第18話

≪太陽暦:三〇五六年 十一月三十日 二四:四六 廃殻¨大羿¨内部≫


「まいったねこりゃ」

 蛮風は片眉を上げた。彼が睥睨する先では、大羿の大伽藍の内部、冷たい白亜の床の内に傷ついた人々が横たえられている。誰もが先の襲撃から逃げ延びた廃殻の工員や月都の技術者だ。

 あるものは呻き、あるものは泣き、あるものは銃を取って奮起し、あるものはそんな彼らを無駄だと宥めている。そして特徴的なことは、廃殻と月都、その間で第二の諍いが始まろうとしていることだ。それまでは、二者を深く接触させぬアルナや亜粋の上手い裁量と共同の目的で成り立っていた絶妙な調和が、緊張の只中にあって崩れたということか。

 月都の青白い顔のシャツ姿が威圧的に廃殻民を罵る。赤茶けた顔の廃殻民が、身を震わせ拳を握る。論点は、どちらが武器を確保するか、どちらが先に避難路を出るか、そんなところだろう。

 その様を、蛮風はただ眺めていた。そこに生まれた分裂に、何を覚えたか、それはわからない。その裾を掴む手がある。この場にそぐわぬ小さな手の主は、莫琉珂だ。

「……どうした嬢ちゃん」

「亜粋が」

 その声は涙に滲んでいた。それでも、その丸い瞳から涙が零れないのは、それ以上の曇天めいた不安が彼女の心を押しつぶしているからだろう。

「亜粋が、戻らないのだ。あいつは、どこかで、巻き込まれて」

「……」

 そう、何よりも悪いことは、今亜粋が行方不明ということだ。他にも有力者はいるが、壊都の長以上に顔が広く人心に聡いものはいなかった。彼がこの場にいるだけで、このようや恐慌状態は起こらなかっただろう。そして普段は活気に満ちた春風のような少女が、こんな顔をすることも。

 蛮風の手がその頭を撫でた。ただ、それだけで、ダムが決壊したように莫琉珂の瞳から玉のような涙が零れ、哭声が木霊する。


 そんな大羿の内部に、また新たに誰かの影が入る。蛮風が振り返ってみれば、それは炉那だった。

 ここに来るまでに何があったのか。身は擦り切れ息も上がっている。その鉄腕は、ボンネットのような鉄板を引きずっている。装甲車と格闘でもしてきたのだろう。

「おう戻ったか炉那。お前が苦戦するなんて結構だな」

 炉那は蛮風のその何事もないような様子に、腹立たし気に眉を顰めた。

「……アルナがあの武牢ってやつに連れ去られた。黄金翅おうごんしを出せ。あいつに追う」

 されど、蛮風は動く気配はない。炉那が次の言葉を紡ごうとした瞬間に、彼は耳を掻きながら先んじて言った。

「それよか、逃げたほうがいいんじゃねえのか。俺と、お前は」

 呆気にとられたような炉那をよそに、蛮風は事も無げに大伽藍の空間を仰ぎ、歌でも口ずさむように続けていく。そこに何の感情も滲ませないまま。

「まぁお前の言ったとおりだな。嬢ちゃんは企業連を味方につけたのは中々やったが、それでも敵は多い。そして“壊都自警”まで出ちゃあ手詰まりだろ」

「請け負った仕事を、投げ出すのか」

「もとより信用なんざないのが遺跡荒らしだろ?計画が終いなら引き上げるほうが道理さ」

「……いつ計画が終わった」

 肩を竦めて笑って見せる蛮風に、どこかで見た影を炉那は映し出していた。そう、あれはいつだったか。頭痛に苛まれるように、炉那の顔が苦痛に歪む。

「終わりさ。はっきり言うが壊都自警の武牢つったら相当にヤバい奴だ。戦闘狂でサディスト、おまけに頭領は不死身だなんて言われてやがる」

 炉那の鉄腕や銃弾を受けても尚平然と消え去っていったあの隻眼の男。壊都という大都市すら悪名で支配するような男だ、確かに手練れなのだろう。だが、と口を開こうとする炉那に対し、尚も蛮風は笑って見せる。

「それに、だ。たぶんこの事態は企業連が仕掛けたもんじゃない。あいつらはもう嬢ちゃんが取りこんだわけだからな。つまり、今壊都自警を動かしたバックの存在は企業連でない」

 確かに、開発区を皆殺しにするなどという荒事を、所詮民営の企業連が行うとは思えない。人一人二人ならいざ知らず、ここまでの人数を、たとえ壊都自警という傀儡を通して殺すとしても己たちの信用には傷が残る。いや、そもそもとしてここにはもう既に企業連から派遣された技術者やホワイトカラーも存在するのだ。見切るにはあまりに損失として多い程度の人数は。ともすれば、

「月都の財界を支配する企業連――それ以上の権力と地位を持つ存在が、嬢ちゃんの計画を潰すために本腰入れて動き始めたのさ」

 その存在がなんであるか、炉那には掴めないが、その権能によってこれほどの人数を握りつぶす存在だ。この文明の構造システムそのものといっても過言でない。

 たとえ歪み誤りきった不平等な構造システムと言えど、それに逆らったならば、世界が敵になる。その構造を壊そうとしたアルナは月都廃殻を問わず敵を造ったのだろう。“タイヨウ”による格差や分断から造られた構造に執着する世界たちという敵を。

 そうなれば、少女ただ一人にできることなどない。ただ、荒野で唯一人骨片となる以外に。

「世の中ってヤツに睨まれたら、そいつがなんて言おうが圧殺される。それはお前が一番知ってるはずだろ?炉那。だから、この計画はこれ以上未来がねえ」

 人は変わらない。世界システムは変わらない。廃殻で救いを求めても従属に甘んじる廃殻民に裏切られ、月都で格差の瓦解を求めても、その格差に殺される。

 炉那があの日身の芯まで味わったことだった。だから彼が世界に期待しないように、人に希望しないようになった由縁だった。今、そのことが形を持って目の前に立ちはだかる。そのことで過去が想起され――炉那はいつのまにか冷や汗をかいていた。

「だから、もう諦めるしかない。嬢ちゃんがやろうとしたことは立派だ。だが……世界は変わらないんだ」

 暴力が、社会が、魂が、世界の敵に押し寄せるから。だから消されたくないなら、“タイヨウ”の下俯いて生きるしかない。炉那は蛮風に誰を投影しているかを今悟る。

「仕方ないだろ?炉那」

 それは自身の故郷で――父親を裏切り捨てたあの隣人だった。


 気づけばその胸倉を掴んでいた。足元で莫琉珂が不安そうに見上げている。ボンネットを投げ捨てたからか、大きな音に伽藍の中の全ての目がこちらを向く。

 蛮風は感情のない顔で炉那を見下す。師にして養父のその男は、炉那の震える左腕を払うこともしないまま、彼の言葉を待っていた。

 深い洞穴の奥から、少しずつ反響してくるような、その言葉を。

「……そんなこと。わかってる。嫌になる程思い知らされた」

 あの村を出てからも、人々の汚さを何度も見た。この規格外な世界を見た。自身があまりにちっぽけで無力な存在であることを思い知らされ、消えてなくなりたくなった。そしてきっと今から、頼りにしていた蛮風も残酷なまでに己を見限るのだろう。

「それなら?それでもお前は糞ったれな世界の住人だ。ならお前はどうしたい?」

 とん、師父の人差し指が己の胸を突いた。炉那は目を見開く。その師父はいつの間にか軽薄な態度を一変させ、巌の如く静謐たる眼差しを、炉那を真っすぐに向けていた。

「炉那、お前がどうしたいか、だ」

 何度も、言われてきた言葉だった。


「……それでも」

 潰れた果実をそれでも絞るような、必死で今にも枯れそうな声。暗がりから恐る恐る顔を出し、眩い日の光に怯えるような酷く頼りない様。

「それでも、見たい……アルナの夢が叶うところを」

 炉那はぐっと頭を下げると、白亜の床に汗が零れる。それを認めることは彼にとって身体的苦痛を伴う程に為し難いこと。まるで、再び産まれ直すかのようなこと。

「小さなあいつがこの世界っていう大きなものを、ぐちゃぐちゃに引っ掻き回して覆してしまうとこを見たい。アイツが望んだ景色を、俺も見たい」

「それは余りにもそれは為し難いことだぞ」

 知っている。だけど、もう仕方ないなんて言いたくないのだ。

「煩い!まだ終わってない……どんなに世界が残酷で強大でも、俺はあの輝きを見たいんだ!」

「無理だ。それは、この世界が否定する」

「だったら――――そんな世界は、変えてやる!」


 ぼん、と不快じゃない熱が頭を通して伝わってくる。荒っぽく撫でられて、髪がくしゃくしゃになる。

 炉那が見上げれば、蛮風が満足げに笑っていた。

「ようやく言えたじゃねえか、炉那」

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