母への思い

「来てくれてありがとう」

亜美あみのおふくろさんにはよくしてもらってるからな」

 亜美とは家が近所で小さい頃から遊んでいる。

 一ケ月前に、亜美のおふくろさんは酒の飲み過ぎが原因で急性膵炎に罹り入院した。二日前に退院し、今日は退院祝いで亜美の家に来ていた。

「退院おめでとうございます」

光一こういち君じゃないか。こんなめでたい日には一杯ひっかけたいね」

「何を言ってるんですか。しばらくは酒を控えたほうがいいですよ。退院したばかりなんですから」

「私が酒好きってことは知ってるだろ。また病気になったら、入院すればいいだけだし」

 亜美のおふくろさんは楽観的なところがあるが、元気そうで何よりだ。酒を飲みそうな気配が漂っているから、その時は何としてでも止めなければいけない。おふくろさんには申し訳ないけど。

「お母さんの退院を祝して乾杯!」

 グラスを突き合わせて乾杯をした。もちろん中身は酒ではない。お茶だ。

「光一君、遠慮せずに食べてくれよ。君は家族も同然なのだからね」

 悟志さとしさんは笑顔でそう言ってくれた。悟志さんは亜美のお兄さんだ。

「はい」

 テーブルにはピザやタンドリーチキン、フランスパンなどが並べられていた。まるでクリスマスだが、退院祝いにどんな食事を出したらいいのか分からなかったのだろう。

 俺はピザを頬張った。口の中にチーズが広がる。タンドリーチキンもかじる。

「何か酒が飲みたくなってきたな。亜美、酒を持ってきてくれないか?」

「母さん、酒はダメだって。また急性膵炎に罹ったらどうするんだよ」

 悟志さんはおふくろさんを止めた。おふくろさんは酒が飲みたくて仕方がないようだ。

「ちょっとくらいなら大丈夫だろ。お願いだから、飲ませてくれよ」

「お母さん、本当にちょっとだけだからね?」

 亜美はグラスを持って台所に向かった。俺は慌てて亜美を追いかけた。

「おい、亜美! 飲ませるつもりか?」

 俺は亜美の肩を掴んだ。

「大丈夫だよ。もう飲まなくなる・・・・・・と思う・・・から」

「は? 何を言ってるんだ?」

「いいから、光一は食べてて」

 俺は亜美にせっつかれ、仕方なく椅子に座って食事を再開した。

 しかし、さっきの亜美の発言は気になる。もう飲まなくなるだと? 亜美はおふくろさんが大の酒好きということはよく知っているはずだ。飲まなくなるとは到底考えられない。

「はい、お母さん」

「ありがとう」

 亜美はおふくろさんに酒を渡し、椅子に座った。

 おふくろさんはおいしそうに酒をグイッと飲み干した。亜美はフランスパンを頬張りながら、ちらちらとおふくろさんのことを見ていた。なぜ、ちらちらと見ているんだろうか? おふくろさんのことが心配なら酒を飲まさなければいいだけだ。

 おふくろさんはタンドリーチキンをかじった。

「うがっ!」

 突然、おふくろさんは苦しみだした。椅子からズルリと転げ落ちる。

「母さん! どうしたんだよ!」

 悟志さんはすぐさまおふくろさんの側に駆け寄った。

 俺はポケットから携帯を取り出し、救急車に連絡した。

 突然苦しみだすなんて、おふくろさんにいったい何が起こったというんだ?

 ふと俺は亜美を見た。亜美は視線が泳いでいた。体が震えている。

 いったいどうしたんだ、亜美?


 ☆☆


 おふくろさんは近くの総合病院に運ばれたが、数時間後にはケロリとしていた。

 入院することもなく、すぐに家に帰ってきた。

「母さん、本当に大丈夫なのか? やっぱり入院した方がいいんじゃないか?」

「大丈夫だって。私は見ての通り、元気だよ」

 悟志さんの心配を尻目におふくろさんは笑っていた。その様子を見る限り何ともなさそうだが、おふくろさんが苦しみだしたのは紛れもない事実だ。しかし、数時間後にはすっかり元気になっている。

「でも何で急に苦しくなったんだ? もしかしてタンドリーチキンが腐ってたんじゃねえか? それで私は腹を壊したんじゃないのか?」

「それはないよ。昨日買ったばかりだし、それに俺も光一君もタンドリーチキンを食べたけど、何ともないからね。タンドリーチキンは腐ってないよ」

「そっか。それじゃ、何が原因なんだろう?」

 おふくろさんは首をかしげていた。

 俺は思考を巡らす。おふくろさんはタンドリーチキンを食べた。俺も悟志さんも食べた。しかし、苦しんだのはおふくろさんだけで俺と悟志さんは何ともない。

 亜美の『もう飲まなくなると思うから』の発言も気になる。それにちらちらとおふくろさんのことを見ていたことも気にかかる。

 おふくろさんが苦しんだ時、亜美は視線が泳いでいたし、体も震えていた。亜美はこの件に関係しているはずだ。だが、亜美自身もおふくろさんがあそこまで苦しむとは思ってなかったのかもしれない。だからこそ視線が泳ぎ、体が震えていたのではないか?

 問題は何を入れたのか、何に入っていたかだ。恐らくタンドリーチキンには何も入っていないだろう。おふくろさんだけが口にしたものといえば酒だ。……待てよ? 酒? おふくろさんは数時間後には元気になっていた。

 まさか亜美は酒にアレ・・を入れたのか? だとしたらあの発言も納得いく。確かに飲まなくなる可能性はある。苦しい思いをしたわけだから。おふくろさんをちらちらと見ていたのも、本当に効き目があるのか確信が持てなかったからだろう。

 しかし、これはあくまで推測に過ぎない。自分の考えが正しいのかを確認するために、俺は台所に向かった。俺の考えは正しかった。キッチンにそれ・・は置いてあった。

「おふくろさん。苦しんだ原因が分かりましたよ。犯人が誰かもね」

 俺はおふくろさんにそう告げた。

「は、犯人って何? 私は誰かに恨まれていたのか?」

「いえ、そうじゃありません。犯人はあなたの身を案じて、酒にあるもの・・・・を入れたのです」

「待てよ、光一君。その言い方だとまるで犯人は亜美みたいじゃないか。酒を持ってきたのは亜美なんだからね。それに母さんは急に苦しんだんだ。犯人が母さんの身を案じていたとは思えないよ」

 悟志さんは呆れたように俺のことを見ていた。

「悟志さんの言うように犯人は亜美です。ですが、亜美もあそこまで苦しむとは思っていなかった。なあ、亜美?」

「え? う、うん」

 急に話を振られて亜美は驚いていたが、ゆっくりと頷いた。

 おふくろさんは戸惑いの表情で亜美のことを見つめていた。

「今回の件の発端は一ケ月前におふくろさんが急性膵炎に罹り入院したことにあります。亜美はおふくろさんに酒を止めて欲しかった。しかし、言ったところで大の酒好きのおふくろさんがそう簡単に止めるとは思えなかった。だからあるもの・・・・を使うことにしたんです」

 俺はさっき台所で見つけたものをテーブルの上に置いた。

「それは抗酒剤・・・です。亜美はこの抗酒剤を酒に入れた。アルコールは体内に入るとアセトアルデヒドと呼ばれる物質に変わるのですが、抗酒剤はそれを分解できなくさせるんです。アルコールを飲まなければ何の問題もありませんが、おふくろさんは酒と抗酒剤を同時に摂取しました。効果が発揮されるまでには時間がかかりますから、すぐには苦しまなかった。じきに苦しみはおさまるので、数時間後にケロリとしていたのはそのためです」

「つまり抗酒剤は酒が飲めなくなる薬ってわけか?」

 おふくろさんは抗酒剤を手に持ち、眺めていた。

「いえ、そういうわけではありません。抗酒剤を服用した後に飲酒をすると苦しくなるから飲酒を断念するのであって、酒が飲めなくなる薬というわけではありません。断酒を決意した者が使用すると効果を発揮し、結果的に断酒に繋がるみたいです」

「そうか」

 おふくろさんはそう言って亜美を見つめた。亜美は申し訳なさそうな表情でおふくろさんのことを見ていた。

「お母さん、ごめんなさい。まさかあんなに苦しいものだとは思わなくて」

「いや、いいんだ。亜美は私のことを思ってしてくれたんだろ? だったら謝る必要はない。亜美が望んでいるなら、私はもう酒は飲まないよ」

「……お母さん」

 亜美とおふくろさんは抱きしめあった。おふくろさんに思いが通じて良かったな、亜美。

「それじゃ、退院祝いの続きをしましょうか?」

「うん。お母さん、お茶でいいよね?」

「もちろんだ」

 亜美はグラスにお茶を注ぎ、おふくろさんに渡した。おふくろさんは嬉しそうにお茶を飲む。そんな亜美とおふくろさんの様子が微笑ましかった。

 俺は悟志さんと視線を交わしながら、ずっと亜美とおふくろさんを眺めていた。





※抗酒剤の説明が間違っていたらすみません。それとこっそりと家族の飲み物に抗酒剤を入れるのはやめた方がいいみたいです。というのも抗酒剤が入っていることに気づかずに飲酒をし続けると、その反応に体が耐えられず死亡する危険性があるとか。なので家族の飲み物に入れるのはやめた方が良さそうです。自分で進んで抗酒剤を服用する分にはいいみたいですけど。

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