上巻 解説

 まず初めに謝っておく必要があるだろう。私は彼、そして彼女らの生に数をつけた。それは表記上仕方ないとしても、許されることではない。全てのアンジェラは誰一人として記号に回収されてしまうようなものではないのだから。アンジェラが誰であったのかは、それぞれが残した言葉によって判断して頂きたい。

 この日記は今からおよそ1300年前、ユリウス帝国において成立したとされるものである。全126巻、総勢50人のAがここには登場することになる。上巻では27代目Aまでのほんの一部を抜粋して収録した。その前史を簡単に紹介しておこう。


 ユリウス帝国は神龍との契約によって成立する。これを原初契約という。「はじめ竜があり、そして人があった」という言葉があるが、竜とはこの大陸に住まう神龍のことであるとされる。人は神龍の絶対的な力の前に服従し、またそれを崇め、神龍の怒りをかうこと事なき用秩序を保って生活していた。神龍の名を冠した原始レクス教もこのころ生まれた。

 しかし、一つの転機が訪れる。種としては何よりもか弱き人類には、時として特異な個体が生じることがあるのだ。クラフト・ユリウス、その人の誕生である。彼は神龍との壮絶な戦いの末これを打ち倒す。その時に率いた仲間が、戦士ヘクトル、魔法使いラシーヌ、そして僧侶アンジェラであった。

 ここで一つの問題が生じることになる。人間には個体差がある以上、ユリウスの後を継ぐ人間もまた大陸を治めるに値する器かどうか分からない。これは、大陸の未来を思う竜と人の双方にとって由々しき事態であった、とされる。そこで10年に1人、人柱を捧げることを条件に、竜は英雄に永遠の命を与えたのである。これが原始契約であり、その人柱として選ばれたのがアンジェラ、つまりAの家系であった。ちなみにAとは、次期の生贄として選ばれた者に対する尊称である。

 ここにおいて成立した大帝国は、絶対的な君主を頂点に戴きながら、ヘクトルの子孫が軍部を、ラシーヌの子孫が魔道院を、そしてアンジェラの子孫が教会をそれぞれ担うものとして、権力分立の機能をも有した優秀な政治体制であった。特に人柱の養成所として存立した教会が、土俗の信仰であるレクス教と結び付きながら皇帝への正統性を調達する機構して成長する過程は見事という他ない。


 以上を踏まえた上で上巻の主役となった二人のAについて簡単に言を付しておく。

 4代目アンジェラは、別名「無垢のA」と呼ばれる。この時代は帝国が名実ともに最も充実していた時代であり、人々に初代アンジェラや初代ヘクトルの記憶がまだ刻まれているので、ユリウス個人に対する忠誠心も篤い。本書で晩年の記述を取り上げることがなかったのも、彼女の信仰は終始揺らぐことなく一貫しているからである。彼女は何も疑うことなく、祈りの中に生き、死んでいったと言えるだろう。それは何の皮肉でもなく、全くもって幸福な生であった。

 時間は流れ、Aの家系は27代目にして一人の巨人を産む。それは科学技術が発展し、民衆が己の秘めたる力に気づき始める時代の要請でもあっただろう。「理知のA」と呼ばれる彼女は、合理的な聖職者であった。彼女は教会、ひいては自身がよって立つ教義を徹底的な懐疑に付す。神竜をそのまま神とみなす竜即神の理論はその賜物であろう。しかし銘記すべきことは、畏怖の念を決っして忘れることがなかった、むしろ懐疑の先により深い信仰をつかみ取ったということである。不条理な使命を背負ったものとして生まれ落ちた己自身の意味を考え詰めた結果、彼女もまた人を超えた存在を想定せざるを得なかったのだ。教会と皇帝の関係修復、レクス教の理論形成と普及など、彼女が聖職者として残した功績は枚挙に暇がない。

  しかしその後展開を思ったとき、「理知のA」はあまりにも巨星でありすぎたというべきかもしれない。彼女の批判精神はそれを支える深い信仰がはぎ落された形で受け継がれ、32代「懐疑のA」に至ってついに神は再び打ちのめされる。権力は権威を喪失し、帝国は転がり落ちるように崩壊への道を突き進むことになるのである。下巻では、帝国の末期を象徴する二人のA、初の男性でありその故に終始深い苦悩を抱き続けた「苦悶のA」、そして民衆の象徴として革命に身を投じることになる「悲劇のA」を中心に展開することであろう。「理知のA」がすでに鋭く見抜いていたように、帝国の心臓はAであり、帝国はAによって滅びることになるのである。

                                    A

 

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