終章 時の万華鏡(新たな決意と深い挫折)

エバンズ医師とのカウンセリング

                 終章


    ワシントン州 病院の診察室 二〇一五年八月二七日 午後三時〇〇分

 オレゴン州ポートランドで発生した「香澄の自殺未遂事件」から数日後――香澄はワシントン州にある、ワシントン大学メディカルセンターという病院の診察室の席に座っている。

 フローラたちの助力のおかげで、現状においては香澄の精神状態が比較的安定していることが多い。しかしそれはあくまでも結果論にすぎず、香澄が発症した解離性同一性障害と夢遊病が完治したことには直結しない。およびこれらの病気は患者の精神状態によって症状が大きく左右されるため、一定の間は専門の医療施設でしっかりと治療をうけることもまた必要だ。

 一時期は治療を受けることさえ拒んでいた香澄だったが、今では自分自身の病気と正面から向かうことを、彼女はフローラたちへ約束してくれた。


 今日の夕方から香澄はこのワシントン大学メディカルセンターへ入院することが決まり、専門医療機関で治療を受けるという流れになった。香澄の大学院進学はもう半年ほど延期になってしまったが、不思議なことに彼女の表情から後悔の色はまったく感じられない。むしろ香澄が精神をわずらっているとは思えないほど、明るく陽気な顔をしている。

「――以上でカウンセリングを終了します。今後はしばらくこのワシントン大学メディカルセンターで入院してもらうことになります。今後の治療や流れなどについて、香澄から私へ何か確認しておきたいことはありますか?」

「はい、エバンズ先生。私が先に確認しておきたい内容についてですが――」


 香澄の精神病の治療を担当することになったのは、ワシントン大学メディカルセンターに勤務する精神科医のダニエル・エバンズ医師。ダニエルはフローラの心のケアを受け持っている担当医でもあり、彼女とは仕事上において長年の付き合いがある。この治療はとてもデリケートな問題でもあるため、フローラは自分が心から信頼出来る医師に香澄のことを託したのだろう。


 同時にここワシントン大学メディカルセンターという場所は、数年前にトーマスをはじめとするサンフィールド一家が運ばれた病院でもある。そこで彼らの命を救うことが出来なかったダニエルは、罪のつぐないによるものなのか、医師として香澄の治療に全力を注ぐことをフローラに約束してくれた。

「――私はどれくらいの期間この病院へ入院して、どのくらいの間治療を受け続ければよろしいのですか? また治療を行う際には、SSRISNRIなどの抗うつ薬を使用する予定はありますか?」


 精神病の治療に不安を覚える患者ならではの視点から、率直な疑問を担当医のダニエルへ問いかける香澄。そんな香澄の率直な質問に、

「当院としては最低でも一ヶ月ほどの入院を考えており、治療とカウンセリングを同時並行しながら、症状の様子を見る予定です。また治療の際にSSRIやSNRIなどの抗うつ薬を使用する予定は、今のところありません。ただ夢遊病の治療においては、何らかの睡眠薬を処方する可能性はあります。もちろんその時は香澄にも改めて説明するので、ご安心ください」

ダニエルは優しく丁寧な口調で説明してくれた。


 なお香澄やダニエルの会話に登場したSSRIとは、「」と呼ばれている抗うつ薬のこと。英語表記にすると「Selectiveセレクティブ Serotoninセロトニン Reuptakeリアップテイク Inhibitorインヒビター」となり、各単語の頭文字を取ってSSRIという通称で呼ばれている。

 このSSRIを投与することによって、脳内の神経伝達物質 セロトニンを増やすことが可能。気分の落ち込み・無気力などの症状で知られる、うつ病治療の効果が期待出来る抗うつ薬の一つでもある。


 一方SNRIとは、「」と呼ばれる抗うつ薬のことを指す。英語に訳すと「Serotoninセロトニン Noradrenalineノルアドレナリン Reuptakeリアップテイク Inhibitorインヒビター」となり、これらの頭文字を取るとSNRIとなる。

 SNRIには脳内伝達物質のセロトニンとノルアドレナリンへ作用することによって、憂うつな気分を緩和させ行動意欲を促進させる効果が得られる。また副作用が少ないことから、安全性の高い抗うつ薬として注目されている。


           『医学用語の補足説明』

セロトニン……不安や緊張などの感情を緩和させる神経伝達物質のこと。

ノルアドレナリン……行動意欲を向上させる神経伝達物質のこと。

再取り込み……一度放出されたセロトニンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質を、再び細胞内へ回収させる現象のこと。

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