15歳差よ」

「29歳と44歳は許せても、35と50は何か嫌なのよ」

「バツイチなんだから、そこら辺は飲み込まなくちゃ」

「うるさいなあ、人の傷口にグイグイ塩塗ってないで、早く仕事行きなよ」

「はーい、行ってきまーす」


 町田(旧姓)の旦那さんは、前にこの病院に大学病院から派遣されていた医師で、今は隣町の総合病院で勤務している。正直、町田が子供を保育所に預けてまで働く必要はない経済状態だと思うんだけど、同期の中では頭ひとつ飛び抜けて最速で副主任まで昇格し、出産でキャリアが途切れなければ、今は主任になっていたかもしれない町田にとっては、働き続けるのは経済的な理由ではないんだろう。


 きっと、育児が一段落してフルタイムに戻ったら、再びキャリアアップに邁進するんだろうな。

 そんな意識の高さを旦那さんも応援しているみたいだし。おっとりのんびりしたお坊ちゃんタイプだったけど、医者家系ではない。でも、独立して経営に煩わされるよりも、勤務医として臨床に専念したい、妻にも、自分の人生に最良の選択をして欲しい、と。まさかそんな考え方ができる優良物件とは思ってなかった。

 さすがに仕事がデキる女は、男を視る目もあるね。

 うちの元旦那に比べたら、聖人みたいな人だよ。


 うちの元旦那……高校の同級生で、同級会で再会して、何となく意気投合して、付き合いはじめて。

 お互い30歳だし、結婚しちゃおうか、なんて勢いで、スピード結婚。

 付き合っている時は、よかったんだけどね。

 銀行の営業マンで、白衣に見慣れた目には、スーツでバリバリ仕事する姿がカッコよくて。

 もし結婚後に転勤になっても、看護師だからどこでも働けるよー、ついていくよー、なんて盛り上がって。


 まさか、結婚して半年で、夜は家にいてほしい、土日は休んでほしい、なんて言い出すとは思わなかった。


璃朱リズ、身体が大変だろう? 昼間は寝てばっかりだって社宅の奥さんの噂になっているみたいだぞ?」


 まあ、そりゃ夜勤前や夜勤明けは、寝ないと身体もたないし。

 明けの日に奥様方の井戸端会議の横を通りかかった時に、寝ぼけまなこで挨拶したら「大変なお仕事だものね。早く休んで」って労ってもらったこともあったけど。

 別に白い目で見られるような雰囲気じゃなかったけどな。


「お前にそんな無理はしてほしくないんだ。それに、やっぱり、帰ったら璃朱には家にいてほしいな、って」

 

 まだ新婚フィルターがかかっていたので、寂しそうにそう言われて、キュンとして。


「仕事、辞めよっか?」


 何となく、話の流れで口にしてみたけど、本気で辞める気はなかった。

 まあ、いずれ子供が出来たら、その選択も考えないではなかったけど。

 資格さえあれば、再就職もなんとかなるって楽天的に考えていた部分もあったし。

 だから仕事をやめて専業主婦になってほしいのなら、『愛する旦那さま』のために家に入ることも厭わないよ、というノリだったんだけど。


 その瞬間、鬼の形相になった、元旦那。


「俺に寄生する気か?!」


 そして滔々と持論を語り始めた。


 曰く。


 このご時世、仕事がどうなるか分からないし、妻にも収入は得てほしいし、できれば同じくらい稼いでほしい。

 でも、自分が家にいる時は、主婦として勤めを果たしてほしい。


 ……なんじゃそりゃ?


 はっきり言って、夜勤ガッツリやって手当てもらって、ボーナスも入れて、やっと旦那と同程度か、少し欠けるぐらい。

 ちまちま日勤だけで、そんなに稼げるわけがない。

 うちの病院は福利厚生がかなりよいし、残業少ないし、今のところボーナスも欠かさず出てるけど、他の病院では人手不足で残業も多い上、経営が微妙でボーナスカットなんて話も聞くし。


 まあ、家事は完璧じゃないかもしれないけど、仕事とは両立させているつもりだった。

 それも不満なのかと思っただけなのに「俺に寄生する気か」なんて言われて。


 呆れてものが言えないでいる私。論破したぞってドヤ顔の元旦那を見ていたら、愛情度数は急降下。

 急速凍結してドライアイスレベル。


 それまでの愛情という名のウロコが目から落ちて、沸々と怒りが沸き上がり。


 むしろ、寄生してるのはあんたでしょうが!

 旦那の社宅に入っていたので、家賃(格安!)光熱費は給料天引きだけど、食費をはじめその他諸々の費用は私が払っていたし。


 家事全般私の担当で、社宅に備え付けのダストボックスがいつでもゴミ出し可だったので、「仕事でいないからお願い」なんてことはできず。

「営業マンにとってスーツは命だ」って言って、ワイシャツまで全部クリーニングに出すのはいいけど(私もアイロンがけはあまり得意でなかったし)、費用は全て私もち。車でお出掛けすればガソリン代も高速代も私もち(私は自転車通勤)。

 夜勤明けで帰りにスーパー寄って食材やらを買い足しクリーニングを引き取り、家に着くと、テーブルに置いてある使用済みの食器を洗い(せめて流しに置いて水に浸けて欲しい)、寝室に散乱した衣類を洗濯機に入れ(せめてまとめて欲しい、わざわざ寝室にランドリーボックス置いたのに何故入れない?)、入浴しながらお風呂掃除をして(なんでいつも、シャワーから水がポタポタ流れているかな?)、洗濯機をまわしている合間に掃除をして、洗濯物干して、料理の下ごしらえして、やっと一眠り。


 元旦那は残業してくることも多かったので、夕飯は遅めだったし、子供がいないから、やるだけやっておけば、休む時間も取れたから、家事専業も、ものすごい負担ってことはなかった。

 ちょいちょい、カッコ内の小さい要望やら疑問点が頭を巡りながらも、「まあ、仕方ないか、男なんてこんなもんよね」と自分を納得させていたけど。


 それがダメ男を育てていたのかも。


 ……まあ一番は、結局私の男を視る目が、なかったんだろうね。


 そう判断した私は、即行動した。


「寄生する気はないし、させる気もない。離婚しましょう」


 あの時の、ポカンとした元旦那の顔は見物だったな。


 で。


 多少ごねていたけど、結局、結婚1年を待たず離婚。期間も短いので財産分与なし、慰謝料なし、性格の不一致を理由に。最近は銀行員の離婚も珍しくなかったし、「看護師の妻と生活がすれ違い……」と言えば周りも納得していたようで(世の看護師には失礼な話!)。


 円満、とは行かなかったのは、その後で元旦那が再構築を求めて、プチストーカー化してしまったから。

 離婚して3カ月位から1年近く、「やり直したい」「俺が間違っていた」と、メールだけだったけど、復縁攻撃が続いた。


 知り合いから聞いた話だと、まず独身になったので社宅(家族用)を出ることになった。通勤に時間のかかる実家に戻りたくないと、近くにアパートを探して入居したそうなんだけど。代わりに住居手当が出るので、そこまで金額が跳ね上がったわけでもないけど、天引きだったのが、別払いになったのに、口座にあるだけ使ってたら足りなくなった(っていうか、一応銀行員なのに、なにそのどんぶり勘定な経済観念)。


 実家暮らしから夫婦生活にスライドして、結果的に自活したことがなかったし、料理や洗濯は外食やクリーニングで済ませても、家の維持は難しく。

 元旦那の母親、つまり元姑は、そこまで嫁に干渉する人ではなく、まあ、悪い人ではなかった。けど、同時に、そこまで息子の世話を焼く人でもなかったので、わざわざ家事をしに来てくれる、ということもなかったらしい。


 結局、アパートまで家事に行くのはイヤ、という母親を説得出来ず、実家暮らしに戻ったらそうなんだけど。

 さすがに給料使い果たしちゃうような息子に危機感を持ったのか、今後は生活費を入れなさい、クリーニングやら車の維持費やら雑費も払いなさい、と言われ、ますます困窮し。別れた後で、私の有り難みが分かったらしい(というか、私の存在価値はお財布と家政婦機能だけなんじゃないか)。


「早く離れられてよかったね」なんて慰めてもらって、「その通り」という思いと、「なんであんなのに引っ掛かってしまったのか」という1年半前の自分を殴りたい気持ちのゴチャゴチャ状態。

 そこにメール攻撃がしばらく続き、ブロックしてもメアド変えても、今度は電話番号使ってメッセージ送ってきて、スマホも買い換えて番号も変えたいけど、多方面に連絡するのも煩雑で……と悩んでいるうちに、メールも来なくなった。どうもお見合いしたらしい。


 と、まあ、こんな出来事に懲りてしまい、もう結婚はこりごりだ、仕事に燃えるぞー、自分のために生きるぞー、とかやってるうちに、5年がたち、もうすぐ36歳だし。

 色々考えていたら、目が冴えてきちゃったので、とりあえずシャワー……ううん、せっかくだからお湯ためて、お風呂にしよう。

 自分のために、ピカピカに磨いておいた浴槽にたっぷりお湯を溜め、汗を流し、ゆったりとお湯に浸かると、とたんに眠気が襲う。


 あー、気持ちいい……このまま眠っちゃいそう……プクプク……。


 

 

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