第22話

≪太陽暦:三〇五六年 十一月三十日 〇一:四七 廃殻¨大羿¨開発区≫


 その後も、休まる時間は無かった。武牢が倒れた後、莫琉珂の――はじめ炉那へ喚きたてていたが、負傷した亜粋を見た途端に今度は泣きだした――機蟲に全員が乗って帰投した彼らを待ち受けていたのは、いまだ銃声の途絶えぬ開発区。

 壊都自警たちは未だ鎮圧される気配は無く、そして開発工員たちの防壁もほとんど皮一枚でしのいでいる。絶え間なく蛮風の黄金翅が飛び交うが、元より的の小さいものには向かないのだろう、装甲車や機蟲は容易に打倒せても、地を這ってかける傭兵たちには狙いがつかない。

 しかして圧倒されるのは、黄金翅によって装甲車や機銃を破壊されても尚白兵戦で向かってくる彼らの執念だ。窮地のコヨーテが見せる獰猛な獣性というべきか、あの武牢という凶暴な独裁者に訓練されたが故だろう、その熱気は収まるところを知らない。

 これはアルナの誤算であり、団子蟲の形態となった鎧・零七式の下で彼女は歯噛みする。これでは放送台にたどり着き、武牢の死を彼らに宣告したとしても彼らが止まるとは思えない。むしろ、もはや退路無しと悟り、自害にも等しい特攻をかけてくるかもしれない。武牢という男の、最悪の置き土産といえよう。

 だが、ここで時間を浪費している間に、大羿内で防衛戦を続けている彼らの身は困窮していくばかりだ――一か八かの賭けに出るつもりで、アルナは炉那を連れ一歩放送台に出る。


 その、一拍前。放送台に設置された大型メガフォンが不快なノイズで嘶く。

 誰かが放送台を使っている?アルナが面を放送台へ上げた瞬間に、放送台にいた七三頭にスーツ姿の男は、女々しい悲鳴にも似た声でこの場の全員に通告した。

『無駄な戦闘は、おやめなさーーい!もうあなた達は無力です!――先ほど、“千年宗家”より詔が下りました!』

 千年宗家、その名を聞いた途端に、人々は静止した。

『“タイヨウを討ちたるはが宿願 何人たりとも此れを侵すこと認めず”―――この計画は、月都千年宗家ヶ当主森羅幻日猊下げつとせんねんそうけがとうしゅしんらげんじつげいかに認められ奉るということ!千年宗家が、とうとう私たちを正式に支えるといったのだぞ!』

 拡声台がそう喚きたてれば――壊都自警も、工員たちも、そして炉那とアルナすら、しんと二の句も告げぬままその場に棒立ちすることとなる。


“千年宗家”。恐らくは月都で最も古く、そして貴き血。前文明に月都の礎を造りし“大玲君ヶツキヒ”の直系であり、政権を月都議会へと奉還した現在ですらその一挙一動は月都の重鎮たちを動かす。実質的に月都随一の権能と畏敬を集める血族集団。

 ともすれば壊都自警の後ろ盾となる貴族階級すらも一蹴するに足る地位であり、恐らくはその後ろ盾が士気の一端となっていたであろう、壊都自警の襲撃者たちは一人、また一人と銃を地に捨て、投降していく。

 その様を、アルナも炉那もただ茫然と見ていた。

 真に恐るべきは銃弾でも逸脱機でもなく、この世を包み込む権威ということか。


「北辰太陽官~~~~~!!!」

 放送台より百道がその七三を振り乱しながら駆け付け、蒼白な顔面のまま過呼吸気味に口を開いては閉じる。今日は壊都の中枢部へと定時連絡へ行っていた彼であったが、その時にこの詔を得たのだろう。権威に弱い彼は、もはや心身共に衝撃の内にあるといった様子だった。

「き、聞きましたか!?せ、千年宗家が、つ、ついに、私たちを」

「はい、わかりましたから、はいっ!」

 百道同様アルナもただならぬ驚愕を受けたが、この波を利用せぬ手はない。壊都自警の戦意が喪失した今、動かない手はない。

 アルナは衆目の中に一歩踏み出した。

 だが、その腕を炉那が掴む。振り返れば、何故か彼は自分のことを測るようにじっと見ていた。そしてそののちに、宿舎の方へと腕を引いていく。

「えっ……ちょっと、炉那。まだ事態の収拾が」

「百道。まかせたぞ」

「承知いたし……なんで貴方が私に命令するのですかっ!?」

 百道は甲高い声で喚くが、不満げながら大羿の足元へかけ、襲撃者の拘束や負傷者の救援を手早く指示していく。面子よりも必要性を優先させた上に、その手際は整然としており、やはり副官としての優秀さは疑いようがない。

 あいつならば後はうまくやってくれるだろうと炉那は頷き、躊躇うアルナを半場強引に引きずっていった。戻りつつある活気と喧騒、惨禍に奪われた安寧と歓声の中から連れ出して、比較的無事だった宿舎の裏手へ。

 大羿で響く工員たちの声が遠く聞こえる宿舎の陰に、炉那はアルナをぐいと座らせた。ここまでは困惑しつつ付いてきたアルナだが、今は焦り、少しだけ憤慨したような様子で立ち上がろうとする。

「炉那!私はまだやらなきゃいけないことが」

「百道や蛮風に任せておけ。あいつらだってお前ほどじゃないがよくやる」

 そんな彼女の肩を掴んで座らせると、炉那もまたその傍らに腰かけ、深く息を吐いた。アルナはまだ、ざわめく気持ちの抑えどころがないかのように、不安げに視線を背後に向けている。

「そうはいっても……!太陽官である私が休んでいるわけにはいかないし、私もいたほうが効率だって」

「アルナ」

 視線を揺らす彼女の名を呼び、その目を己の目と合わす。炉那の真剣な眼差しに気圧されたのか、アルナはぴたりと止まり、彼の二の句を待った。

 言わなきゃならない、と炉那は認めた。これを言うことはきっと残酷なことなのだろう、彼女が隠しているものを剥ぎ取り、真宵の凍えた月光に晒す行為なのだろう。だが、言わなきゃ彼女は止まらないし、このままいつか燃え尽きてしまう。

 躊躇いを拭い去るように一つ、息を吸い、炉那はアルナの瞳に真向かった。

「もうお前ができることはないんだ。アルナ」


 もし彼女の心に重厚で強固な錠前が付いていたとしたら、この瞬間に、甲高い開錠音が響いただろう。それまで張りつめていた彼女の顔から、糸が離れたかのように表情が消え、呆然と少年を見る。

 確かにアルナが今から現場に向かい事態の収拾に参加すれば、指導者を得たことで作業は迅速となるかもしれない。だがそれは百道でも蛮風でもいい。今、表面的にはそう見えないが、疲弊しきった彼女に比べれば彼らの方が遥かに能率がいいだろう。

 そも、連れ去られ死の危険をくぐり抜けた後に、十分な体力があるはずがない。そしてそのことは賢明なアルナならはわかって当然なはずだ――いや、無意識的に忘れているのだろう。疲れも、恐れも。

「駄目……」

 炉那の放った言葉を聞いた途端、アルナの、幾重にも幾重にも絹切れを巻き封をしていた本心が、

「だめ……だめだよ……」

今繕いの全てを引き裂いて、抑えた感情を爆ぜさせる。

「――――だめっ……もう、わたし、いやだ、やだよ、こんな毎日!」


 そこからはもうアルナは常なる毅然とした態度も、瞳に宿した不動の意志も全て投げ捨てて、荒原に只一人肩を震わせ滂沱する齢17の少女となった。銃火と暴力への恐怖を、奸計と謀略への恐怖を、嘲笑と猜疑心への恐怖を、ただただ正直に哭し続ける少女となった。

 むしろこれがあるべき姿だ。常なるタイヨウ撃墜という目的に対し、一切の畏れも迷いも諦念もなく、過ちの無きよう細心し、道理を逸せぬよう常に自戒する。そして、ただ一心に進んでいく流星のような様が、心に世界への叛意を隠していたものを惹きつけていたのだ。だが、それは彼女としては極度の緊張状態にあるものだ。

 炉那は知っている。武牢を前にしても勇敢に戦い、策を弄していた彼女が――炉那を支えていたその時、今にも爆ぜそうなほどに心臓を高鳴らせていたことを。

 きっと彼女は、目的のため動き続けることで己を苛む精神的不安から逃げ続けていたのだろう。人は何かをしていれば忘れられる。仕事をしていれば、思考しつづけていれば、闘い続けていれば。

 だが逆を言えば、止まったとき、休んだとき、逃げたとき――敵の巨影に対する恐怖は、誰かの期待と疑心に対する不安が、誰かを助けられなかった無力感が、一度に心をかみつぶしてしまう。だから、アルナは行動し続ける。

 炉那は、アルナは強いから何も恐れていないと思っていた。だが違った。彼女は喚く心を、必死に抑え込んでいたのだ。精神的不安すらも燃料にし前進し続ける、それはもはやアルナの能力とすらなっているのだろう。だが、それはいつか破綻する生き方だ。太陽のフレアを奔る彗星がやがて擦り切れ果てるように。

 そうなるのは、この少女が悲願を達した後か、その先が。だがいつであろうが、炉那が見たいものはそれじゃない。

「やだ、もう、全部、いやなの」

 そして今、もはやできることはなく、止まらざるを得ない彼女は、逃げ続けていた全ての悪感情の奔流に、溺れている最中なのだろう。

 涙の時雨の合間合間に、熱を孕んだ言葉が零れ落ちる。正しく文にすらならない、彼女の心の摩擦。きっと、進み続けるたびに生まれ、消すことはできないもの。

「……ああ」

 だから、誰かが受け止めてあげるべきもの。炉那は、アルナの嗚咽をただじっと、傍にいて聞き続ける。

「どれだけ、頑張ってても、考え尽くしても、間違いは起こるの」

「ああ」

「そのたびに、私って無力だって、思い知らされるの」

「ああ」

「それ、なのに、世界は、ちっとも私を待ってくれなくて、私を騙し続けるの。みんなが、私を、笑い続けるの」

「ああ」

「もう、誰も信じられなくなりそう。もう、自分が嫌いになった、もう……この世界なんて、要らないと思ってしまいそうなの!」

「思ってもいい」

 白金糸の繻子が揺れ、アルナの滲んた瞳が炉那を見る。

「思ってもいい。叫んでもいい。そういう弱い感情を、完全に拭い去れるわけないだろ……お前は自分に厳しすぎるんだよ」

 気づけば、少し説教臭くなってたからか、アルナが再び肩を落とし、顔に影を落とす。しまった。やはりこういうとき上手く言葉を選べない己を、炉那は足蹴にしてやりたかった。

 あるいは、言葉では幾ら重ねても限界があるのかもしれない。

 ゆっくりと、軋む音が聞こえそうなほどぎこちなく、炉那の左腕が上がる。

 アルナがそれにびくりと身体を震わすと、それを抑えるかのように、その手が彼女の肩に触れた。

「…………弱音くらい、聞かせてくれよ。俺だって、そんくらいはできる」

 その、なんとか絞り出したような、途切れ途切れの言葉を耳にして、アルナは初めて炉那が自身の肩を抱いてくれようとしているのだと気づいた。そして本当に今になって、淡白だった彼が、自分に対しても優しく励ましてくれようとしているのだと、気づいた。

 彼女が忘れようとしていたこの世界の残忍性の只中で、彼だけは脆い己の肩を抱きしめ、身を撃つ驟雨と心を錆びさせる夜風から守ってくれるというのだ。いつか来る、心の夜明けまで。

 今、自分に強張ったまま触れているのは、千の膂力を持つ逸脱機でない、肉の腕であるはずなのに、この一本が、周囲の全てから己を守ってくれる大樹のように思えて、アルナはついに糸がほどけたように、その腕にもたれた。びくり、と炉那が驚いたように飛び上がる。

「……炉那」

「あ、ああ」

「ありがとう。本当に、ありがとね……貴方がそういってくれるなら、私は、貴方に甘えちゃう。太陽官じゃなくて、情けなくて、強がりなアルナになるわ」

 そして自分を囲むその全てへ、肺が潰れ喉が枯れるまでありったけ喚き続けて

 見てろ、今にお前らを変えてやる。そう言えるくらい元気になるまで。


「……好きにしろ。アルナ」

「ふふ、やっぱり優しいね、炉那は」

「やめろ」

「……照れてる?」

「やめろ」

「えへへへ、なんだかちょっと、かわ」

「アルナ」

「はい」

「……俺も、話したいことがある。お前が元気になったらでいい。俺の、生まれた村の話なんだ」



 未明の大陸を、乾いた風が駆け抜ける。

 地を撫で空を貫くその風の只中、大羿の巨影を背後にし、蛮風は煙草に火をつけた。

 その足元には無数の装甲車の残骸。あるいは、どこから持ち出されたか自律式の全鋼機蟲や旧式戦車の、その威容が失墜した姿。

 それらを積んだ小丘の上、大羿の足元にある宿舎の方角を眺めながら、彼はさも愉快そうに喉を鳴らした。

「かかかっ!なんだあのぎこちなさ!あいつ童貞か!?いや知ってるけど!」

 一頻り教え子の姿に腹を抱えた後、ふうと息を漏らす。

「そうか。炉那、お前もこの世界に中指立てられるようになったか……まさか、あの嬢ちゃんがその引き金になるとはなあ」

 大羿から振り返り、東の地に顔を向ける。彼方に見える地平線、夜の裂け目をじっと睨む。

「だが“千年宗家”が動いたってなら……もう“始まってる”。じっくりと、とんでもなくでかい存在がゆっくりとお前らを掴みに来るぜ。果たしてお前らはそれに気づけるか?避けることができるか?」

 そのやつれた顔に、刃のような気迫が灯る。

「その分水嶺は……お前らが、“タイヨウ”から目を逸らさずにいられるか、だぜ、少年少女」


 視線の先ではもはや夜は裂け、開闢の息吹が地を包む。夜は明けて、再び熱砂の世界が戻ってくる。

 だが――“タイヨウ”を撃ち落とす巨砲の下、重機の駆動音、鉄と鉄がかち合う響き、人々の喧騒が少しずつ大きくなり始めていた。

 次なる世界の、跫音のように。

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