第六章 空の少年 森の少女

第六章 空の少年 森の少女 -1-

 〈旧市街〉は火災を逃れてきた者たちで溢れていた。

 辺りは繁華街のものとはまた違う、緊迫した喧騒で満たされている。親ははぐれてしまった我が子の名を叫び、恋人たちはひしと抱き合いお互いの無事を確かめる。救助員は怪我人の手当に駆け回り、警備員は自分勝手に行動する避難者たちを辛抱強く誘導する。

 そんな人々の中に、レイは紛れていた。しばらく一般人になりすましていたが、周囲に〈狩人〉らしい姿がないと確認すると、〈大穴〉付近で救助を待つ人々から離れ、〈将軍通り〉へと入り込んだ。数分ほど歩くと、いまにも外壁が崩れ落ちてきそうなアパートが見えてくる。

 〈楽しき郷マグ・メル〉――その部屋のひとつに、消去できなかった〈木馬トロイ〉を抱えた端末がある。

 広場からそう離れていないためか、この辺りにも避難者の姿がちらほら見える。だがさすがに建物の中へ入ろうとする者はいなかった。住人たちも〈新市街人ノイアー〉の侵入を許しはしないだろう。

 レイは見咎められたときに備えて言い訳のひとつやふたつ考えながら、アパートの玄関をくぐった。

 最大の難関は玄関脇にある管理人室だ。しかしレイの訪れに気づかないのか、管理人は姿を現そうとはしなかった。部屋の奥から火事の様子を伝える声が聞こえてくる。きっとニュースに釘付けになっているのだろう。

 せっかく考えた言い訳も披露できずに終わり、青年は何事もなく目的の部屋に辿り着いた。

 ドアの鍵を難なく開け、待ち伏せに備えて慎重にドアを引く。扉の陰に隠れてしばらく待つが、何も起こる気配はなかった。

 とりあえずは大丈夫そうだと判断すると、そろそろと室内に忍び込む。そしてさらに、念には念を入れて各部屋や物陰を調べてまわった。

 部屋の構造は、彼が住んでいた安アパートとそう変わらなかった。玄関を入ったところがもうリビングだ。玄関と正対するように出窓があり、その足元にローソファとサイドボードが横たわっている。

 玄関を入って左手は対面式のキッチンになっている。カウンターは狭く、使い勝手はあまりよくないらしい。その証拠に、食卓となるべき場所は物置と化していた。食事はそばに設えた小さなテーブルでとっているようだ。

 寝室は居間を挟んで台所と対照の位置にあった。ふたつの寝台とクローゼットだけの質素な部屋だ。そしてそのどちらにも人の気配はない。まあクローゼットは服やがらくたで溢れかえっていて、人が潜めるような状態ではなかったが。

 当面の危険はないと確信すると、レイは再び居間へと戻った。

 目的の端末は部屋の隅にあった。

 ソファ近く、台所と居間を隔てる壁に向かって据えられたラックに、古びたモニタと入力デバイスが載っている。

 素早く歩み寄ったレイは、腰掛けると同時に端末を起動させた。〈木馬トロイ〉を使ってあらかじめ登録しておいたIDとパスでログインし、端末奥深くの階層に潜ませたファイルを呼び出す。そしてソースを開くと、自分の組んだプログラムと食い違う箇所を探しだした。

 〈グレムリン〉が手を加えた部分は、ほんのわずかだった。レイの端末や他の〈木馬トロイ〉からの呼びかけに対し、本来返すはずの答えと微妙に違うものを返す――ただそれだけだ。

 しかしそのわずかな改変が自爆命令を無視し、レイにカリストからの撤退を決断させた。

「俺も腕が落ちたもんだね。〈グレムリン〉ごときに、まんまとしてやられるとは」

 とレイは呟き、苦笑した。そうしながらも目は文字の流れを追い、指は新たな命令文を紡ぎ出すために忙しく走る。

 小半時もかけず、レイはプログラムを元通りに修復した。

 最後の一文を入力し終えた電算技師は、ソースを閉じ、OSのコマンドプロンプトを開いた。そして〈木馬トロイ〉に対する自己消滅のコマンドを打ち込む。このまま実行命令を入力すれば、彼が〈カリスト〉システムに忍ばせた〈木馬トロイ〉は全て消え去ることになる。

 しかしこれは完全な撤退ではない。カリスト――それだけでなく、木星圏にはまだ〈機構軍〉に存在を知られていない彼の仲間が大勢いる。仲間の一人がヘマをしても、残る誰かが彼の仕事を引き継いでくれる。

 引き継ぎの手配はすでに済ませてある。然るべき時がくれば、計画は再び動き出す。

 ためらいのない手つきで、侵入者クラッカーは命令を下した。モニタにリストアップされたファイル名が瞬時に消える。

 〈木馬トロイ〉に関する全てのファイルが消去されたのを見届けた彼は、さらに念のため、端末の記憶領域に足跡やゴミが残っていないかをチェックした。そして一切の痕跡が消し去られたと確認できると、ようやく安堵の息をついた。これで心置きなく撤収できる。

 しかし彼はまだ席を立たなかった。

 チラリとモニタの時計表示を見る。もう少しぐらいは、時間がありそうだ。

 気持ちに余裕のできた青年は、ゆっくりと首を廻らせた。今度は警戒心ではなく、好奇心によるものだ。

 目に映るものが妙に新鮮だった。

 ところ構わず服が脱ぎ捨てられていたり、棚や食卓の上が雑然としてはいるが、男所帯である自分のアパートと比べると、遥かに清潔でこざっぱりしていると言える。鼻をくすぐるのは芳香剤か香水か。柔らかで、どこか懐かしい香りがほのかに漂う。

 用済みとなった端末をシャットダウンさせたレイは、おもむろに立ち上がると、物珍しげな目をあちこちに向けながら部屋の中をうろついた。

 母娘が使っている道具や食器をしげしげと眺める。いずれも安物ばかりだ。

 だがその中に、ひとつだけ異彩を放つものがあった。作りつけの戸棚に日用品とともに置かれている、古びた熊のぬいぐるみだ。

 それは地球時代からテディベアで有名なメーカーのものだった。収集家も多く、掌に乗るような小さなものでも結構な値がついている。飾ってあるのは生まれたての赤ん坊ほどもあるから、かなり値の張るものに違いない。

 恐らくこれは、少女が生まれて初めて手にした贈物だろう。

 木星圏では赤ん坊が生まれると、両親もしくは祖父母たちが熊のぬいぐるみを与える習慣があった。それがここにあるということは、つまり少女の誕生を祝福する者がいたということだ。

 レイはその胡桃色の毛むくじゃらを何気なく取り上げ、ひと撫でした。上質のファーは少し硬めだったが、その手触りが妙に安らぐ。

 熊の首元には〈機構軍〉の認識標ドッグタグが下げられており、そこには少女の名前と誕生日、そして血液型が記されていた。

「ネームプレートの代わりに認識標とは、軍人らしい発想だ」

 と、青年は皮肉めいた笑みを浮かべた。

 彼はしばらくぬいぐるみを眺めていた。が、ふと思い出したように片手を上着のポケットに突っ込むと、小さな包みを取り出した。

 熊を小脇に抱え直し、〈聖夜〉仕様の包装紙を解く。すると布張りをした小箱が現れた。さらにその蓋を開けると、中には天使を象ったペンダントが収められていた。

 小さな翠玉を胸に抱き、銀の翼を左右に広げた天使の像は、遠目で見れば十字架のようにも見える。

 以前〈北部〉の繁華街を歩いている時に目に留まり、なんとなく買ってしまったものだ。なぜ欲しいと思ったのか彼自身にも理解わからず、手に入れてからは誰にやるともなくポケットに突っ込んだままだった。

 レイは熊の首から認識標を外し、天使のペンダントを巻きつけた。強面の熊に可憐な天使はあまり似合っているとは思えなかったが、どことなくユーモラスに見えた。

 満足げにうなづいたレイは、熊を棚に戻し、代わりに隣にあったクッキーの瓶を取ってソファへと移動した。そして遠慮も警戒心もクソ喰らえとばかりに、どっかと腰を下ろした。瓶の蓋を開け、大きな一枚を取り出して口へ運ぶ。

 小麦の香ばしさが口に広がる。少し甘めではあったが、手っ取り早く空腹を満たすにはちょうどいい。少し摘む程度にとどめておくつもりだったが、〈ワーム〉たちの悲鳴で叩き起こされてから何も口にしていなかったレイは、つい何度も菓子の瓶に手を挿し入れた。

 ほどなくして腹の虫をなだめた青年は、すっかり寛いだ状態で長椅子に背を預けていた。

 この部屋は静かで、とても落ち着く。もちろんそろそろ撤収した方がいいのは理解わかっている。しかし「まだ大丈夫だ」という根拠のない確信と、「どうとでもなれ」という投げやりな気持ちが、彼の意識を侵しはじめていた。

 レイは気怠げな視線を、ゆっくりと周囲に彷徨わせた。

 すぐ脇のサイドボードに、写真立てがいくつか置かれている。レイはそのひとつを手に取ると、合成樹脂ペーパーに焼き付けられた画像を覗き込んだ。

 少女が基幹学校に入学した記念にでも撮ったのだろうか。めかし込んだ少女とその母親が微笑んでいた。その嬉しそうな笑顔は、南駅で邂逅した時の二人からは想像できなかった。

 彼女たちにも、お互いが幸せだと感じ合った時があるのだろうか。

 レイはふと、二人の生活ぶりを想像しようとした。が、すぐに自分が子供だったころを思い出してやめた。

 この〈旧市街〉はあの惑星の街と似ている。

 飢えと貧困が蔓延する、薄暗くて寒い街。

 あの惑星では、人口に対する食料の供給量が絶対的に足りていなかった。自給自足も満足にできないうちに、大規模の移民が実施されたせいだ。

 不足分は遠く月や火星から運ばれてくるわずかな食料と、自分たちが危険を冒して採掘した鉱物資源の大半を引き換えに補っていた。だが増え続ける人口の前には、焼け石に水である。

 大人たちは死に物狂いで働くが、稼ぎのほとんどが食料に消えていくため、暮らしぶりは一向によくならない。そしてそれを訴えようにも、当時、行政や経済は〈地球政府〉のもとにあり、些細な疑問を投げかけることすら許されていなかった。

 それでも人々はその圧制に耐えた。「この苦しみは〈地球再生計画〉が終わるまで。この天王星はそれまでの仮住まいなのだ。我々の子孫たちは、きっと故郷の大地に再び降り立つはずだ」と信じて。

 しかし移民開始から一世紀が経っても、地球の再生リフォームは始まらなかった。それどころか、〈地球政府〉は〈地球再生計画〉の中止を決定したのである。地球への永住を目的とした再移住は、いかなる理由をもってしても認められなくなった。

 「人工的な修復が、必ずしもよい結果を生むとは限らない。果てしない時間がかかったとしても、自然の治癒力に委ねるべきだ」というのが、〈地球政府〉の言い分だった。だがそれは、不満を抱える者たちへの詭弁に過ぎない。

 〈地球政府〉の本音は、ようやく安定させた己の足元を、莫大な出費で揺るがせたくないだけなのだ。

 〈機構〉が勢力を広げつつある。木星と土星を独立へ導き、それを取り込んだ〈機構〉は、〈地球政府〉に対抗しうる存在となった。

 〈地球政府〉は、己の傘下であった〈惑星開発機構〉の裏切りに激怒し、着々と版図を広げていく彼らに恐怖した。

 そこで〈地球政府〉は、己が後継として〈月・火星連邦〉を建て、さらにこの頃ようやく安定した食料生産を行えるようになった金星を下において、〈機構〉への対抗勢力とした。

 さらに中立たるべき国際機関としての役割を〈機構〉に与え、各国への奉仕と内政不干渉を命じた。だがそれでも、勢いに乗った〈機構〉の発展を止めることはできなかった。

 そう遠くない将来において起こるであろう衝突に、〈地球政府〉――後の〈月・火星連邦〉は備えなければならなくなった。

 だが詐欺紛いの言葉に乗せられ、半強制的に天王星へ移住させられた者たちにとって、そのような事情など知ったことではない。帰る場所を失ったことによって、天王星移住者たちの怒りは頂点に達し、それまで抑えられていたたがは勢いよく外れた。

 ある者は腹を括って天王星で生きる道を選び、自由を求めて独立を叫んだ。

 そしてある者は地球を取り戻すべく辺境の惑星を飛び出し、〈宇宙生活者ノマド〉や〈地球へ還る者〉となった。

 その〈地球へ還る者〉たちの願いはひとつ。

 地球に取り残され、絶望している人々を救い出す。そしてこの手で再び、地球を〈命の楽園〉へと修復するのだ。

 すでに限られた空間でしか暮らすことのできなくなった地球は、新たな命を生み出す力を失っていた。揺り籠たるべき海は汚染され、温暖化に伴う海面上昇によって大陸を呑み込んだ。残された大地は疲弊し、癒しの森は砂漠と化しつつあった。

 地球に残った者たちに与えられたのは、緩やかな絶滅だった。

 たとえ新たな命を生み出したとしても、それを成人させるだけの食料も環境もない。もはや地球では、命を次の世代へと繋ぐことはあたわわないのだ。

 もちろん、望めば地球を離れることはできる。しかし移民先は、やはり天王星に限られていた。いまの苦しみから逃れられるならまだしも、さらなる苦しみが待つと判った処へ、誰が移り住みたいと思うだろうか。

 さらに狡猾なのは、惑星開発と移民を担当してきた〈惑星開発機構〉だ。

 〈機構〉は「天王星の更なる発展と、地球再生のための技術提供を惜しまない」と声高に宣言し、独立を求む天王星移住者の支持を得た。

 だが〈機構〉は〈機構〉で、己の版図と同志を増やすのに躍起になっているだけなのだ。

 確かに〈機構〉は、惑星改造に関する技術を持っている。だがそれ故に、連中は真っ先に地球で暮らすことを放棄し、地球人である誇りを捨てた。

 かつての〈地球政府〉から要請を受けて始めたこととはいえ、惑星を次々に開発し、結果このような事態をもたらした張本人――それが〈惑星開発機構〉なのだ。信用するべきではない。信用すれば、いいようにあしらわれるのは目に見えている。

 恐らく天王星で採掘される希少金属の搬送先が、〈月・火星連邦〉から〈機構〉へ変わることになるだけだろう。地球の再生にしても、海王星開発に着手しはじめたばかりの〈機構〉に、その余裕などない。なんだかんだと理由をつけ、後回しにするに違いないのだ。

 と、逸早く天王星を脱出した者たち――即ち〈地球へ還る者〉は訴えたが、〈機構〉の考えに染まってしまった者たちには、全く聞き入れてもらえなかった。

 そして天王星が血みどろの戦いを経て、自治権を得てから八年。

 あの惑星はいまだ貧困に苦しんでいる。戦いに無駄な資金を費やしたため、復興に時間がかかっているのだ。

 食料事情も改善されていない。いや、〈機構〉の「ありがたい援助」によって多少は供給量も増えてはいる。が、〈機構〉にしても余剰分はたかがしれてる。結局、不足分は以前と同じように、〈連邦〉から足元を見られた高い食料を輸入する体たらくだ。

「彼らは馬鹿だ。独立はまだ早すぎた」

 シニカルな笑みを浮かべたレイは呟き、想いを廻らせるように目を閉じた。そして彼の意識は、そのまま闇の底へと沈んでいった。


 リディアはむしゃくしゃしていた。

 〈笛吹き男〉ラッテンフェンガーを仕留めるべく慎重に事を運んでいたのに、捕らえ損ねてしまった。

 〈亜種ワーム〉を発見した〈グレムリン〉たちを恨むつもりはないが、それでも少年たちのタイミングの悪さに苦い思いを抱かずにはいられない。

 なにしろ異変に気づかれ、急襲するつもりだったアジトはもぬけの殻。突入班はトラップに引っかかり部屋は炎上、街はパニック。運良く仲間らしい小僧を発見し〈笛吹き男〉ラッテンフェンガーの潜伏先を掴んだはいいが、火事による通行規制で迂回させられ、ようやく駆けつけたときには逃げられた後。おまけにジェイクの部下がドジを踏み、小僧まで見失ったときたもんだ。

 小僧がもう一度端末の機能を使ってくれれば、再び彼らの足取りも掴めるだろう。が、彼とてそこまで浅慮ではないはずだ。

 そしてリディアにとって〈笛吹き男〉ラッテンフェンガー以上に重要な人物も、まだ居場所の確認がとれていない。

 つまりこれまでの努力は水の泡。捜査はまた一からやり直しだ。ハズリットとの約束は破ることになるだろう。今度こそ全て片づけ、娘のもとに帰るつもりだったのに。

 娘と仕事の狭間に挟まれ、身も心もへとへとになったリディアは、重い足を引き摺りながら〈旧市街〉へと戻った。

 混乱していた街も幾分落ち着いたようだ。それでもまだ、いつもより人通りは多い。その大半が好奇心旺盛な若者たちだ。彼らは仲間がいることで気が大きくなっているらしい。無遠慮にアパートを覗き込んだり住人をからかったりと、未知の世界の冒険を楽しんでいる。

 迷い込んできた〈新市街人ノイアー〉たちと楽しく「戯れる」のが好きな〈旧市街人アルター〉たちは、今日に限って大人しかった。そこかしこでパトロールの目が光っている。藪を突つくのを恐れているようだ。

 だが住人たちも、このまま〈新市街人ノイアー〉に好き勝手させるつもりはないだろう。若者たちが引き際を見極められなければ、一悶着あるかもしれない。

 リディアは若者たちにひとこと注意を促してやろうかと思ったが、変に絡まれても面倒だと考え直し、できるだけ人通りの少ない道を選んで、我家であるアパート〈楽しき郷マグ・メル〉に辿り着いた。

「リディアかい? ったく、とんだ〈聖夜〉になっちまったもんだよ」

 地上部の表玄関を入ったリディアに気づいたのか、マーゴが管理人室から顔を出した。

「ホント。結構大きな火事になったらしいね」

 リディアは言葉少なに相槌を打った。火事の詳細は報道メディア以上に知っていたが、マーゴにそんな素振りなど見せるわけにはいかなかった。

「さっきニュースで言ってたけど、ようやく住人を避難させて一帯を閉鎖したってさ。それでも何人もが逃げ遅れたっていうじゃないか。まったく、祝福の日になんてことだろう!」

 そう言ってマーゴは大袈裟に天を仰ぎ、犠牲者のために祈りの句を唱えた。

 閉鎖空間における火災は厄介だ。

 延焼を防ぐために通路を封鎖し、エアダクトから供給される大気の酸素分圧を下げるのだが、タイミングを間違えるとさらに悲惨な結果となる。早過ぎれば安全な場所まで避難しきれなかった住人を犠牲にするし、遅すぎれば街ひとつが火の海になりかねない。

 カリストのように呼吸可能な大気を持つ〈開放型〉都市なら、まだ〈外〉へ逃れるという手がある。だが軌道および小惑星ステーション、呼吸可能な大気を持たない土星、天王星系といった〈密閉型〉都市では、対応が遅れると避難した先にまで火の手が及ぶ危険があった。

 今回の火災では当局の対応が早かったため「史上最悪の大惨事」にはならなかったものの、それでもマーゴが嘆くほどの被害者が出てしまった。

「それよりマーゴ。まだ通りを物好きな〈新市街人ノイアー〉のガキんちょたちがうろついてるから、戸締りはキッチリしときなよ。入り込まれて騒がれでもしたら、面倒だからね。地下の玄関は閉めてある?」

 放っておけばいつまでも祈っていそうな管理人に、早く部屋へ戻りたかったリディアは声をかけた。

「え? ああ、もちろんだよ」

 マーゴは我に返ると肯いた。

「今日は他の連中はもう帰ってこないだろうから、ここも閉めちまうことにするよ」

「それがいいね」

 リディアはうなづき返すと、軽く手を挙げて管理人に背を向けようとした。

「あ、お待ち!」

 部屋へ向かうリディアを引き止めたマーゴは、一旦管理人室へ引っ込むと、なにやら載った皿を手に戻ってきた。

「よかったら食べとくれ」

 差し出された皿には、ハーブやスパイスの詰め物をした七面鳥や茹で野菜、クランベリーゼリーといった〈聖夜〉料理が盛り付けられている。加えてリディアを喜ばせたのは、「ハギス」だった。羊の内臓のミンチを腸詰にして茹で上げたその料理は、彼女の地球時代の祖先から伝わるものだ。癖があるので人を選ぶが、リディアは好んで食べている。

「わぁ、おいしそ。実はなんにも食べてなかったのよね。作る手間が省けたわ。ありがと」

「作る気もないくせに、よく言うよ。いいかい。たまにはハズリットに、母親の料理を食べさせてやんな。でないと――」

「はいはい、理解わかってるって。じゃ、よい〈聖夜〉を!」

 本格化しそうだった管理人の説教をリディアは遮り、早々に退散する。マーゴに心配をかけないよう、軽快な足取りで階段を上るのは少々きつかった。

 やっとの思いで最上階にある我家の前に立つ。上がった息を整えながら鍵を開けたリディアは、勢いよく玄関の扉をひらいて息を呑んだ。

 自分の家に奴がいた。

 しかも物音にも気づかず、長椅子の上で無防備に眠りこけている。

 起きる気配がないと判ると、リディアは足音を忍ばせもせずに食卓へと移動した。七面鳥の皿を置いて、ショルダーバッグから拳銃を取り出す。そして足早に奴の前へと進む。

 彼女は無言で青年を見下ろした。青年は無垢な赤ん坊のようにすやすやと眠り続ける。

 俄かに、封印していた記憶が蘇ってきた。

 以前も自分はこうやってこの寝顔を見つめていた。その時こそが全ての始まり、自分が罪を犯した瞬間だった。

 そしてその罪は、いまあがなわれる。

 彼女はこみ上げてくる様々な感情を、無表情の仮面の下に押し込めた。

 安全装置を外し、眉間を狙う。この男さえいなくなれば、自分の心は解き放たれる。娘のもとへ帰れる。引き金を絞れば念願は叶う。

 しかしリディアは青年を見つめるばかりだった。

 次第に構えた腕が重たくなり、トリガーにかけた指が痙攣したようにかすかに動く。

 不意に、青年が目を開いた。

 彼は目の前にある銃に驚いたのか、一瞬目を瞠ったが、その持ち主がリディアだと判ると表情を和らげた。

「やあ」

 間延びした口調で青年は挨拶する。一方リディアは、凄みを利かせた笑みを彼に返した。

「不法侵入しといて、よく呑気に寝てられるもんだね、レイ」

「あんまり静かで居心地がよかったから、つい。久しぶりにぐっすり眠った気がするよ、リディア」

 突きつけられた銃に怯えることもなく、レイは穏やかに微笑んだ。その落ち着いた態度に、リディアの眉間が険しくなる。

「何しに来たの?」

「忘れ物を始末しにきただけだ。でも、もう片づいたから帰るよ」

 そう言ってレイは腰を浮かせた。

「動くなっ! 撃つよ?」

 リディアに一喝され、立ち上がろうとした青年は苦笑しながらもう一度腰を下ろした。かすかに緑がかった青い瞳をリディアに向け、クスリと笑いを洩らす。

「気の強いところは、変わってないね」

 余裕を見せるレイに、リディアはますます苛立った。ついに抑えきれず、爆発した。

「どうして部屋に火をつけた? どれだけの死傷者が出たと思ってるっ!?」

「それについては悪い事をしたと思ってるよ。でも俺にだって、そうせざるを得ない事情があった。それは君にも理解わかるだろう?」

 ばつが悪そうに肩をすくめた放火犯は、邪気のない目で同意を求める。求められた方は幾分声の調子を下げ、青年を諭すように囁いた。

「あんたたちは、やり方を間違えてる。地球を再生する――その理想は立派だと思う。でもその目的を遂げるために、他人を傷つけていいわけじゃない」

「君たちだって、我々を〈狩る〉じゃないか。我々の仲間を捕らえて、一生出られない檻の中に閉じ込めている。抵抗すれば、殺しもする。どう違うって言うんだ?」

「あんたたちはその覚悟で行動しているんだろう。でも一般人は違うっ!」

 青年の口答えに〈狩人〉は声を荒げかけたが、すぐ我に返って大きく息をついた。己の信念のみに従って行動する確信犯に、何を言っても無駄だ。

「まあいい。とにかく、あんたたちがカリストでやろうとしたこと、あんたたちの仲間のこと、全部話してもらう」

「それはできないな」

「じゃあ、死んで」

 さらりと物騒な言葉を吐いたリディアに、レイもさらりと答えた。

「いいよ」

 この返事にリディアの方が動揺した。

「な……」

「俺が死んでも、誰かが跡を継ぐ。俺もこれまで、志半ばで死んでいった仲間の遺志を継いできたんだから」

 真っ直ぐリディアの顔を見据え、青年は静かに言った。

「さあ、撃てばいい。それが君の仕事なんだろ?」

 開き直った青年の気迫に圧倒され、リディアはたじろいだ。それでもなんとか脱力して下がりかける腕に喝を入れ、拳銃を構え直す。

 しかし引き金を引くことはできなかった。

 撃つんだ、リディア。そうして自分の犯した罪をあがない、娘を守るんだ。

 そう自分を鼓舞するが、それでも動けなかった。

 この男と対峙したとき、迷わないと誓った。絶対に撃つと、撃てると信じていた。なのになぜ、この期に及んでためらうのだ。

「どうした、撃てないの? それともあの時みたいに、また見逃してくれるの?」

 長椅子に浅く腰掛け、澄んだ目でリディアを見上げている青年は、子供のような口調で問いかける。

「そんなことをすれば、あたしはまた、自分の罪に苦しまなければならない」

 唸るようにリディアは答えた。

「罪――?」

 思いもかけない言葉に、レイはきょとんとなった。不思議そうに首を傾げる。

「あんたに近づいたのは間違いだった。あんたを選ばなければ、〈機構〉や、クラウスを裏切ることにはならなかった。あんたを選ばなければ……」

 リディアの声は弱々しく途切れた。

「罪だというの? 二人が心を通わせ合ったことを」

 レイはゆっくりと手を伸ばす。

「俺は後悔なんてしていない。君の誘いに乗ったことも、それによって仲間を裏切りかけたことも」

 レイの長い指が、かすかに震えるリディアの手に触れた。指は彼女の手の甲を伝い、手首へと届く。だがリディアは抗議の声をあげなかった。何が起ころうとしているのか判らなかった。頭の中が痺れたようになって、考えがまとまらない。

「――後悔してないよ」

 その手がそっと引っ張られる。

 リディアは崩れるように青年の上へ落ちた。銃は彼女の手から離れ、青年の腕は彼女の背中へ回される。

 抱きすくめられたリディアは青年の胸に顔を埋め、しばし茫然としていた。他人事のように、内なる自分が呟いている。

 この男の胸は、こんなに広かっただろうか。あの時はまだ、二〇歳になるかどうかの少年だった。腕ももっと細く華奢で、力も自分の方が強いぐらいだった。

 それまで、素直で人を疑うことを知らなかった敵の電算技師。〈機構〉を見限ったと偽って潜入した自分の面倒を親身に見てくれた。彼はいつも瞳を輝かせ、命を生み出した地球の素晴らしさ、そして失われてしまったものを取り戻したいという自分の夢を語っていた。

 その澄んだ心に、自分はつけこんだ。

「俺は自分の気持ちを偽ったことはない。あの時も、いまも――」

 耳元でレイが囁く。

 リディアは上半身を起こすと、青年の瞳を覗き込んだ。彼の瞳は青からみどりへと変化していた。

「作戦に参加するんじゃなかった。そうすればあんたに出逢うこともなく、あたしはクラウスと結婚して幸せな主婦になっていた」

 虚ろな呟きがリディアの口から洩れる。

「……でも、志願したのはあたし。進んであんたたちの行動や目的を探る役目を買って出た。男より女の方が、あんたたちも油断するだろうから」

「確かに油断した」

 青年が苦笑した。

「そして君は任務を果たした。我々は優秀なチームをひとつ潰された」

「でもあたしは罪を犯した。やってはいけないことをやってしまった……」

 リディアの視界が曇りはじめた。微笑む青年の顔が歪む。胸が詰まって苦しかった。

「あんたを逃がし、あの子を産んだ――」

「ハズリット……」

 〈機構軍〉の特殊部隊がアジトを襲撃した。そのときリディアの気紛れによって落延びた青年は、命の恩人が産んだ子の名を呟いた。そして訊ねる。

「どうしてその名前をつけたの?」

「あたしが罪を犯したから。その罪を忘れないため、罰としてつけた。あんたの名を――レイ……レイモン・ハズリット」

 リディアは喘ぐように、青年のフルネームを呼んだ。それは彼とリディア、ふたりだけしか知らない名だ。青年は〈地球へ還る者〉へ身を投じるにあたって、〈機構〉システムから己に関するデータを全て消し去った。現在の彼は、ただの「レイ」でしかない。

「クラウスという婚約者がいたのに、あんたに惹かれてしまった。それがあたしの罪」

 潜入先で利用するだけのはずだった若者に、深い情を寄せてしまった。しかも彼の子まで宿すことになった。これを彼女の属するものへの裏切りと言わずしてなんと言おう。

「犯した罪は、あがなわなければならない。あんたを捕らえて知っていることを全部吐かせてから投獄するか、この場で始末するか……」

「情報がほしい〈機構軍〉にとっては、生け捕りを望んでいるんだろう?」

 レイが皮肉に口元を歪めて合いの手を入れる。

「でも」

 苦しそうに閉じたリディアの目から、大粒の涙が零れ落ちる。

「あたしは、あんたにもうこの世から消えてもらいたい。そうすれば、あんたの影に怯えなくてもすむ。あんたのもとへ走りたいという衝動に苦しまなくてすむ。〈機構〉や仲間、クラウス……そしてあの子を裏切らずにすむ――」

 言葉は嗚咽へと変わった。

 レイは手を伸ばすと、頬を伝うリディアの涙に触れた。そして彼女を引き寄せ、濡れた頬に口づけた。

「死ぬときは地球でと思ってたけど、それで君の苦しみが失せるのなら、そうすればいい。俺は構わないよ」

「……でも、できなかった。さっきあんたが眠ってる間に終わらせようと思ったけど、できなかった」

「それは困ったな。さすがに自分で死ぬのは怖い」

 レイは本当に困ったように顔をしかめ、苦笑した。

「どうして、死んでもいいなんて言うの?」

 自分で死んでくれと言いながら、リディアは彼の同意が腑に落ちなかった。彼には「再生した地球に立つ」という夢があったはずだ。その夢を捨ててもいいというのか。

 リディアの問いに、レイは言葉を探すように視線を彷徨わせた。しかしすぐ、間近にある赤毛の女性の顔に目を戻すと、自嘲めいた笑みを浮かべて答えた。

「君の言い方を借りるなら、『俺も罪を犯した』から――かな。でも俺は、罪だなんて思ったことはなかったし、いまでも思わない。そして俺は、君に死んでほしくはないし、苦しんでもほしくない。だから俺のせいで君が苦しんでいると言うのなら、その苦しみの根源である俺が消えてもいい。って、なんかそんな気分になったんだ。どうせ俺が生きている間に、地球の再生なんて実現しないんだし。――ああ、それでかな。用事を済ませても逃げる気にならなかったのは。こうやって君の苦しみを受け止めなきゃならないって、予感していたのかもしれないね」

 ひと言ひと言を区切るようにゆっくり発音したレイは、自嘲を屈託のない笑顔に変えた。

 その言葉と笑顔に、リディアの心が軋む。

 どうしてこの男に惹かれてしまったのだろう。

 クラウスへの気持ちは、上司と部下のとしての信頼を積み重ねて得たものだ。それ故に安定し、揺らぐことなどないはずだった。

 しかしこの男と出逢った瞬間、その自信は崩壊をはじめた。

 幼い子供のように突拍子もない夢を語るレイは、地に足の着いた考え方をするクラウスとは対照的だった。生涯の伴侶にするならクラウスが堅実だ。しかしレイの話を聞くうちに、夢を叶えた彼の姿を見てみたくなった。夢を実現しようとする彼の姿を、傍で見守りたくなった。そのために、〈機構〉を裏切る気にもなった。

 だが結局、彼の属する組織の、無差別の暴力でしか意見を述べることができないという体質を受け入れることができず、婚約者のもとへ帰る道をリディアは選んだ。

 青年は記憶の中の存在となった。しかしうつつならぬものゆえに、その姿は日を重ねるごとに美化され、彼への想いは時を刻むごとに募っていった。

 そんなある日、娘がうつつの存在となった。

 リディアの心は複雑に変化した。男を求める女としての自分と、娘を守ろうとする母親としての自分。

 どちらか一方を選ばなければ、自分の心は引き裂かれてしまう。

 そしてリディアは〈うつつ〉を選び、〈記憶かこ〉を断ち切るために〈狩人かりびと〉となった。

 しかし再び青年とまみえ、〈記憶かこ〉が〈うつつ〉となった現在いま――。

 リディアの心は大きく揺らいでいた。

「もうどうすればいいのか、自分がどうしたいのか、理解わからなくなってしまった」

 苦しげに、リディアは顔を歪めた。その頬を暖かなレイの手が包み込む。ふたりの距離は、お互いの息が触れるほどまで近づいた。

「じゃあ少しの間だけ、考えるのを休もうよ。時間をおいてからまた、落ち着いて考えればいい」

 レイはそう囁き、リディアの唇をついばんだ。

 その懐かしい感触に、彼女の中の何かが弾けた。

「レイ……」

 リディアの口から吐息のような声が洩れる。直後、彼女は殺すつもりだった者の唇を貪っていた。舌を絡め、青年のくすんだ金髪を掻き抱く。

 レイの手がリディアの頬から肩、背中へと滑り落ちる。

 ふたりの間を隔てているものを取り除くため、お互いの手が動き出す。

 ハズリット……。

 リディアの脳裏に娘の顔が過ぎったが、それはすぐ押し寄せてくる大きな波に呑み込まれ、深い海の底へと沈んでいった。

 うねる波は次第に輝きを増し、彼女の理性を分解していく。代わって感覚が彼女を支配しはじめる。

 やがて波は、彼女自身さえも呑み込もうとした。

 一切の思考が停止する寸前――リディアは「自分の罪は、決して消し去ることなどできないのだ」と気づいた。

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